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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.20)

                      巻物が開かれる時




・・・・祭司エズラは律法(申命記)を、会衆の前に持って来・・・・夜明けから正午まで、それを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。・・・・エズラは、皆が見守る中で、その書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主を讃えると民は皆、両手を上げて、「ア-メン、ア-メン」と唱和し、跪いて、頭を地に伏せて、主を礼拝した。・・・・次いで・・・・レビがその律法を民に説明し・・・・彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその説明を理解した。
                                                                                                【ネヘミヤ記8章1節~8節】


霊的姦淫の罪
 イスラエルの人々は、自民族の辿った「歴史」を、代々に渡って教え継ぎました。何故なら、彼らは良きにも悪しきにも、人の罪が故の失敗(その殆どが他国の神々を祭るという霊的姦淫)の数々を、決して忘れぬよう記録として語り伝え、そして更には未来への警鐘として、神の「御心」のみを求める、基本的な信仰の歩みに関する、霊的な「道しるべ」としたのです。


 今回の記事のキ-ワ-ド、それは人の持つ「霊的な姦淫(浮気性)」の罪です。本来キリストの花嫁である、私たちキリスト者は、花婿イエス・キリストのみに、信仰の土台を据えて歩む、どっしりとした(重き)生き様を示したいところですが、実際には「この世」のことで、アレやコレやと動き回る、「軽い(浮つき易い)」存在です。


 そういう意味で私たちキリストの花嫁も、イスラエルの民の歴史的使命を、第一に知る必要があります。主なる神の「罪人」に対する愛は、ホセアがゴメル(遊女)を何度でも買い取った、その忍耐深い「贖い」の行為に見られます。憶えて戴きたい事実、それはキリスト者(贖われし者)と言えども、いつでも「罪の道」に軽く戻る、霊的姦淫の性分を持つ、ゴメルの如き者である!という点です。


 そうです!私たちは神の「御心」により、永遠の「救い(贖い)」を無代価で受けたにも関わらず、その貴い「贖い」の恵みを忘れ、他のものに心を惹かれる、そんな浮気性を持ち併せています。イスラエルの民の歴史は、いつも同じパタ-ンの繰り返しです。ある時は真摯になり、神の御前で謙虚に生きるのですが、暫くしますと他の神々に、瞬く間に心を惹かれる等、この愚かな歴史的繰り返しが続きます。と言うことは、イスラエルの民の歴史を見れば、私たちが何を為すべきかが、全て見えてくる訳です。


巻物が開かれる時
 イスラエルの民の要請により、書記官(祭司)エズラが巻物を開きました。その巻物とは、モ-セ五書の一つ「申命記」です。「申命記」とは神のご命令、特に礼拝に関する神の法規が、事細かく記されたものです。「礼拝」とは、私たちの主なる神に対する「忠誠(誠実)」を示す行為です。民たちは自覚していました。霊的に愚かな姦淫の罪を犯し続けた結果、目の前の無残な「現実」が続いていること、即ちかつての12部族が、共に助け合う共同体とは懸け離れ、貴族が自国の民から搾取するという、非常に嘆かわしい姿を。


 そして民たちは、自分たちが何を先ず求めるべきか、聖霊様の導きにより気付きました。即ち神の「御言葉」に対して、自分たちが謙虚に聞き従うことから始めなければならない!ことを。それ故に民たちは、エズラに願い出たのです。再び神の「御言葉」を開いて下さい!と。そして巻物が開かれ、その文言が朗々と読み明かされる時、素晴らしい神の「御心」が、民に対して降り注がれました。


 すると民たちが「偉大なる神よ、あなたは素晴らしい主です。この場に、私たちを呼び集めて下さったのは、あなたご自身です。敵を前にしても私たちが、あなたの守りの中にあることを感謝します。」と、一斉に賛美の叫び声を発しました。そして同時に「申命記」が、六人の専門家(ヘブライ語からアラム語に通訳するレビ人)によって、次々と説き明かされたのです。それは何と、早朝の日が昇る時刻から、延々と昼頃まで(約6時間)続いたのです。


 つまり全ての者が、神の「御言葉」に対して、純粋にへり下って聞き従うなど、聖霊様の働きが「人の時」を超えて、豊かに支配していたのではないでしょうか。仮に今の主日礼拝において、この時同様に朝の8時頃から、昼(正午)を過ぎた3時頃まで、延々と礼拝が続いたとしたら、途中で「あ-(賛美する)声が疲れてきたな!」、「あ-、もう限界。腹が減ってきたな!」などと、様々な「人の時」を思い巡らし、ついつい気が浮つくのではないでしょうか!


 しかしこの時は、聖霊様が「人の時」を超えて、一気に働かれるものですから、人の側からの「計算」や「心配事」は皆無でした。そうです!これが神の御業です。私たちが「人の時」を、あれこれ心配したり、礼拝中に神の御心を思うのではなく、人間的な思考を巡らすこと、これが霊的な浮気の一つです。妹マリヤの如くに、私たちが神の御心のみを欲し、神の言葉のみを慕って、霊的に神と親しく交わる、これが真実の礼拝です!


 さて主なる神が、私たちを「この世」から贖い出し、救いの民として選んでいて下さる理由は、私たちがイスラエルの民と同様に、神の愛を示すモデル(雛形)だからです。ですから、私たちが「この世」の事柄に対して、再び霊的に浮つくのであれば、それは神の「悲しみ」となります。私たちが神の「御言葉」に対して、如何に純粋に聞き従うか否かが、今!まさに問われているのです。


 私たちは如何なる状況にあっても、「私の霊的花婿なるイエス様!あなたは私を、如何なる時にも、如何なる状態においても、私を愛して止まなく、決して飢えさせることもなく、常に満たして下さいます。また敵を前にしても、圧倒的な勝利者となる程の豊かな祝福を、天より満たして下さる方であることを感謝します!」と、常に賛美し続ける「信仰の民」です。


 益々日本国は、ネヘミヤ記の時代の時のように、非常に危機迫る様相を呈する、そんな敵に囲まれた時代に突入しています。その中にあって、私たちキリスト者は、どう生きるべきでしょうか?私たちは決して、「この世」の事に倣ってはなりません!「この世」に生活していても、「神の国」という大いなる霊的次元の中にあって、私たちは「神の国民」であり、イエス・キリストの花嫁(皇太子妃)としての歩みが、私たちに委ねられているのです!


 そうです!私たちの信仰の歩みには、聖霊様の絶えざる働きにより、神の巻物が常に開かれています。私たちは先ず立ち上がり、そして神を昼夜賛美し続け、遂には神の「御言葉」の奥義に聞き従っていく、栄光ある「キリストの兵士」でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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