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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.17)

                               家長の務め



モーセはしゅうとに、「民は、神に問うために私の所に来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、私の所に来ますので、私はそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示を知らせるのです。」と答えた。モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重過ぎて、一人では負い切れないからだ。私の言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道と為すべき事を教えなさい。」
                                                                                             【出エジプト記18章15〜20節】


「長(オサ)」の為すべき務め
 父なる神は、イスラエルの全家を導くべく、一人の指導者モーセを召し出しました。しかしだからと言って、父なる神はモーセに対して、イスラエル全家の「重荷(問題、事件、訴訟等)」を全て担い、それらを裁定するようには命じませんでした。モーセの為すべき本来の「務め」とは、①神の「杖」をもって、イスラエルの全家を導き、②ひたすら神を見上げつつ、③神から授かった各「掟」を民に教え知らしめ、④イスラエルの人々を霊的に見守り(見張り)執り成す、この四点に集約できます。


 ところが、いつしかモーセの「霊」の中に、「私こそ、イスラエル全家のリーダーである!この私が頑張らなければ、イスラエルの民は安全に前進できない!」などの、自意識(プライド)も生じてきました。モーセのことを、陰からずっと見守っていた義父(しゅうと)エテロは、余りにも「婿(モーセ)」が、負担し切れない程の「多忙」に見舞われていることに気付き、「あなたのやり方は良くない。」(17節)と警告しました。


 「長(オサ)」と名の付く立場にある人々、例えば「家長」「長老」「牧師」などにとって、その「責任」と「務め(役割)」は、非常に負担の大きいものです。それ故に、最初は使命感をもって純粋に、何とか「お務め」をこなしていくのですが、次第に負い切れない程のものを、ついつい抱え込んでしまい、例えば牧師家庭と言えども、夫人や子供たちに何らかの弊害を与え、本来は麗しい「キリストの家族」のモデルであるところを、逆に家族がバラバラになって、子供たちが「教会」から離れるといという現象が、多くの教会の中で度々見られます。その最大の原因は、このストーリーに見られる、モーセの姿勢と同じものですが、余りにも牧師(教会の長)が、自分の「家族」に対する関りよりも、牧師としての「務め」を優先するために、自分一人で負い過ぎてしまっているからです。


 本来「教会(エクレシア)」とは、例えば父なる神の「命令」により、「牧師とは、〜の荷を負いなさい!」、「リーダーは、・・・・であるべきです!」、「教会を・・・・のような組織にしなさい!」などと、具体的に役割が明確化された、この世の「組織」とは違います。ただ「聖霊様」にのみ従いつつ、何よりもキリストの「教え」から、一人も逸脱することが無きよう、教会の各「長」は熱心に祈り合い、各々の「霊」が如何なる「道」を歩いているのか?このことを神に問いながら執り成すことです。


 そして、ある時には適切な「助言」と「勧め」をすること、これがキリスト者の「指導者」が為すべきことです。決して「上」からの論理(教理)をもって、彼らをコントロールしたり、違反者たちに厳しい処罰を下すなどの、いわゆる「刑務官」になってはならないのです。むしろ悪しき「悪霊」が、イエス・キリストに反する「偽りの教え」をもって、群れをかく乱しようと様々に働きかけてくる、このことを霊的にしっかり見張る、これが「長」の負うべき聖なる「務め」です。


エテロの「助言」
 私たちは、本来「キリストの家族」として、この世の「家族」からも、霊的に羨ましがられる程の、麗しい神の「祝福」と、聖なる「一致」にあずかっているべきです。エテロはモーセに勧告しました。「あなたの為しているこれらのことは、神が定めている本来の正しい道から、既に逸脱している!」と。それに対してモーセは、決して「怒り」を顕わにしませんでした。恐らく、「怒り」の感情も出て来ないほどの、疲労困ぱいの中にあったのでしょう。モーセは、エテロの「進言(勧告)」を聞いている内に、「確かに義父さんの言う通りだ!私はいつの間にか、自分自身で全てを請け負い、抜け出すことの出来ないほど、深い迷路に迷い込んでいる。」ことに気付かされました。


 私たちの現実の生活にも、この種の霊的迷路に陥るケースが、性格的に「責任感」の強い人、いわゆる「長子」の人々の中に度々起こります。はっきり覚えて戴きたいことは、神から見て霊的迷路に陥ることも、実は「罪」に当たります。最初は、自分が為している訳でも無いのに、悪霊が「自意識」を駆り立てて、「責任感」という言葉(タテマエ)を借りて、次第に自らの「務め」を確立すること、これは神から見て喜ばしいものではなく、「罪」への道を歩んでいる、誤った霊的姿勢になります。


 エテロは更に進言しました。「あなたが軌道修正するためには、再び神からの安息を戴き、神があなたに対して、何を望もうとしておられるのか?それを神に問うべきだ。そしてあなたが、再び本来のポジションに立ち返るべく、その正しい道を歩むことが出来るよう、私がある助言を与えよう!」と。エテロが具体的に進言した、神からのメッセージは「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道と為すべき事を教えなさい。」という内容のものです。これが「キリストの家族」の中にあって、私たち(長)の為すべき務めです。


 聖霊様はエテロの如くに、私たちに言われます。「神があなたと共に、いつもおられるように。神があなたに代わって、全てのことを導きますから、あなたは先ず神の御心を求めなさい!あなたが動くのではありません!私自らが、あなたに代わってあなたの進むべき道、また為すべきこと、それら全ての神のご計画を、あなたに必ず教えます。それ故あなたは、ただ私に付き従って来なさい!」と。


 私たちは、モーセとイスラエルの民に付与された、父なる神の「掟」を霊的に学んで参りました。それを「学ぶ」と同時に、私たちは決して神の「掟」を、自分の肉の業で完成する(遵守する)のではなく、聖霊様の助言を求めつつ、「主よ、あなたのご計画のみを求めます!私の計画は全て放棄します!」と信仰告白することによって、神の「御心」のみを求めましょう。そして聖霊様の「助言」に対して、へり下って「聞き従う」こと、これが重要です。聖霊様は、あなたが神の「ご命令」に聞き従い、それをことごとく「守り行う」ことの出来る、「力」と「助け」を与え、そして必要な「知恵」を示して下さる方です!


聖霊様の「助け」
 この後モーセは、エテロの「助言」通りに、イスラエルの民の様々な「問題」を、各部族毎に細分化し、各部族の「長(リーダー)」たちが、自主的に裁定できるよう、、「務め」を自分の「手」から放棄(彼らに任せることに)しました。モーセに示した神の「知恵」は、決してピラミッド型の役割分担システムではありません。父なる神が各部族の「最高の長」であり、各「家族」の真の家長として、イスラエルの全家を豊かに祝福しているか否か?このことを各「リーダー」が真剣に見張り執り成すよう、モーセは彼らに聖なる「務め」を任じたのです。


 私たちも、この時のモーセの霊的姿勢に見習いつつ、「何もかも自分で負う!」という、悪しき自意識から脱却して、「全ては、先ず神に委ねる!そして次に、神の御心を尋ね求める」という、聖霊様の「導き」に従って参りましょう。私たちの進むべき「道のり」は、いつも新しく整備された舗装道路のように、簡単に前進できるものとは限りません。


 ある時は道が陥没したり、「泥沼」のような道を歩む時があるかも知れません。そのような「逆境の道のり」の中にあっても、どのように身を処すべきか、また「どうして、こんな道を歩まねばならないのか?」などの、心のアク(葛藤)を上手に取り除くことの出来る人たちは、人生を長き渡って歩んだ来られた「老世代(エテロ)」です。それと同様に私たちの「聖霊様」は、常に私たちの側にいて「歩調」を合わして下さり、「正しい道」へと導いて下さる方です。このパラクレートスなる方、聖霊様の「助言」と「知恵」が、折に適った「恵み」として、あなたに与えられることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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