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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Hope(No.4)

       今、「光」は輝いている!




光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。・・・・
                       【創世記1章5節】


主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じる程にしなさい。」モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分の居る場所から立ち上がることも出来なかった。イスラエルの人々が住んでいる所には何処でも光があった。
                      【出エジプト記10章21~23節】


第三の「秩序」
 「真実の光」の源なる方、主なる神の栄光の訪れには、神の創造の第三の「秩序」として、「輝きを投じ、輝きを与える」為に働くこと、この素晴らしい役割(ミッション)があります。然り、輝く為に光は存在します!ところで創造主なる神は、ご自身が大地と定めた(領域区分した)、光が投じられるフィールドのことを「昼」、そして光が投じられないフィールドのことを「夜」と、それぞれに命名した訳ですが、この「夜」の暗闇が去った後に、必ず「昼」の輝きが訪れる時代、それがまさしく「今の時」かも知れません。


 創造主なる神の栄光の「輝き」は、最初のアダム(エバ)の創造を通して、偉大なる神の御業が一旦は開始されました。しかし、彼らが「暗闇の声」を聞いた(受け入れた)が故に、「真実の光」の拡大が終了したように見えましたが、主なる神はそれを「良し!」とはされず、むしろ彼らの「失敗」を通して、神の「救い(贖い)」の次元を、新たに開始する(切り開く)ことになります。


光の「輝き」が臨む時
 では主なる神は、具体的に「真実の光」の輝きを、どのように臨もうとしておられるのか?それが今回の記事から学ぶべき、第一の重要ポイントです。「神の事実(歴史の流れ)」としては、「真実の光」なる御子イエス・キリストが、天の御国に還って行かれた訳ですから、私たちが神の光の「輝き」を「どのように運べばよいのですか?」などと思って、中々進み行くことが出来ないかも知れません。


 しかし、イエス・キリストは昇天される直前に、不信仰に悲嘆する弟子たちに対して、偉大なる預言的勅令(遺言)を宣言されました。「しかし聖霊が、あなた方の上に降られる時、あなた方は天よりの力を必ず受ける!その時から、あなた方はエルサレムに始まり、果ては地の隅々に至るまで、(死から復活し、今も尚生きて働く方)、然りイエス・キリストの証人となる!」と(使徒行伝1章8節参照)。この御言葉には、「輝き」という言葉は用いらていません。しかし私たちは、次の「神の事実」も知っています。即ち、バプテスマのヨハネを通して、イエス・キリストが洗礼を授かった時に、聖霊が降って来て、彼の上に留まった、まさに「その時」、イエス・キリストの御顔に、天上の「輝き」が灯された(臨んだ)!ことを。


 そういう意味で、モーセの時代に起きた神の「栄光」の訪れ(輝き)を、私たちが霊的に学ぶことで、①私たちが最終的に何処に向かって進んでいるのか?②私たちが「輝き」を戴いた以上、誰に対して「輝き」を届けるのか?この二点について、私たちは正しく知る必要があります。


闇が臨むとは?
 神に反抗し続けるエジプトに対して、主なる神は偉大なる創造の御業を、この時のモーセに託しました。「あなたの杖を握る手を天に挙げよ!そして命じなさい。『闇よ、エジプト全土に臨め!』と」。モーセはその瞬間、思わず驚愕しながら問います。「え!その闇って何ですか?」と。すかさず聖霊様は、躊躇するモーセに命じます。「あなた方の考える闇(夜の闇)ではない!それは手に掴むこと出来る闇であるが、あなた方には決して追い払うことの出来ない闇である。その闇が臨む時、恐怖のみが全てを支配し、暗闇の中で身動きが取れない程の、まるで凍り付いた状態に、全てのものが闇に縛られる。だからあなたは信じて、ただ一言、闇に命じなさい!」と。


 モーセの「唇」を通して、全能なる神が遣わした(送った)「闇」が、エジプト全土に放たれた瞬間、国家として成り立たなくなる程の、絶望(国土壊滅)的状況が出現しました。しかも「三日間」だけ。しかしエジプト国民は、この「三日間」を耐え切ることが出来ませんでした。恐らく「闇」が臨み始めて、数時間経っただけで、「もう駄目だ!我々には死あるのみだ。」などの、絶望的な心理状況に追い込まれました。


輝き続けたイスラエルの民
 しかしイスラエルの民の中(生活環境)には、創造主なる神の「真の光」が、更なる「輝き」を伴って、燦燦と照らし続けたのです。これが第二の重要ポイントです。ですから彼らは、「平安」から「平安」へと導かれ、敵(ファラオ勢力)からの「罵り」と「嘲り」などの迫害は、この「三日間」一切ありませんでした。そうです!この時から彼らの「霊」から、「恐れ」「不安」「悲しみ」などの暗闇の次元が、完全に追い払われました。神の偉大なる「光(栄光)」の次元だけが、彼らの全てを覆うことになったからです。


 私たちの生きる「今の時」にも、この時の神の奇跡の「輝き」が臨んだとしたら、どれ程の素晴らしい、「キリストの証人」としての御業が、全てに満ち溢れることでしょう!私たちは彼ら同様に、神の栄光の訪れを体験し、聖霊様は神の「真実の光」、即ちイエス・キリストの品性を、霊的に帯びる(着せられる)証人、即ち光輝く「神の器」に仕立てられるのです。


 「今の時」は、イエス・キリストの再臨を、激しく飢え渇き求めて準備している、真の花嫁(賢い乙女)の「祈り」を通して、「三日間」どころか、イエス・キリストの来臨の時まで、神の「真の光」が、更なる「輝き」を伴って燦燦と照らし続ける、最終の時代に入っています。


 結論になりますが、神の「真実の光」の輝きが行き着く先、即ち「最終ゴール」は、何処にあるのでしょうか?「もはや、夜は無く、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕(しもべ)たちを照らし、彼らは代々限り無く統治するからである。」(黙示録22章5節)この御言葉を詳訳すると「もはやそこには、夜と呼ばれているものが一つも無く、彼ら(キリストを信じる者たち)には、灯や昼の光が不要である。何故なら、主なる神が彼らの光となって、彼らは永遠から永遠へと、神の支配の中で生き永らえるからである。」となります。


 この御言葉には明確に、「昼」という状態が必要なく、神が用意される新しい「天」と「地」において、如何なる「最終形」で、「真実の光」が完成される(ゴールを迎える)のか、その方向性(真実の終着点)が描かれています。結論から言えば、私たちは「真実の光」に覆われ、完全に「真実の光」と共に生きる、即ち聖なるキリストとの「一体化」が、聖霊様の最終仕上げのもと、御国の婚礼式典の時に成就(完成)します。そうです!私たちは「真実の光」の輝き、そのものの中に包まれ、真の「輝き」に覆われる存在、即ち新しい体(キリストの花嫁)として、父なる神が用意した、新しい「天」と「地」を受け継ぐのです。


 何故なら私たちには、イエス・キリストを長子とする「神の家族」として、当然の「報い(相続)」を受け取る、素晴らしい特権が付与されているからです。神の「真実の光」の輝きが、ゴール(終着点)に辿り着いた時に、その麗しい「輝き」の称号として、私たちは「キリストの花嫁」と呼ばれることになります。


 「偽りの光」を放つ悪魔サタンは、益々この世の権力者に働きかけて、多くの人々を支配し苦しめます。だからこそ私たちキリスト者は、「肉の戦い」ではなく、「霊的な戦い」へと、更に聖霊様を通して駆り出されるよう、益々祈り求めて行きましょう!真の「輝き」を、永遠に灯して下さる創造主なる神の、新しい天地創造の最終的的な「秩序」の完成が、いよいよ目前に近付いています。


 そうです!私たちは、主イエス・キリストの「来臨の時」に備えて、熱心に倦むこと無く祈り続けましょう。イエス・キリストの偉大なる「輝き」が、全地に満ち溢れて拡大するよう、私たちは更に召し出されて行くのです。暗黒の冬の時代は、間もなく「終わりの時」を告げます。イエス・キリストの近付く「足音」が、更に大きく響き始めた「今の時」に、あなたがイエス・キリストの、「真実の光」の輝きを放つ者として、聖霊様を通して更なる「祈り」に専念できますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月28日のメッセ-ジ)


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Terminal Faith(No.29)

          二つの「ラブコール」




四十歳になった時、モーセは・・・・(イスラエルの子ら)の一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し・・・・仇を打ったのです。・・・・しかし、(イスラエルの子から)理解してくれませんでした。・・・・モーセは・・・・逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に・・・・四十年経った時、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で・・・・主の声が聞こえました。「私はあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。・・・・履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。私は、エジプトに居る私の民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救う為に降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。」人々が・・・・拒んだこのモーセを、神は・・・・指導者また解放者としてお遣わしなったのです。
                                               【使徒行伝7章23~35節】


モーセの「失敗」
 今回の記事には、モーセが「プリンス(王族)」という立場から、「逃亡者」という身分に落ち、その後40年という長き年月を経て、如何なる人物になって行くのか?この点について、ステパノは重要なメッセ-ジを、今に生きる私たちにも、聖霊を通して投げかけています。私たちは現実的には「皇族」でも、身分高き「貴族」でもありませんが、主なる神の側から見れば、「神の国」の王族であり、イエス・キリストを長子とする、「神の家族」の重要な一員です!


 しかし悪魔サタンは、真のキリスト者に与えられている、この霊的アイデンティティ(身分)を、私たちが信仰をもって目覚めることを妨害します。実は今回のモーセの生き様(行動)には、私たちが聖霊様を通して、彼同様に取扱われる(訓練される)など、私たちが霊的に学ぶ(見倣う)べき要素が示されています。


 今回の記事から学ぶべき重要ポイントは、私たちの「霊」には、常に呼びかけて来る、二つの「声(ラブコール)」がある!という点です。そして私たちは、その二つの声に対して、魂(感情)的に取り込む可能性があることです。つまり私たちが「肉」の思いから、二つの声を安易に聞き分けてしまう時、私たちはモーセ同様に、霊的に失敗する(ミスを犯す)のです。


 ではモーセは、如何なる失敗を押したのでしょうか?本来であるならば、モーセの立ち位置(身分)は、エジプトの法を遵守する(尊ぶ)、模範的なリーダーであるべきです。しかしある時、彼は自分の法的立場を忘れる程の、堪え難き事件に遭遇した為、彼はエジプト法を逸脱し、不可抗力とは言え、殺人を犯すことになりました。その時から、彼は指名手配犯となり、エジプトから逃亡する身分に落ちました。


二つの「ラブコール」
 さて、「二つの声」とは如何なるものでしょうか?第一の声が、この時のモーセの失敗に見られる、私たちの心の内側から、いつも感情的に聞こえて来る「魂(肉)の声」です。これは霊的には、「この世(エジプト)」から生じる、ラブコールの如きものです。私たちは「この世」に生きている以上、世的な「思い」をもって、また人間的な「憶測」や「詮索」などを、頻繁に繰り返すところが多々あります。決して「この世」と調子を合わせなくても、「この世」との関係を、感情的に忖度する弱さがあることも事実です。


 「その時」に私たちの「魂的なもの」が、次第に敏感になる為に、ある声が下から聞こえて来ます。それが「この世」からのラブコールです。実際にはサタンが、私たちの「魂」に囁くものです。「あなたには素晴らしいものがあります。世において認められる程の、素晴らしい才能に恵まれているから、それをもって、神に栄光を現わしてみたらどうですか?」などと。


 それに対して第二の声が、私たちの「魂」にではなく、「霊」の領域に向かって、か細く投げかけてきます。そして第二の声は、必ず天(上)より聞こえてくるもので、その「真のラブコール」の発信者は聖霊様です。聖霊様は、私たちの「願い」や「思い」、また「望み」や「欲求」などを超える次元の中で、主なる神の「御心」と結び合されることを、いつも霊的に呻きながら働きかける時に、必ず「上」よりのラブコールを届けて下さいます。「いや違う!あなたが立つべきポジションは、神の聖なる領域であり、そこに立って、静かに神の臨在を仰ぎ求め、神があなたに何をしようとしておられるのか?をひたすら待ち、神の声が聞こえたら、その御声に聞き従うことが肝心です!」と。


 ところでサタンは、世に向けて宣教活動を開始される、直前のイエス・キリスト、つまり荒野(砂漠)に導かれ、聖霊様に訓練されているイエス・キリストに対して、如何なるラブコールを発したでしょうか?「神の御子であり、貴いご身分である方よ、お腹すいただろう?」と、先ずは彼をねぎらう声でした。実は、この甘い「囁き」は、「エデンの園」に暮らしていた、エバに投げかけたものと同じです。サタンは続いて「あなたの空腹は、痛いほど分かるよ。どうだろう、あの石ころ見てごらん!パンに見えないかな?あなただったら神の力を使って、一つ命じてごらん。パンになれ!と。」


 「この世」からのラブコールは、確かに砂漠(荒れ野)の如き、悲観的に見える「現実」に対して、先ずは神の「奇跡」を願う、それが魂的なものと分かっていても、「この世」と妥協するのが、私たちの「弱さ」です。しかし聖霊様は、イエス・キリストに対して「否!あなたは大事なことを、今思い出すべきである。聞き従うことこそ、全ての生贄に優るのです。神の声を先ず聞く、神の声を聞くこと無しには、何も為し得ない(始まらない)ことを、いつも覚えるべきです。神が直接あなたに語りかける、一つ一つの命の言葉によって初めて、あなたは生きることが可能です!」と、か細い声で叱咤激励します。


 当然モーセに対しても、この二つの声が聞こえてきました。先ず「私が今立って、自分が持つ力(エジプト的権力)をもって、同胞(イスラエル人)を苦難から救済するのだ!」と、第一の声に従いました。そしてある時、実際に行動に移りました。しかし結果は、同胞から「疫病神」扱いされ、失意のうちに荒野に逃亡することになりました。しかしこの時から、40年間という神の「取扱い」が始まったのです。


聖霊様の「ラブコール」に聞き従う時
 結論になりますが、モーセは40年を経て、ある時「燃える柴」の中から、神の語りかけ(第二のラブコール)を直接聞きました。神はこの時、先ずモーセに対して「あなたの靴を脱ぎなさい!」と命じられ、続いて「あなたの立っている所は、聖なる場所だから。」と、モーセに対して諭しました。


 その瞬間、モーセは急いで靴を脱ぎました。そして「主よ、何でしょうか?どうぞ正しいラブコールを、このしもべに語って下さい。あなたの聖なる場所に座して、私は聞き従います。」と、謙虚に膝を屈めたのです。すると主なる神は「モーセよ、私はいよいよ、あなたをエジプトに遣わす!今度エジプトに行くと時には、あなたは魂的に何もする必要が無い。イスラエルの民に、私が大いなる事を起こす時、私はあなたをイスラエルの救済者、指導者、解放者とする。」と、預言的な言葉(勅令)を授けました。


 聖霊様は、あなた(私)に対しても、神の言葉(真実のラブコール)を発信しています。「あなたの立っている所は何処ですか?」と。私たちが、世からのラブコールを聞いている間は、私たちは「この世」に重心(自分の足)を置いています。しかし聖霊様が、私たちに対して呻きをもって語り、私たちがその御声に耳を傾ける時、私たちは「この世」から離れて、ある方向(立つべき正しい場所)を目指して歩むことになります。


 その場所とは、主なる神が用意される「聖なる場所」です。そこにおいては、自分が履いていた靴(世を渡り歩いてきた人間的なもの)は、もはや必要ありません!神が与えて下さる、麗しい履物(聖なるサンダル)を履いて、私たちは神の御前に座すだけでよいのです。「この世」に頼って生きる人々は、私たちキリスト者のことを、「少数派(弱小集団)」と言って見下します。しかし聖霊様が、私たちを「この世」から選び召し出し、真の「キリストの兵士」として訓練する時、この時のステパノのように、自分の命を懸けてまで、神の御言葉を大胆に伝える、神の「精鋭使徒(最強のキリストの証人)」となるのです!


 覚えて戴きたいことは、聖霊様を通して私たちに与えられる、「神の国」を説き明かす「言葉(唇)」の賜物には、悪魔サタンが震えおののく程の、偉大なる「天の力」が注がれていることです。しかし「その時」、私たちが「魂的な思い」から、神の言葉を語ったとしても、何も起こりません。聖霊様は一言、私たちの「霊」に命じます。イエス・キリストの「ラブコール(真実の声)」を土台として、彼らに直接命じるのです。「イエス・キリストの聖なる御名により、この世から贖われ出なさい!聖なる場所に帰って来なさい!」と。


 聖霊様は今の「終わりの時」、必死になって主なる神の「御思い」を、真実のラブコールとして、必ずあなたに日々届けて下さいます。これが神の偉大なる「召集」です。どうぞあなたが、神の偉大なる「召集」に対して、瞬時に聞き従うことの出来る、神との親しい「交わり」の時が、朝起きた時から、夜眠る時に至るまで、豊かに備えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月8日のメッセ-ジ)


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Terminal Hope(No.3)

     「光なる方」が遣わされる時




神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される。
                   【ヨプ記12章22節】


神は「光」を必ず遣わされる!
 「光なる方」が闇の中に、まるで全権大使の如くに遣わされる時、一体何が起きるのでしょうか?また遣わされる訳ですから、その方には必ず重要となる、ある「目的(ミッション)」があります。しかし「その時」、闇の中には①「光なる方」を受け入れる者、または②「光なる方」を拒絶する者、この二種類に分たれます。


 先回学んだことですが、創造主なる神の天地創造における、「神の秩序(統治)」の第一原則は、混沌とした大地の上に、神は先ず「光」を置いた(set)ことです。そして「光」が置かれた瞬間に、闇は追いやられる(退散する)存在になったのです。私たちは、この「神の秩序」の第一原則を、信仰の歩みの最大標語として、常に掲げる(或いは告白する)必要があります!


 さて今回、私たちが学ぶべき第一の重要ポイントは、「神の秩序(統治)」の第二原則として、創造主なる神は「光なる方」を、闇に支配された領域(悪しきフィールド)の、隅々に渡って遣わされる(send)ことです。この場合の「遣わす」とは、実際に「人の子」として、この世に送り出す訳ですから、そこには重要な「任務(使命)」がありました。即ち「光なる方」は「人の子」として、イエス・キリストという「救い」の御名を帯び、彼は全ての人と共にある方、インマヌエルの神として地上に来られたこと、これが「光」のミッションです。


ヨブの「光」に対する理解
 今回の御言葉に登場するヨブは、「光」と「暗闇」に関する、創造主なる神の普遍的「秩序」を、いつも信仰を働かせて確認していました。即ち「暗闇」に生きる人々の中に、「真実の光」が遣わされる時には、必ずそこには偉大なる神の、「栄光の御業」が現れ出る訳ですが、「真実の光」を受け取る者と、逆に頑なに拒み続ける者という、二種類の生き方があることを、ヨブは理解していました。


 私たちは「暗闇」という概念を、三次元的に知ってはいても、霊的に正しく捉えることが出来ません。例えば「今の時」が、まさしく暗中模索の如き、正しく理解できない程の、「暗闇」に覆われていると言えるでしょう。多くの人々が「その時」、別の道を求めるなどして、「肉の力」を頼みとして彷徨いますが、それがサタンの仕掛ける「罠」であることに、全く気付いていません。


 しかし覚えて下さい!その方が遣わされる時には、「心配(不安)」や「恐れ」が全く無い次元の中で、私たちは「正しい道」へと、安心して歩むことが出来るのです。何故なら、その方の持つ「偉大なる光」が、私たちの前(先)を、必ず照らし出して下さるからです。


 今回の御言葉を詳訳しますと、「主なる神は、まるで死の如き、闇が覆う全ての世界(場)の中に、光を遣わされる。」となりますが、この御言葉には明らかに神の「意図(目的)」が、霊的に浮かび上ってきます。即ち私たちが如何なる状況下にあっても、「真実の光」なる方、御子イエス・キリストが、私たちと共に歩む為に必ず遣わされるのです!


 ところがヨブは「何故、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(ヨブ記3章20節)と、不信仰の言葉を吐いていますが、創造主なる神が「真実の光」を、労苦する者に対しても、「天の恵み(賜物)」として与えて下さる、その明らかな「意図(目的)」を、彼はこの時に見失っています。にも関わらず彼は、次の「神の事実」は知っていました。つまり「真実の光」は、常に(如何なる時にも)遣わされている!ことを。


 さて「言(御言葉)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1章4~5節)の御言葉には、「光」の働く目的が、「命」そのものを生み出す、明らかな神の「御心の源泉(意図)」であることを示しています。神の言葉には、当然のことながら「命」があります。しかし「命」そのものを生み出す為には、主なる神が「光」に対して、暗闇の中に登場して(置かれて)、実際的な「働き」を遂行すべく、闇が覆う全ての世界(場)の中に、遣わされる必要がありました。


 ここで覚えておくべき、即ち私たちがヨブ同様に、常に知っておくべき重要な奥義は、私たちが「命」ある者として、「この世」に産み出される以前より、「真実の光」は全ての人の為に、等しく遣わされている!ということです。これが創造主なる神の不変的な「意図(目的)」です。これを知る者は、たとえ苦しみ嘆くことはあっても、「闇」そのものを決して恐れません。何故なら、私たちは「真実の光」と共に、前(先)を目指して進み行く存在だからです。神の言葉の中に「命の光」があり、この「光」が全ての人に、豊かに与えられ(遣わされ)ていること、これが神の創造の秩序における、偽らざる「意図(目的)」です。


二種類の反応
 今回の御言葉の第二の重要ポイントは、「真実の光」が暗闇の中に遣わされる時、人々は如何なる反応を示すのか?という点です。第一の反応は①「待っていましたー!」と、素直に「光なる方」を喜び迎え入れる人、そして第二の反応が②「いや結構です!私は既に自分の光を持っていますから。」と、あからさまに拒否して受け入れない人、この二種類に分かれます。このタイプの人々は、「終わりの時代」に特に増加しています。


 第一のタイプの人々は、ヨブが告白したように「私は暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めているのに、何故、滅ぼし尽くされずにいるのか」(ヨブ記23章17節)、即ち詳訳しますと「たとえ闇が私を盲目にしたとしても、私が恐れるのは闇そのものではなく、神だけを畏れるのである!」という生き方(信仰姿勢)です。この御言葉には、「光」という言葉は用いられていませんが、神が暗黒の「真の支配者」として治め、ヨブ自身の中に「光」の存在が、明確な臨在をもって遣わさてれいる!ことを、彼は知っているからこそ、あえて用いる必要が無かったのではないでしょうか。


 それに対して第二のタイプの人々は、ヨブが紹介しているように「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序は無く、闇がその光となる程だ」(ヨブ記10章22節)、つまり「闇の王国」に生きる人々を描いています。詳訳しますと「そこは暗黒だけの地、また光無きフィールドであり、混乱たけが支配している。そこにおいて人の光(偽りの光)自らが、暗黒となっている。」となります。「暗黒」に生きる人々が、何故「真実の光」を拒むのか?その理由は、自分の中には既に「光(イルミナティ)」がある!と信じているからです。


 またヨブは「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず、光の射すところに留まろうともしない。・・・・(彼らは)暗黒に紛れて家々に忍び入り、日中は閉じこもって、光を避ける。このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。」(ヨブ記24章13~17節)と、更に彼らの「闇」に生きる特質を描きます。しかし結局のところ、彼らの生き方は「光も無く、彼らは闇に手探りし、酔いしれたかのように彷徨う」(ヨブ記12章25節)だけです。


 結論になりますが、創造主なる神は忍耐の限りを尽くして、今も尚「光なる方」に対して、「我が独り子イエスよ、あなたをインマヌエルの神として、闇に覆われた地上に遣わす!あなたを通して、漏れること無く全ての人々が、真実の光の元に回帰し(立ち返り)、私が用意する新しい天と地に凱旋して来ること、これをあなたに託す。」と下知しておられます。


 それ故に「あなた(私)」が、多くの人々が神の「救い」、即ち真実の「光なる方」の元に立ち返ることを、日々聖霊様の導きの中で、忍耐の限りを尽くして、祈り続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月14日のメッセ-ジ)


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