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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

終末のエクレシア(No.25)

全ての「答え」はイエス・キリストにある!




イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが全て実現する時には、どんな徴(しるし)があるのですか。」
                                      【マルコ福音書13章3~4節】


イエス・キリストの「居ます所」
 イエス・キリストが投げかけた、「エルサレム神殿」の崩壊預言に対して、四人の弟子たちが、イエス・キリストの「真意」を探るべく、彼の御元を秘密裏に訪れました。この時の他の弟子たちの動向は、聖書に何も記されていません。


 さてあなたは、この時の四人の弟子の如くに、羊飼いなるイエス・キリストが、何処におられるのか、常に探し求めていらっしゃいますか?例えばあなたは、自分が置かれている「今の状況」に対して、その正しい神の「真意(答え)」を、常に探り求めているか?ということです。これは聖霊様による、私たちに対する緊急メッセージです。


 イエス・キリストに、全ての「答え」があります!イエス・キリストが、私たちの人生の「答え」であり、私たちが被る様々な「課題(問題)等」の、全てを解決する「救い主」です。それ故にあなたは、あなたに関わる全ての事を、イエス・キリストの御元に携えているか否か、それを聖霊様は真摯に問われます。


 ところが現実の私たちは、困った時だけ、自分が対処できない時だけ、イエス・キリストにすがる(助けを求める)傾向にあります。だからこそ聖霊様は、しつこい程に助言するのです。「イエス・キリストの御元に、真の憩い(休み場)があり、最高に麗しい命の水があるのです!」と。私たちの「霊」は、常に「命の水」を求めて、飢え渇いているのですが、別の「水」をもって渇きを、満たそうとする所があります。


 再度繰り返しますが、イエス・キリストが、あなたの人生の全ての「鍵」を握る方であり、イエス・キリストが居ます所に、真実の「平安(安息)」があるのです!私たちが神の「平安」を受け取って、その「平安」をもって即行動するよりも、イエス・キリストの御元、即ちイエス・キリストの居ます所に、ただ留まる事が大事です。


 イエス・キリストが全ての「答え」です!自分の肉の「知恵」や「力(能力)」で、答えを得ようとする者は、必ず疲労困ぱいと失敗(失望)に陥ります。イエス・キリストは、常に弟子たちの「思惑」の次元を超える、霊的な神の居ますフィールドを求めて、直ぐに彼らから離れる事が度々ありました。その殆どが人里を離れた、小さな「山(丘)」でした。そこはイエス・キリストにとって、父なる神の居ます「聖所」であり、神と対話する「祈りの山」でした。


四人のひそかな信仰行動
 その師匠の変わった様子(行動)を、いつもじっと見ていたのが、、ペテロとその兄アンデレ、そしてヨハネとその兄ヤコブの四人でした。イエス・キリストが今回行かれた場所は、エルサレム神殿が見下ろせる、オリーブ山の頂上でした。エルサレム神殿とオリーブ山の頂上は、「位置」として約1kmの距離であり、「高さ(標高)」としては、15~20mの高低差がありますので、まさしく聖書の記述通り、オリーブ山の頂上から見て、西の方角にあるエルサレム神殿は、見下ろすのに適した場所です。


 彼ら四人はイエス・キリストとの、個人的「交わり(関わり)」を求めて、常に師匠の後を追いかけていました。ですから今回も彼らは、イエス・キリストの預言の「真意」を探るべく、密かに訪ねて来たのです。霊的次元に座して、父なる神に祈り求めるイエス・キリストは、彼ら(今に生きる私たち)に対して、具体的な「予兆」のプロセスを、淡々と示されることになります。


 さて聖霊様は、彼らばかりでなく私たちに対しても、厳しい問いかけを投げかけます。「あなたはイエス・キリストの居ます所に、いつも行こうとしない自分があることに、気付いていますか?」と。さて「今の時」は、新しいローマ帝国(新世界秩序)の復興が、着々と進められている、そんな恐ろしい時代にあります。そして明日の生活が、ままならない程の混乱により、今まで安心して見ていた、様々な地上のシステム(社会、政治、経済、気候等)が、驚愕する程のスピードで、少しずつ瓦解し始めています。


 しかし主なる神が「GOサイン」を、いよいよ「終末の時」に下される時には、世界的な規模で人間的な地上のシステムが全て瓦解することになります。「その時」に、私たちが立っている領域如何によって、最後の霊的「振い分け」が為されます。ところで私たちキリスト者が、この世の人々が恐れる(心配する)次元にない、その理由は何でしょうか?それは神の「安息」を、イエス・キリストの「贖い」の血潮を通して、無代価で戴いているからです。


 そうです!イエス・キリストの麗しい、聖い「救い」の次元はもとより、神の「祝福」がイエス・キリストの、「贖い」の御業の只中にある!という、確固たる信仰によって生きる、それが私たちの真の「生き様」です。イエス・キリストが居ますところに、私たちは常に留まり続け、「神の国」をゴールとして定める者は、世的な「不安」と「恐れ」の無い、霊的領域の中にあって、益々聖められて行くのです。ところが神の「祝福」を、この世の領域において確立するべく、経済的な柱(アシェラ像)を据えて、「肉の力」を頼みとする偽りのキリスト者は、神による大崩壊の時に、いとも簡単に倒壊することになります。


神の「安息」の領域に立つ(留まる)
あなた達は私の掟を行い、私の法を忠実に守りなさい。そうすれば、この国で平穏に暮らすことができる。土地は実りを生じ、あなた達は十分に食べ、平穏に暮らすことができる。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」とあなた達は言うか。私は六年目にあなた達の為に祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなた達は八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる。
【レビ記25章18~22節】


 神の「安息」という霊的方程式には、常に「7」という数字が、キーカウントになっています。特にレビ記においては、「六年目」という規定が命じられている訳ですが、普通の場合でしたら「6」とは、「7(休息の時)」の前日の時(安息数)です。覚えて戴きたいことは、「7日目」は義務(強制)的な概念ではなく、あくまで神の「祝福」の領域に入るよう、神が私たちに投げかけている「招待状」です。


 神の「安息」の方程式は、人間的には理解し難い(信じにくい)ものですが、「6年目」に主なる神は、「三倍の祝福」を用意する!と、この御言葉は確約しています。仮に日当(労働単価)を一万円として、六日間連続して働き、七日目に休息しますと、六万円の収入となります。当然休まずに七日間働きますと、七万円の収入です。


 しかし今回のレビ記にある、神の「安息」の方程式通りに、一年間働いて計算しますと、一年に約400万円(週当たり5日間分+6日目分×3=8万円)に相当する、神の「恵み」になります。それに対して一年間連続して働きますと、最初の年は365万円の収入を得ることができますが、翌年以降に恐らく体調を崩すか、過労による病気になることが予想されますので、平均したら年収は僅か200万円(週当たり4日分)程度しか得られません。


 以上のように、神の「安息」の領域を求めるのではなく、己の肉の力を頼みとして経済を確立しようとする者は、神による最終的な「大崩壊」の時に、一時的な繁栄を享受したとしても、結局は「世の奴隷」になります。パウロが強く戒めるように、「金銭の欲は、全ての悪の根です。金銭を追い求める内に信仰から迷い出て、様々のひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(Ⅰテモテ書6章10節)この御言葉は、私たちの信仰の「歩み」にとって、言わば「安全標語」です。


 仮に私たちが、創造主なる神の「安息」以上に、この世の金銭を欲する(優先する)ようになったとしたら、それは「汚れた水」の中で溺れ沈むことになります。ですから私たちは、神の「安息」の領域に留まることを、信仰の最優先事項として生きるべきです!四人の弟子たちは、神殿の崩壊の時を恐れて、イエス・キリストの御元を、密かに訪れたのではありません。彼らは、たとえ「この世」において、如何なる事が起きたとしても、「イエス様、その時にあなたは、何処にいらっしゃるのですか?」、そして「如何なる助けを与えて下さるのですか?」、「如何なる保証を与えて下さるのですか?」などと、正しい「答え」を見出すべく、イエス・キリストの居ます所に来たのです。


 いよいよ世界的な「大潮流」の襲来の時に、キリスト者も二つに分かたれます。全ての「答え」がイエス・キリストにある!と、純粋に信じる「賢い乙女」の群れと、依然として「この世」の上に、大豪邸(世俗的な大教会)を建て続ける「愚かな乙女」の群れにです。イエス・キリストが教えて下さる、全ての正しい「答え」とは、神との親しい「交わり」、即ち神の「安息」のことです!


 そうです!私たちが神の「安息」の領域に入る(留まる)だけで、イエス・キリストの「命の水」が豊かに流れ出し、私たちの全てを完全に癒し、そして聖められて行くのです。あなたが益々、主なる神が導いて下さる「安息」の中で、イエス・キリストに全ての「答え」を、激しく求め続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年8月7日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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