召集された者の「品格」
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々がミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい。・・・・」モーセは民に告げた。「あなた達の中から、戦いの為に人を出して武装させなさい。・・・・ミディアン人に対して主の為に報復するのだ。イスラエルの全部族から、部族ごとに千人ずつを戦いに送り出しなさい。」それで・・・・総計一万二千人の兵が選び出されて武装した。モーセは・・・・祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる祭具と出陣に吹くラッパをその手に持たせて、彼らと共に送り出した。彼らは、主がモーセに命じられた通り、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。
【民数記31章1~7節】
「敵」に報復しなさい!
ご存知のように、私たちの住む日本国(列島)は、非常に地政学的に恵まれた環境、即ち四方を海に囲まれ、敵の攻撃に遭遇しない国家でした。しかし近代に至ってからは、欧米列強の進出により、日本国も彼らの進出を阻むべく、急いで富国強兵政策に舵(進路)を切り変えざるを得ませんでした。しかし如何せん、最終的には第二次世界大戦後、彼らのパワーの前に敗北を帰し、いわゆるドイツ同様の「敗戦国」扱いを受け、未だもって日本民族としての自立(自主独立)には至っていません。
そして現実(三次元的事実)としての日本民族は、敵の侵略(攻撃)に対して、如何なる防備を為しているのか?と言えば、専守防衛に徹する自衛隊(国防の要)を、列島各地に配置していても、実際には赤い竜たちの工作(認知戦)活動、経済的侵略等は、既に始まっています。また見えざる霊の次元において、日本人キリスト者を「愚かな乙女」に仕立てるべく、聖書の中心軸(イエス・キリストの福音)から、完全に逸脱した「背教」の流れが、汚染水の如くに侵入しています。
今回の記事から示される第一重要ポイント、それは彼らイスラエルの民が何故、小部族に過ぎないミディアン人を、かつての報復と言え、滅ぼし尽くさなければならないのか?という点です。その明確な神の「答え(理由)」は、彼らが敵(ミディアン人)の「罠」にかかり、民族的「聖なる品格」が、完全に汚される所にまで、堕落したからです。彼らが仕掛けた「罠」は、明から様な敵対行為ではなく、むしろ平和的に友好関係を結ぶもの、今風に言えば「互いに多様性を尊重し合い、仲良くして行きましょう!」というスローガンで、平和的に関り合うことでした。
ここで覚えるべきポイント、それはイスラエルの民が遂に、約束の地であるカナンに辿り着く、その手前で「甘い罠」にはまった!という事実です。この民族的堕落事件は、後々「ペオル事件」と呼ばれますが、祭司エルアザルの息子ピネハスの、咄嗟的な信仰行動により、ギリギリのところで、神の「救い(贖い)」が介入し、全滅は免れることになりました(民数記25章参照)。
今、召集しなさい!
主なる神は霊的「戦い」において、「今、戦いに臨みなさい!」と命じられる時、「人の時」を優先しません。そこには間髪を入れずに、神の定めた「今」が用意されているからです。覚えて戴きたい「神の事実」は、六十万人に及ぶ男性から、今回神が召集した「神の数」は、僅か「一万二千人(全体の0.2%)だけである!」という点です。恐らく多くのイスラエルの民が、「え!この僅かな人数で、敵を報復しろですって?逆に撃ち滅ぼされることになる。」などと、否定的に捉えたことでしょう。
しかし万軍の主なる神には、「人の今(現実)」を超える次元、即ち「神の今」に秘められた、「ご計画(戦略)」が既に用意されていました。 モーセは神のご命令通りに、各部族から千人ずつ召集するに当たり、十二の部族長を通じて「各部族から、千人ずつ選抜せよ!」と命じました。さてモーセは、如何なる方法(選抜試験)をもって、精鋭部隊を編成したのでしょうか?恐らく各部族の千人隊長たちが、自分の配下の百人隊長から、優れた兵卒を推薦する訳ですが、その際の選抜基準となるのが、その者の持つパワー(戦歴等)ではなく、これから戦う特別任務(報復戦)に当たり、果たして「信仰」があるかどうかを問う、個別面談方式であったと推測します。
そして選抜された彼らは、報復戦に臨んで勝利するのですが、サタンはミディアン人の中に、肉の「罠」を故意に取り残していました。神は「敵を根絶やしにしなさい!」と、厳しく命じていたにも関わらず、イスラエルの精鋭部隊の殆どが、敵の女性や幼子(女児)たちを、温情(人の情け)から殺さず、奴隷として生かしておいたのです。サタンは、あのエバを誘惑した時と同様に、私たちの肉の「弱さ」、特に「情け」という感情の領域に、霊的な罠を仕掛けます。
「角笛」という神の武器
今回の記事から示される第二の重要ポイントは、このイスラエルの全家から選抜された、一万二千人の精鋭部隊を率いるリーダーは、英雄クラスのヨシュアやカレブではなく、若き次世代の祭司ピネハスである!という点です。今回のピネハスの働きは、霊的に「大祭司イエス・キリスト」の雛型を指します。覚えて戴きたい事実は、彼が手にしていた武器は、戦士たちが持つ「剣(刀)」ではなく、ただの「角笛」でした。
この時のピネハスは、祭司として「戦い」に臨んだ訳ではありませんが、彼は万軍の主の「御心」に従う限り、信仰の角笛を吹き鳴らすだけで、敵は必ず神の御前に敗北(全滅)する!と信じ、自らの「命」を奉じて先陣を切ったのです。その結果、自軍は一人の負傷者や死者が出ずに、敵軍の兵士を撃ち滅ぼし、ミディアン人の男子全員を殺すに至りました。
私たちも、大祭司イエス・キリストに従う一人の小祭司として、持つべき霊的「戦い」の武器は、「信仰サウンド」を発する、唇(言葉)の賜物(果実)で十分です。その唇の果実は二つあります。霊的な言葉である、新しい言葉(異言)をもって、先ず①信仰の言葉を語る果実、そして次に②新たに霊的次元を切り開く果実です。
結論として覚えておくべきポイント、それは私たちの霊的「戦い」において、敵の首領サタンは必ず、「最後の罠」を用意し待ち受けている!という点です。如何なる罠でしょうか?それは霊の次元において始めた「戦い」を、肉の次元で完成する(決着を付ける)という罠です。しかし覚えて下さい!「霊」と「肉」は相容れない、つまり同時に働くことはありません。聖霊様は、「霊」で働き始めた以上、必ず「霊」で治める(支配する)方です。具体的には、今回のイスラエルの精鋭部隊に命じた次元、「全てを聖めなさい(聖絶しなさい)!」という働きです。
ではサタンが仕掛ける「最後の罠」に対して、私たちは霊的にどう対処すべきでしょうか?聖霊様は即答します。「躊躇せずに無視しなさい!」と。その時に私たちの殆どが、「え!自分が戦わなかったら、それはそれで負けじゃないですか?少しは戦って勝利したいですよ!」と、抗った判断をしがちです。これが私たちの「肉」という霊的「弱さ」です。
しかし霊の次元においては、「勝ち」や「負け」が問題ではなく、戦いの「終着点」を何処に置くのか、つまり信仰の創始者であり完成者なる、主イエス・キリストに「全てを託す(御許に行く)!」ことが、霊的戦いの「勝利の秘訣」です。そして私たちは、全ての霊的「戦い」において、イエス・キリストの「戦い方」に倣う!これが最大の勝機となります。イエス・キリストは最後の戦いにおいて、生贄の小羊として、「黙ったまま」屠り場(十字架上)に行きました。
然り!如何なる「戦い」においても、私たちは「肉(剣の争いや論戦)」を選択せず、霊の次元の中で「黙して祈る(御心を待つ)」ことが大事です。敵の前でひたすら黙っていた、イエス・キリストが死に臨み、十字架上から放った最大の唇の果実は、父なる神に対する執り成しのサウンドでした。即ち「父よ、彼らは何をしているのか、全く分からない状態にあります。彼らの罪咎、そして肉の業の全てを、私の死をもってお赦し下さい!」と。
覚えて下さい!私たちは目の前の「現実」に対して、必死に戦うべきではありません!私たちが戦う相手(敵)は、その「現実」の背後に働く、悪魔サタン及び悪霊どもです。否定的な「現実」に黙し(無視し)、霊の言葉をもって高らかに、信仰のサウンドを宣言するのです。「イエス・キリストの貴い十字架、その流された血潮から始まる、唯一の救いの御名によって命じる。サタンよ、お前は直ちに、ここから出て行け!」と。
いよいよ最後の霊的「戦い」が、この日本にも待ち受けています。「その時」に向けて、聖霊様が「精鋭部隊(神の兵士)」を、イエス・キリストの御許に集結させ、サタンに組した背教集団との戦いに臨む、今は「終わりの時代」ですが、私たちはふと心配がよぎります。「私たちの息子や娘は、果たしてイエス様の御許に、馳せ参じることが出来るのだろうか?家族全員が、主イエス・キリストの来臨の恵みに、あずかることが出来るのだろうか?」などと。
今一度覚えて下さい!私たちが、聖霊様の命じる「軍令」に対して、忠実に聞き従い続け、悪魔サタンが仕掛ける、「肉の罠」の誘いに乗らず、イエス・キリストの「戦い方」に倣う限り、あなた(我)とあなたの家族(我が家)は、主なる神にのみ仕える(礼拝を捧げる)、イエス・キリストを長子とする神の家族として、御国において勝利の凱旋門をくぐるのです!父なる神の祝福と、イエス・キリストの勝利の宴が、あなたの信仰の「戦い」の全てに、確実に用意されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2025年9月7日のメッセ-ジ)
次回は・・・・Terminal Sound(5/27掲載)です。
英語版(エステル処方)は以下から!