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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.15)

                 信仰の扉が完成する時




・・・・私たちの敵は、私が城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城内に扉を付けるだけだということを耳にし・・・・私のもとに使者をよこして、「オノの谷にあるケフィリムで会おう」と言った。そこで私は使者を送って言わせた。「私は大きな工事をしているので、行けません。・・・・」彼らは同じことを四度も言ってきたが、私も同じように返事を繰り返した。五度目にサンバラトは、配下の者を同じ言葉をもって、私のもとによこし・・・・開封の手紙には、こう書かれていた。「あなたとユダの人々は反逆を企てていると、諸国の噂にもなって・・・・あなたはユダの人々の王になろうとしているということだ。今のこの噂は、王のもとに届こうとしている。早速相談しようではないか。」そこで私は返事を送った。「あなたの言うことは事実に反する。あなたの勝手な作り事だ。」彼らは皆、私たちの手が弱り、工事を完成しないだろうと言って、私たちに恐怖を与えている。神よ、今こそ私の手を強くして下さい。
                                                                                                   【ネヘミヤ記6章1節~9節】


敵の「トリック」を見破れ!
 私たちに対する、主なる神の「恵み」という取扱いは、如何に素晴らしいものであるのか、それを私たちは常に知る必要があります。ネヘミヤは、エルサレム城壁の完成の時が近いことを、6章1節において明確に記録しています。


 そして最後に残っている工事、それが「大手門」、いわゆるメインゲ-トの取付工事です。この工事が終われば、遂に「守りの砦」として、城壁が完成することになります。しかし敵は、いよいよ城壁が完成するに当たり、一機に攻撃を仕掛けませんでした。


 例えば、私たちが先ず「洗礼」を受け、次に聖霊のバプテスマを授かり、様々な霊的訓練を経て、霊的に研ぎ澄まされていく中で、霊的戦いの時が整ってきます。しかし聖霊様は「それで完成(終わり)ではない!」と明言します。最後に残っている「大手門」、これが重要となります。


 その「信仰の扉」となるものが、私たちを完全なる「神の兵士」として、また「キリストの花嫁」として完成する訳ですが、そのためには最後に「大手門」に取り付けるという、霊的工程が当然必要となります。「その時」には敵も動き始めるのですが、吠え猛る獅子の如くに、一機に攻めかかる訳ではなく、実は「トリック」をもって仕掛けてきます。


 「トリック」とは罠を意味します。さて敵は、如何なる「罠」を仕掛けてくるのでしょうか?まず彼らは、あたかも客人の如くにやって来て、「私たちはあなた方と、親しくお付き合い(取引)したいから、ぜひとも仲良くしましょうね!」と語り、続いてそのために「私たちの会合(交わり)に来て頂き、食事でもして親しく話し合いましょう!」と誘いかけます。ネヘミヤに対しては、何と四回続ける「しつこさ」をもって。


 ネヘミヤは、それが単なる「トリック」であることを、当然見抜いていましたから、その全てを丁重に断りました。すると敵は五回目に、封印されていない「手紙」を持って来ました。つまり、誰が見ても分かる状態の手紙であり、当然敵方の使者も見るということで、送り主に対する横柄な(無礼極まる)書簡でした。ネヘミヤは、その手紙を見て瞬時に悟りました。「敵は、遂に本音を出した!」と。


敵の攻撃にどう対処するのか?
 さて敵は、私たちの「何」を攻撃してくるのでしょうか?特に「脅し」をもって牙を剥いて来る時、それは私たちを恐怖に貶めるためです。私たちの肉体的感覚(五感)は、敵の見える攻撃(暴言、中傷、嫌な顔つき・態度等)に対して、殆どが「弱さ」を覚えます。しかし私たちが、それに負けて(妥協して)しまったら「終わり」です。つまり、今まで培ってきた信仰の城壁が、たちどころに瓦解することになります。


 敵の攻撃に対して、どんなことがあっても、私たちは自分自身で判断してはなりません。「その時」に何故、主なる神が私たちの「信仰の扉」を、最後に取り付けるという、霊的プロセスを残したのか?この点に私たちは、霊的意識(関心)を向けるべきです。それは一番に重要な工事だからです。ですから私たちは先ず、敵が牙を剥いて脅してくる、その明確な理由(目的)を知る必要があります。さもなくば、私たちは自分自身で判断して、正しい道から外れる可能性があります。


 9節には敵の常套手段が記されています。「彼ら(ネヘミヤたち)は、交渉のテーブルに着くどころか、逆に謀反を企てるなどして、自分たちの良き提案を無視している。いずれはペルシャ王に盾突くぞ!」と。つまり敵は、真実な人々を「悪役」に仕立てることに尽力し、最終的に弱体化させることが目的です。


 これに対するネヘミヤの態度は、「あなた方の言っていることは事実に反する!あなた方の勝手な作り話に過ぎない。」と、端的に答えただけです。しかし、恐らく彼も一人の人間ですから、「このま行ったら、どうしよう?全員を励ますためには、どうしたらよいのか。そして私はこの事態にどう立ち向かうべきなのか?」と、内心では動揺したかも知れません。


 「その時」彼は、その震える両手をもって、神に対して祈りました。「神よ、今こそ私の手を強くして下さい。」(9節)と。この彼の祈りを直訳すると、ネヘミヤが明確に「敵」の攻撃の目的を、神に対して実は報告している事がわかります。「敵は私たちを、恐怖に貶めるべく様々に試みかけ、私たちの最後の仕事(大手門の扉の取付工事)が、完成するのを阻止しようとしています。しかし今、主なる神よ!私の手に再び、あなたの御力を与えて下さい。」と。


 このことから、敵の「脅し」の目的は、様々な「恐れ」と「不安」をもって攻撃し、私たちの信仰の扉を破壊し、最終的に不信仰に貶めること、これが明確に見えてきます。と言うことは、「信仰の扉」が大手門に取付けられること、これは神が与える最大の武器(防御)になる!こと、これを是非忘れないで下さい。


信仰の扉
 では具体的に「信仰の扉」とは、何のことでしょうか?そのヒントは、私たちの「唇」という器官にあります。ネヘミヤは大手門の「扉」を取付けるに当たり、「うめき」の如き祈りをもって、一番に畏れるべき方(主なる神)に対して、「私の手に再び、あなたの御力を与えて下さい。あなたの御力によって、この最後の工事の仕上げを、どうか宜しくお願いします!」と告白しました。


 実は、この「信仰の唇」を開くか否かによって、事(勝敗の行方)が決まります。目の前に群がる大軍勢の「敵(現実)」を見て、私たちはとかく「あ-もう駄目(負けてしまう)かも知れない。」と呟く、「肉の唇」も持ち併せています。しかし覚えて下さい。その時に必要な信仰の武具、特にその中で最大(最後)の武器、それが「信仰の唇(扉)」なのです!


あなた方の中で、知恵があり分別があるのは誰か。その人は、知恵に相応しい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなた方は、内心妬み深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。・・・・上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐みと良い実に満ちています。
                                                                                                 【ヤコブ書3章13節~17節】


 ヤコブは明確に「知恵」を区別しています。それは①下からの「知恵」と、②上からの「知恵」の二種類である!と。この二つの「知恵」を取捨選択する最後の砦、それが「信仰の扉」である唇と言えます。


 私たちの内側には、「罪」故に妬み、利己心などがあり、それを簡単に唇(扉)から開けて(語って)しまうのであれば、それは「敵」の侵入を許すことになります。しかし上からの「知恵」は、最初から聖霊様の権限のもと、私たちが信仰をもって、この唇を支配して戴く限り、如何なる敵からも決して毒されることの無い、むしろ人の徳を高める「霊の言葉」が、溢れるばかりに流れ出ます。


 聖霊様は、私たちが最後の工事を完遂するべく、「信仰の扉」をいつでも取り付ける手配(取扱い)を、私たちに用意されています。ですから、私たちの為すべき霊的準備、それは「信仰の扉(唇)」を、常に聖めておくことです。


 さて、これからは「正しい知恵」が、益々求められる時代に入っています。それは「下(肉)」から来るものではありません。常に「上(天)」より来る神の賜物です。私たちもネヘミヤの如くに、信仰が霊的に試されています。下からの判断で敵に妥協するのか、それとも聖霊様に従い、神の御心のみを畏れる、直ぐな神の兵士として生きるのか?


 主イエス・キリストの豊かな「恵み」と「祝福」が、あなたの信仰の歩みにおいて、満ち溢れる程に益々注がれ、あなたの「信仰の扉」が、更に磨きのかかった、神の大いなる武器となりますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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