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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Sound(No.29)

K・バルナバ

     召集された者の「品格」

 

 

 

主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々がミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい。・・・・」モーセは民に告げた。「あなた達の中から、戦いの為に人を出して武装させなさい。・・・・ミディアン人に対して主の為に報復するのだ。イスラエルの全部族から、部族ごとに千人ずつを戦いに送り出しなさい。」それで・・・・総計一万二千人の兵が選び出されて武装した。モーセは・・・・祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる祭具と出陣に吹くラッパをその手に持たせて、彼らと共に送り出した。彼らは、主がモーセに命じられた通り、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。

          【民数記31章1~7節

 

「敵」に報復しなさい!

 ご存知のように、私たちの住む日本国(列島)は、非常に地政学的に恵まれた環境、即ち四方を海に囲まれ、敵の攻撃に遭遇しない国家でした。しかし近代に至ってからは、欧米列強の進出により、日本国も彼らの進出を阻むべく、急いで富国強兵政策に舵(進路)を切り変えざるを得ませんでした。しかし如何せん、最終的には第二次世界大戦後、彼らのパワーの前に敗北を帰し、いわゆるドイツ同様の「敗戦国」扱いを受け、未だもって日本民族としての自立(自主独立)には至っていません。

 

 そして現実(三次元的事実)としての日本民族は、敵の侵略(攻撃)に対して、如何なる防備を為しているのか?と言えば、専守防衛に徹する自衛隊(国防の要)を、列島各地に配置していても、実際には赤い竜たちの工作(認知戦)活動、経済的侵略等は、既に始まっています。また見えざる霊の次元において、日本人キリスト者を「愚かな乙女」に仕立てるべく、聖書の中心軸(イエス・キリストの福音)から、完全に逸脱した「背教」の流れが、汚染水の如くに侵入しています。

 

 今回の記事から示される第一重要ポイント、それは彼らイスラエルの民が何故、小部族に過ぎないミディアン人を、かつての報復と言え、滅ぼし尽くさなければならないのか?という点です。その明確な神の「答え(理由)」は、彼らが敵(ミディアン人)の「罠」にかかり、民族的「聖なる品格」が、完全に汚される所にまで、堕落したからです。彼らが仕掛けた「罠」は、明から様な敵対行為ではなく、むしろ平和的に友好関係を結ぶもの、今風に言えば「互いに多様性を尊重し合い、仲良くして行きましょう!」というスローガンで、平和的に関り合うことでした。

 

 ここで覚えるべきポイント、それはイスラエルの民が遂に、約束の地であるカナンに辿り着く、その手前で「甘い罠」にはまった!という事実です。この民族的堕落事件は、後々「ペオル事件」と呼ばれますが、祭司エルアザルの息子ピネハスの、咄嗟的な信仰行動により、ギリギリのところで、神の「救い(贖い)」が介入し、全滅は免れることになりました(民数記25章参照)。

 

今、召集しなさい!

 主なる神は霊的「戦い」において、「今、戦いに臨みなさい!」と命じられる時、「人の時」を優先しません。そこには間髪を入れずに、神の定めた「今」が用意されているからです。覚えて戴きたい「神の事実」は、六十万人に及ぶ男性から、今回神が召集した「神の数」は、僅か「一万二千人(全体の0.2%)だけである!」という点です。恐らく多くのイスラエルの民が、「え!この僅かな人数で、敵を報復しろですって?逆に撃ち滅ぼされることになる。」などと、否定的に捉えたことでしょう。

 

 しかし万軍の主なる神には、「人の今(現実)」を超える次元、即ち「神の今」に秘められた、「ご計画(戦略)」が既に用意されていました。 モーセは神のご命令通りに、各部族から千人ずつ召集するに当たり、十二の部族長を通じて「各部族から、千人ずつ選抜せよ!」と命じました。さてモーセは、如何なる方法(選抜試験)をもって、精鋭部隊を編成したのでしょうか?恐らく各部族の千人隊長たちが、自分の配下の百人隊長から、優れた兵卒を推薦する訳ですが、その際の選抜基準となるのが、その者の持つパワー(戦歴等)ではなく、これから戦う特別任務(報復戦)に当たり、果たして「信仰」があるかどうかを問う、個別面談方式であったと推測します。

 

 そして選抜された彼らは、報復戦に臨んで勝利するのですが、サタンはミディアン人の中に、肉の「罠」を故意に取り残していました。神は「敵を根絶やしにしなさい!」と、厳しく命じていたにも関わらず、イスラエルの精鋭部隊の殆どが、敵の女性や幼子(女児)たちを、温情(人の情け)から殺さず、奴隷として生かしておいたのです。サタンは、あのエバを誘惑した時と同様に、私たちの肉の「弱さ」、特に「情け」という感情の領域に、霊的な罠を仕掛けます。

 

「角笛」という神の武器

 今回の記事から示される第二の重要ポイントは、このイスラエルの全家から選抜された、一万二千人の精鋭部隊を率いるリーダーは、英雄クラスのヨシュアやカレブではなく、若き次世代の祭司ピネハスである!という点です。今回のピネハスの働きは、霊的に「大祭司イエス・キリスト」の雛型を指します。覚えて戴きたい事実は、彼が手にしていた武器は、戦士たちが持つ「剣(刀)」ではなく、ただの「角笛」でした。

 

 この時のピネハスは、祭司として「戦い」に臨んだ訳ではありませんが、彼は万軍の主の「御心」に従う限り、信仰の角笛を吹き鳴らすだけで、敵は必ず神の御前に敗北(全滅)する!と信じ、自らの「命」を奉じて先陣を切ったのです。その結果、自軍は一人の負傷者や死者が出ずに、敵軍の兵士を撃ち滅ぼし、ミディアン人の男子全員を殺すに至りました。

 

 私たちも、大祭司イエス・キリストに従う一人の小祭司として、持つべき霊的「戦い」の武器は、「信仰サウンド」を発する、唇(言葉)の賜物(果実)で十分です。その唇の果実は二つあります。霊的な言葉である、新しい言葉(異言)をもって、先ず①信仰の言葉を語る果実、そして次に②新たに霊的次元を切り開く果実です。

 

 結論として覚えておくべきポイント、それは私たちの霊的「戦い」において、敵の首領サタンは必ず、「最後の罠」を用意し待ち受けている!という点です。如何なる罠でしょうか?それは霊の次元において始めた「戦い」を、肉の次元で完成する(決着を付ける)という罠です。しかし覚えて下さい!「霊」と「肉」は相容れない、つまり同時に働くことはありません。聖霊様は、「霊」で働き始めた以上、必ず「霊」で治める(支配する)方です。具体的には、今回のイスラエルの精鋭部隊に命じた次元、「全てを聖めなさい(聖絶しなさい)!」という働きです。

 

 ではサタンが仕掛ける「最後の罠」に対して、私たちは霊的にどう対処すべきでしょうか?聖霊様は即答します。「躊躇せずに無視しなさい!」と。その時に私たちの殆どが、「え!自分が戦わなかったら、それはそれで負けじゃないですか?少しは戦って勝利したいですよ!」と、抗った判断をしがちです。これが私たちの「肉」という霊的「弱さ」です。

 

 しかし霊の次元においては、「勝ち」や「負け」が問題ではなく、戦いの「終着点」を何処に置くのか、つまり信仰の創始者であり完成者なる、主イエス・キリストに「全てを託す(御許に行く)!」ことが、霊的戦いの「勝利の秘訣」です。そして私たちは、全ての霊的「戦い」において、イエス・キリストの「戦い方」に倣う!これが最大の勝機となります。イエス・キリストは最後の戦いにおいて、生贄の小羊として、「黙ったまま」屠り場(十字架上)に行きました。

 

 然り!如何なる「戦い」においても、私たちは「肉(剣の争いや論戦)」を選択せず、霊の次元の中で「黙して祈る(御心を待つ)」ことが大事です。敵の前でひたすら黙っていた、イエス・キリストが死に臨み、十字架上から放った最大の唇の果実は、父なる神に対する執り成しのサウンドでした。即ち「父よ、彼らは何をしているのか、全く分からない状態にあります。彼らの罪咎、そして肉の業の全てを、私の死をもってお赦し下さい!」と。

 

 覚えて下さい!私たちは目の前の「現実」に対して、必死に戦うべきではありません!私たちが戦う相手(敵)は、その「現実」の背後に働く、悪魔サタン及び悪霊どもです。否定的な「現実」に黙し(無視し)、霊の言葉をもって高らかに、信仰のサウンドを宣言するのです。「イエス・キリストの貴い十字架、その流された血潮から始まる、唯一の救いの御名によって命じる。サタンよ、お前は直ちに、ここから出て行け!」と。

 

 いよいよ最後の霊的「戦い」が、この日本にも待ち受けています。「その時」に向けて、聖霊様が「精鋭部隊(神の兵士)」を、イエス・キリストの御許に集結させ、サタンに組した背教集団との戦いに臨む、今は「終わりの時代」ですが、私たちはふと心配がよぎります。「私たちの息子や娘は、果たしてイエス様の御許に、馳せ参じることが出来るのだろうか?家族全員が、主イエス・キリストの来臨の恵みに、あずかることが出来るのだろうか?」などと。

 

 今一度覚えて下さい!私たちが、聖霊様の命じる「軍令」に対して、忠実に聞き従い続け、悪魔サタンが仕掛ける、「肉の罠」の誘いに乗らず、イエス・キリストの「戦い方」に倣う限り、あなた(我)とあなたの家族(我が家)は、主なる神にのみ仕える(礼拝を捧げる)、イエス・キリストを長子とする神の家族として、御国において勝利の凱旋門をくぐるのです!父なる神の祝福と、イエス・キリストの勝利の宴が、あなたの信仰の「戦い」の全てに、確実に用意されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(202597日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・Terminal Sound(5/27掲載)です。

 

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神の定めた今(No.4)

K・バルナバ

     「神の今」vs「人の今」

 

 

 

しかし、今はアマレク人とカナン人とがあの平野に住んでいるから、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。」

モーセはこれらのことをイスラエルの全ての人々に語って聞かせた。民は深く嘆いた。彼らは翌朝早く起き、山の頂を目指して上って行こうとして言った。「さあ、主が約束された所へ上って行こう。我々は誤っていた。」モーセは言った。「あなた達は、どうして主の命令に背くのか。成功するはずがない。・・・・行く手にはアマレク人とカナン人がいて、あなた達は剣で倒れる。・・・・」彼らはかまわず、山の頂を目指して上って行った。・・・・山地に住むアマレク人とカナン人は山を下って彼らを撃ち、ホルマまで来て彼らを破った。

          【民数記14章25節,39~45節

 

「神の今」に抗う「人の今」

 今回の記事にも見られるように、人は「現実」を見るあまりに、右往左往する所が多々あります。神が定める「今」に対して、人は必ずそれに対抗する形(背きの姿勢)で、「人の今」を強く主張します。つまり「神の今」と、「人の今」とでは、その動く(働く)次元が異なることが分かります。

 

 今回の記事から示される、最大の重要ボイントは、①私たちは「今の時」という、三次元的な「現実」を見た時に、どのように捉えるべきか?という点です。ヨシュアやカレブ、またモーセのような信仰者は、先ず神の視点を優先して物事を捉えようとします。たとえ「現実」がどうであれ、神が次の指示(ご命令)を与えなければ、如何なる「人の動き」は為さない!ことに徹し、神が命じられれば、そこには必ず「現実」を打破する、神の偉大なる「御業」が、先に用意されている!と、このように信じているらです。

 

 つまり神の御心を優先して、ひたすら神の今を「待つ」のか、それとも現実を見てしまい、慌てふためきながら人の今で「動く」のか、その違いがあります。イスラエルの民は、二人(ヨシュアとカレブ)の信仰レポートではなく、十人の流したデマ(偽レポート)を信じて動揺しました。その結果、神の「御心」を待つのではなく、人の次元から「事」を計る(動く)ことに奔走しました。

 

しかし今は・・・・

 主なる神はモーセに対して、具体的に次の指示(ご命令)を与えました。「しかし、今はアマレク人とカナン人とがあの平野に住んでいるから、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。」(25節)と。この御言葉にある「今」は、主なる神が定めた「今の時」です。不信仰な民が恐れる「人の今(現実の時)」に対して、神が定めた「今(その先にある神の時)」とでは、相反する次元にあります。ですから「神の今」から見て、敵は戦う次元には無く、いずれは神自らが粉砕することを、あえて確約しています。

 

 しかし十人の情報に賛同した、イスラエルの民の殆どが、間違った判断を下すことになります。「今こそ、敵アマレクを打ち負かさなければ、カナンは手に入れることが不可能になる。この今の時を逃して、迂回することは負けに等しい!」と。私たちの信仰の歩みにも、必ずと言ってよい程、聖霊様があえて「今は待ちなさい!」、「事を焦って動いてはなりません。むしろ神の御業が現れる、その栄光の時を信じて、待ち望む(祈り求める)時です。」などと、「神の今」を示されることで、私たちが陥りやすい「人の今」に、ストップをかけることがあります。

 

 神が「今は!」と命じられる時、そこには必ず主権者なる神の、明らかな「サイン」が示されます。エジプトを脱出したイスラエルの民の場合は、二つの分かり易い現示(サイン)がありました。日間は①「雲の柱」、夜間は②「火の柱」が、単純な「動き」をすることで、そのサインの意味が示されるのです。即ち「雲の柱」及び「火の柱」が、それぞれに移動した時、それは「直ちに前進(出発)しなさい!」、そして停止した場合は「その場に留まり(宿営し)なさい!」という、神の二つの「ご命令(霊的サイン)」です。

 

「人の今」は必ず失敗する

 イスラエルの民が宣言した「さあ」(40節)とは、直訳で「今が・・・・する(絶好の)時である!」となりますが、明らかに神が命じる「今は」と、人が事を急いて断言する「今が」とでは、ニュアンスが相反していることが分かります。「人の今」を優先して、彼らが動いた結果、如何なる事が起きたのでしょうか?覚えて下さい!敵にも「人の今」があるのです。敵はイスラエルの民の動向を、様々な工作活動を諮って、事前にイスラエル軍が進軍するであろう、山の頂に陣を構えていたのです。そして山を登り進むイスラエル軍は、山から降りて来るアマレク軍によって、惨敗を帰すことになります。

 

 万軍の主は、人が「今の時」を誤って、様々に動くことをご存知です。しかしヨシュアとカレブの如くに、神に対する全き忠誠(誠実さ)を基本とし、肉の力(判断)で動かない(軸がぶれない)、即ち「神の時」に従い通す者に、正しい道(成功と祝福)を、必ず授けて下さいます。然り!全ての時は天命(神の御心)に委ねる!こと、これが勝利の秘訣です。

 

 若き異邦人の寡婦ルツは、「人の今」を恐れるあまりに、落穂拾いに出かけた訳ではありません。彼女は義母ナオミの信じる、真の創造主なる神の「祝福」、つまり「神の今」を軸(信仰の拠り所)として、単純に出かけた(出陣した)だけです。「神は信じる者に、必ず報いて下さる!ことを信じて。その結果、ナオミ家は神の定めた、偉大なる「ご計画」の中にあずかり、新しい神の「救い」が、ルツの胎に始まることを、祝福として見ることになります。

 

敵の「罠」を打ち破る方

 結論として今回の記事から示される、重要な奥義(預言的啓示)は、今後の日本に起きる様々な「現実(人の今)」を、私たち日本人キリスト者も、嫌が応にも見ることになるという点です。それと同時に、見えない霊の次元においては、「背教の時代」が到来しています。「彼ら(敵)はあなた達と隣り合わせとなり、彼らの神々はあなた達の罠となろう。」(士師記2章3節)パウロが警告する「異なる福音」が、例えばAI化された聖書検索システムの中に、背教へと誘う巧妙な罠として、既に仕掛けられているのではないでしょうか!その霊的罠(蟻地獄)の中心に待ち構えるのが、サタン及び悪霊です。

 

 聖霊様は、信号機の発する各シグナルの如くに、あなたの「霊」に問い質します。「しかし今は・・・・」と。その時に、私たちが問われる霊的姿勢が、「弱い私(あなた)」を委ねることです。何故なら、「強い自分」を意識する限り、私たちは「人の今」を優先して、「今こそ(今が)」と主張して、自分勝手に事を進め進めようとするからです。唯一の贖い主イエス・キリストを、信仰の土台(軸)として据える者は、「主よ、あなたが動いて下さるから、私はそれに従います。あなたの今を、この弱い私に示して下さい。」と、必ず遜りつつ告白します。

 

 たとえ「現実(今)」が激動の時代であっても、私たちが待ち望む「神の今」は、主イエス・キリストの来臨の時です。あなたが一つ一つの物事(事象)を、「人の今」で捉えるのではなく、「神の今」が常にあなたを、神の「完成の時」へと正しく導き、かつ守り支えて下さることを、信仰をもって待ち望むことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2026118日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・Terminal Sound(4/17掲載予定)

 

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Terminal Sound(No.28)

K・バルナバ

     最後の「戦い」に備えよ!

 

 

 

大地に旗を立て、国々で角笛を吹き鳴らせ。バビロンを撃つ為に国々を聖別し、諸王国を呼び集めよ。

          【エレミヤ書51章27節

 

御子の「戦い方」に倣う

 今回の御言葉には、非常に軍事的色彩が、色濃く表現されています。即ち「敵はバビロンである!」と。然り!最後の「戦い」に向けて、いよいよ召集令状が、聖霊様を通して発信されている、終末の時代の中にあって、私たちは「敵陣へと進み、いざ迎え撃たん!」と、霊的武具を装着する時です。

 

 敵バビロンの首領(反キリスト)は、その時に大号令を発します。「我に歯向かう、全てのキリストの花嫁の首を、直ちに刈り取って来い!」と。さて私たちキリスト者は、何故霊的戦いに召し出されるのでしょうか?その際に必要となる霊的武器、それは最初の人(アダムとエバ)に、創造主なる神が与えた天的能力(賜物)です。

 

 ご存知のように私たちは、新約時代に生きる「キリストの兵士」です。イエス・キリストが、如何なる「戦い」に臨んだのか、福音書には正確に描かれています。彼が実際に、「武器(刀、剣等)」を持ったことは一度もありません。しかし明確に言えることは、イエス・キリストは如何なる「戦い」においても、聖霊様の「了承」が無ければ、自らの「言動」を起こしていません。

 

 イエス・キリストが昇天した後、失望感にさいなまれながらも、エルサレムに留まって、熱心に祈り続けた弟子たちに、天より聖霊の「炎」が降り注がれた結果、最終的に敵の迫害により、いつかは殉教することを、彼らは知っていたにも関わらず、全員が肉の「戦い」ではなく、霊的な「戦い」に駆り出されることになります。彼らは「敵」を前にしても、決して怯みませんでした。何故なら彼らには、イエス・キリストと同様に、聖霊様が彼らの傍らに居て下さり、全ての「戦い」において、陣頭指揮を取られていたからです。

 

聖霊様による二つの軍令

 然り!私たちは常に、イエス・キリストの「戦い方」に倣う必要があります。今回の預言書の中に、実は重要な「戦法」が、二点描かれています。最後の「戦い」に臨むに当たり、万軍の主なる神が、イスラエルの民に命じられた、第一の軍令は、「進撃(攻撃)のサインを示しなさい。」でした。そのサインとは、目に見える旗印ではなく、①角笛(進撃ラッパ)を吹き鳴らすこと、即ちサウンド・サインでした。

 

 この進撃サウンドが発せられるや否や、各部族の長(リーダー)が、「部族旗」をそれぞれに、高く掲げながら「出陣の時」を待ち、合図(角笛サウンド)と共に、順番通りに進撃するのです。これが第二の軍令である、「大地に旗を立て」ることです。この時の「旗印」は、「神の勝利を戴くべく、いざ向かわん!」という、信仰のサインにもなります。

 

 今回の預言書の中に示される「戦い」は、最終的な「霊的戦い」のことです。この「霊的戦い」に望む際に、聖霊様は様々な「サイン(サウンドも含む)」を知らせて下さいます。この聖霊様が発する「サウンド・サイン」を、私たちは常に聞き逃すことが無きよう、遜って待機する(祈り待つ)ことが大事です。そして遂に、聖霊様の「大号令(出陣サウンド)」が発せられたら、私たちはイスラエルの霊的支族として、「旗印」を高く掲げるのです。然り!私たちはイエス・キリストを長とする、イエス・キリスト・ファミリーであり、その旗印は永遠の勝利のサイン、即ち「贖い」の血潮に染まった「十字架」です!

 

 この「霊的戦い」において、イエス・キリストが進まれる時、戦場には既に「勝利」の御旗が、高々と打ち立てられています。敵(サタンと反キリストの霊)は、確かに吠え猛る獅子の如くに、牙を剥き出しにして脅して来ます。しかし彼らは吠えるだけです。実際には、ユダの獅子イエス・キリストが、十字架の血潮をもってサウンドされる時、彼らは負け犬の如くに、一目散に退散するからです。

 

「賛美」をもって進軍する時

 私たちは終わりの時代、何故この「霊的戦い」に召し出され、又その目的(最終目標)は、何処にあるのでしょうか?それは決して、特定の世界的な統一国家(帝国)、即ち「大バビロン」の破壊でも、悪しき軍団の長サタンを打ち負かすことでもありません。その答えとなるポイントが、私たちが聖霊様を通して、霊的に与えられる「武器」にあります。民数記10章には、イスラエルの十二部族が、四つの師団(①東部隊、②北部隊、③西部隊、④南部隊)に編成され、大祭司の発する角笛サウンドの後に、順番通りに出陣する時、その編成部隊全体の中央に、レビ族がある武器をもって、共に進み行くことが描かれています。

 

 その武器とは、実戦で使用する剣や槍ではありません。彼らが持ち合わせていた、最大の武器が「唇」から発せられる、①神の「命の言葉」と、実際に楽器をもって称える②「賛美」でした。「神よ、あなたの行進が見える。私の神、私の王は聖所に行進される。歌い手を先頭に、続いて楽を奏する者、乙女らの中には太鼓を打つ者。」(詩篇68篇24~25節)この御言葉にはレビ人の隊列が、三つに分けられていることが分かります。先ず第一の隊列(先頭隊)、それは①「歌い手(Singer)」という賛美グループ、次いで第二の隊列(中央隊)、それは②奏楽隊の若者グループ、そして最後の隊列(後続隊)が、③太鼓、シンバル等を奏でる乙女グループ、この三隊列です。

 

 イスラエルの民に命じられた、この陣形から見える奥義は、非常に重要な霊的戦術を、今に生きる私たち(キリスト花嫁)に教え示しています。終わりの時代は、悪魔サタンが私たちの「霊の砦」に、盛んに霊的な攻撃を仕掛けて来ます。その殆どが、「現実」という敵の陣形を見せることで、言葉の暴力(肉の武器)にさらされ、「不安」と「恐れ」の弾丸音に煽られるなど、私たちの陣形を崩そうと攻撃します。

 

 しかし「その時」に、聖霊様が「弱い私(あなた)」に働きかけます。「だからこそ賛美しなさい!万軍の主イエス・キリストが、私(あなた)の前を進み行かれること、この大いなる神の事実のみを見上げて、唇で勝利の言葉を告白しなさい!あなたが戦うのではなく、主なる神が戦って下さり、既に勝利を取られている!」と。

 

 敵(ローマ帝国及び迫害勢力)の攻撃を避けて、秘かに隠れ続けて祈る弟子たちは、イエス・キリストの「戦い方」を見習って、ある方の到来を待ち続けました。然り!大将軍なる聖霊様が、天から大いなる「御力」を注ぐ「その時」です。彼らは「その時」が、具体的にいつなのか、全く知り得ようもありませんでしたが、エルサレムに留まり続け、五旬節の「その時」に、彼ら全員の上に「聖なる炎」が、同時に降り注がれました。

 

 その結果、彼らの陣形に如何なる変革が起きたのでしょうか?以前の彼らでしたら、戦いは「数」が付き物ということで、軍団の勢力(数)拡大に奔走したことでしょう。しかし聖霊様が彼らに臨んだ時、彼らは「一人(一つのエクレシア)」に働く、神の偉大なる「油注ぎ」を受けて、むしろ迫害によって散らされることを、「良し!」としたのです。

 

 あなたは新しい「神の兵士」として、今の終わりの時に召集されています。「その時」にあなたは、霊的な武器である唇を、何の為に使用するのですか?三次元な「罪」の縛りを、イエス・キリストの十字架の血潮で解き放つなど、信仰のサウンドを力強く発する為に、聖霊様があなたの「唇」を用いるのです。あなたの「賛美」と、信仰の「叫び(宣言)」という、霊的な進軍によって敵は後退し、囚われ人(世の人々)が救出されるのです。

 

 あなた(私)が「賛美」を唇から発し、霊的に祈り続ける際に、霊の只中から湧き上がる「霊歌」、それらは敵を震え上がらせる程の、イエス・キリストに対する甘美なサウンドになります。そしてその霊的なサウンドこそが、私たち日本民族という、世界的に見て小さな「群れ」の中に、聖霊様が「聖なる炎」として臨み、その時には天の軍勢と共に、大いなる「陣形」が整えられ、「キリストの兵士(証人)」が次々と立ち上がるのです。

 

 私たちは、イエス・キリストに「出陣」のサイン(旗印)を挙げて戴き、聖霊様の大号令(召集サウンド)と共に、「主よ、私は命を懸けて(捧げて)、あなた様と共に出陣します。賛美をもって収穫に行きます。万軍なる主よ、あなたが先にお進み下さい!」と宣誓する、終わりの「戦い」に召し出されていること、これを良い意味で覚悟しましょう。

 

 私たちが遂に、この霊的「角笛」をどのように使うのか、「その時」が迫っています。そしてそれは、イエス・キリストによる「完成の時」に進んでいます。どうぞあなたが、聖霊様と共に一歩ずつ、かつ着実に足場を踏み固めて、力強く進軍することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2025831日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・神の定めた今(5/7掲載)です。

  

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