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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.14)

イエス・キリストのEyes①


               何を先ずご覧になられたか?



その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。・・・・イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。その時、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
                                                                                               【マタイ福音書3章13〜17節】


私たちの「眼」の現状
 イエス・キリストは、どのような眼差し・視点(Eyes)をもって、対象となるものを「ご覧に」(16節)なられたのでしょうか?私たちも、様々な「眼差し(Eyes)」をもって対象となるものを見ます。しかし私たちの「眼」は、ご存知のように三次元的なものしか見ることが出来ず、それは有限的なものの見方です。


 例えば、私たちが見知らぬ人物に遭遇する場合、必ず私たちの「眼」は、相手の「眼」をも見つめることになるのですが、その時に自分の第一印象が悪ければ、自分の「眼」を相手から背けたりします。また逆に相手の「眼」が、自分の「眼」を背けるような態度をした時に、「あ!私のことを嫌っているのかしら?」などと錯覚する時もあるでしょう。あくまでそのような視点は、主観的な自分の「思い込み」や「偏見」から来る訳ですが、「(相手の)眼を見たら、必ず分る!」という、一人一人が持つ自己中心的な「視点」です!それ程に私たちの「眼」は、自分の「心(思い)」の状態を、顕わに(明らかに)する作用があるのです。そして健常者にとって、真っ先に対象者に関する「情報」を知る器官が、相手が語りかけてくれない限り、殆どの場合「眼」になります。


イエス・キリストの「眼」は?
 ではイエス・キリストの場合、彼は「何」を求め(望み)ながら、又どのような「思い」をもって、肉体的器官である「眼」を使って、対象となるものをご覧になられたのでしょうか?イエス・キリストは確かに、聖霊を通して身ごもった処女マリヤの胎の中から産まれました。そして聖霊様は、この時から常にイエス・キリストと共に臨在し、ある時は霊的な励ましを与えながら、様々な歩みの中で助け導きました。


 しかし、イエス・キリストも「人の子」でしたから、人間的に一番頼りにし、そして尊敬していた対象者は、「父(ヨセフ)」であったものと思われます。彼の「父」ヨセフは、イエス・キリストが成人に達する前に、何らかの病で他界したと言われています。それ故に、イエス・キリストはヨセフ家の長男として、父亡き後家族を支えるべく、一生懸命に大工仕事に精を出す、そんな苦しい青春時代を過ごしたことが伺えます。聖霊様は、そんな青年イエス・キリストに、常に語りかけ使命(生きる意味)を与えます。「あなたは、いずれ神の時が来る時に家族の元を離れ、全ての人の罪を救う贖いの子羊となるべく、父なる神の道が用意されます!」と。


 そして遂に「神の時」が、30才になったイエス・キリストの人生を訪れ、イエス・キリストは母マリヤと家族の元から離れ、「神の道」に従うことになりました。その後イエス・キリストは、聖霊を通して「荒野」に導かれて、40日間に渡る「断食(霊的訓練)」の中で、ご自分の「真の父」が、唯一なる全能の神「御父」であり、「父なる神」と「御子」という、新しい関係に入ったことを確信しました。


 そしていよいよ、父なる神の「救い」のご計画に従っていく過程で、イエス・キリストは聖霊を通して、「父との新しい関係に入ったあなたは、これから私の与える天上の力を、日々受け取らなければならない!それ故、先ず洗礼者ヨハネの元に行き、彼から洗礼を授けてもらいなさい!」と命じられました。この時のイエス・キリストの心境は、40日間の断食を乗り越えた直後のことでもあり、「遂にこの私が、新しい神の国の到来に携わる時が来た。それ故、一生懸命父なる神のために働こう!」などと、興奮する思いもあるのですが、ある反面「果たしてこの私が、偉大な神のご計画にあずかれるのだろうか?私は、ただの大工のせがれではないか!」と、逆に弱々しくなる思いもありました。しかも「家」に残してきた、年老いた母と兄弟たちのことを思うと、「不安」と「心配」が入り混じる心境でした。しかし聖霊は、イエス・キリストが気落ちする度に、必ず臨んで下さり「否!あなたが先ず求めるべきことは、私を待ち望むことです!その為には、洗礼者ヨハネの元に行き、彼から洗礼を授けられることで、父なる神の恵みを受け取りなさい!」と励まされたのです。


 そして、「その時」イエス・キリストは、ご自分の「身分」を明かされずに、ヨルダン川に居るヨハネの前に出て、洗礼の恵みを受けることになりました。ご存知のようにヨハネは、イエス・キリストと親類関係にありましたが、互いに成人してからは殆ど「顔」を合わせることも無く、現在の「顔付き」を互いに知りませんでした。しかしヨハネは、自分の前に進んで申し出た若き人物を眺め、その者は今までに見たことの無い美しい顔立ちで、彼はイエス・キリストの「眼」を見た瞬間に、「この方こそ、私がずっと待ち望んでいた、然るべきメシヤである!」と悟ったのです。


「聖霊」を求める祈り
 ヨハネから洗礼を授けられるに当たり、イエス・キリストは祈りながら待ち望みました。「父よ、私はあなたを待ち望み、いよいよあなたの働きを為すべく、この場に来て洗礼を受けます。どうぞ聖霊様!私が本当に確信出来るよう、あなたご自身を現して見せて下さい!」と。


 私たちが「あるもの」を願い求める場合に、必ず私たちの「思い」の中では、イメージとして「そのもの」を心の中に描いています。つまり「心の眼」で、欲する対象を見ている訳です。この時のイエス・キリストも、ご自分の欲する「思い」を、イメージ的に次のように思い描きながら、聖霊を待ち望んでいました。「天のお父様!私はあなたの御子としての人生を確立すべく、自分の中にある人の子としての弱さを、完全に覆い尽くす程の素晴らしい聖霊様を、私の眼の前で明確に現して下さい!」と。ところで、私たちは「聖霊様、来て下さい!」、「聖霊様、どうぞ助けて下さい!」などと祈りますが、「その時」の私たちは、如何なる心の「眼(まなざし)」をもって、聖霊様を求めて(描いて)いるのでしょうか?私たちが聖霊様を求める時、それは「聖霊様、あなたご自身の豊かな麗しい臨在(現れ)を、この私にも豊かに見せて下さい!」と謙虚に祈る、霊的基本に戻るべきではないでしょうか!


 私たちの人生には、各自「自分の計画」や「自分の目標」など、様々に欲する自己中心的な「思い」が、自分の「霊」の中に描かれます。しかし、この時のイエス・キリストの如くに、何よりも先ず願い求める祈りは、「父なる神よ、あなたは私が如何にもろくて、弱い器であるかをご存知です。肉の力では立ち続けることも出来ず、更に自分の計画で何も為し得ないことを、あなたはご存知です。聖霊様、このような私の元にも、あなたが訪れて下さり、明確にご自身を現して下さい!そうすれば私は、自分の人生に神のご計画がある!という全き確信に、必ず至ることでしょう!」と。


 そうです!私たちは、「助け主(聖霊)」が共に居て下さる!という確信が与えられれば、必ずその方に対して「委ねる」ことが出来るのです。この「共に居る」という概念が、時々私たちの「霊」のイメージの中に明確に描かれていないか、何か別のイメージを描くなど消し忘れているために、私たちは「不安」と「絶望」に陥るのです。私たちの信仰生活の歩みにおいても、神が必ずご自身を現して下さり、何らかの助けをもって導いている!という体験をしている者は、自分の「肉の力」で気負う必要もなく、安心して「委ねる」人生を歩むことが出来ます。そして、神が「言われること」のみを為して(従って)ゆけば、「私の人生の保証は全て神にある!」という生き方に切り換ってゆくのです。


 この時のイエス・キリストも、肉なる「思い(感情)」としては、様々な「心配(不安)」が付きまといました。「これから私は、どうすればよいのだろうか?父なる神は生まれ故郷を出て、イスラエル全土に向けて、神の国の福音を教え広めなさい!と言われているが、私に何の力があると言うのか!一人では何も出来ないではないか。ナザレに戻れば母上がアドバイスして下さり、弟たちも何らかの助けになったのに・・・・」などと。しかし、それでもイエス・キリストは只一つのことを待ち望み、「天」を仰ぎ見たのです。「聖霊様が必ず、父なる神に対する私の祈りを届けて下さる!そうすれば聖霊様が、明確にご自身を現して下さる!」と。


 すると「天」が開かれ、聖霊なる方が「鳩」のように、イエス・キリストの頭に降臨して下さいました。私たちはこの記述から、聖霊様が「鳩」の姿(形状)をとって、彼の頭の上に舞い降りたかのようにイメージしますが、私は聖霊様が「鳩」のような舞い方で「天」から降られ、優しくイエス・キリストスの頭に臨まれた!とイメージします。


 ところで、「鳩」が空から地面に滑降する(舞い降りる)場合、他の鳥たちの降り方と違って、地面すれすれまで羽音をたてずに、優雅に舞い降ります。そして着地寸前に、軽く羽をバタバタさせるだけです。この「鳩」の舞い降りる姿と同じ現象で、イエス・キリストの「眼」に明確なシーンが見えたのです!聖霊様が「天」から優しく降臨して下さり、ご自分の「頭」に触れられた時、聖霊様が完全に自分の全てを、「聖なる光」の中に覆って下さったことを。その瞬間に、イエス・キリストは確信に至りました。「聖霊様、あなたは私が幼少の頃から、確かに御声をもって語って下さいました。しかし今!確かにあなたが、私の人生の導き主として、共に居て下さることが分りました。あなたが臨在して下さる限り、私は安心して父なる神の御元(御心)の中に行くことが出来ます。私が何も気張ることも、計画(目標)を立てる必要もないのですね・・・・。」と。


私の愛する子よ!
これは私の愛する子、私の心に適う者」(17節)
 天上から聞こえてきた、父なる神の御言葉を直訳しますと、「これは私が一番に愛し、いつも心に覚えるほど気に懸けている、私の息子である!」となります。「一番に・・・・」の表現から、私たちはすぐ比較する際の「副詞」の表現と解釈しがちですが、父ご自身にとって御子イエス・キリストの存在は、「命」と引き換えにするほど、つまり「目に入れても痛くない」ほどの、愛の対象であることを教えています。あなたは、聖霊様との「親しい交わり」を通して、父なる神から「私が一番に愛する子よ!」という表現で、語りかけを戴いたことがあるでしょうか?


 御言葉に述べられている如くに、「あなたは高価で貴い器である!」と優しく語られたことは、幾度となく経験していることでしょうが、「あなたは、私が一番気に懸けている、最高の愛する器です!」という言い回しで語られたことは、逆に殆どありません。しかし覚えて戴きたいことは、あなたが如何に無力で、非常に壊れ易い「弱い器」であっても、聖霊様があなたの上に臨まれる時、あなたが過去において如何なる傷を被っていようが、父なる神はあなたのことを、一番に気に留めて下さるのです!父なる神から、いつも気に留めるほど愛されることを望む方は、是非「聖霊の臨在」を求めて下さい!そしてイエス・キリストが、先ず「何」をご覧になられ、その目的が「何」であったのかを、いつも心の中に憶えて下さい!


 私たちの心は、他人の「顔付き(表情)」や「眼差し」を見て、非常に気に懸けるなどの「弱さ」があります。しかし、イエス・キリストがご覧になられる霊的次元は、私たちの持つ三次元な人間関係レベルには存在しません!また、イエス・キリストが私たちに望まれることは、私たちが更に「聖霊の臨在」を求めて、本来の麗しい人(器)に造り変えられることであり、イエス・キリストは「神の国」という、霊的次元に生きる「あなた」を、前もってご覧になれていることを、信仰をもって覚えて(知って)下さい!イエス・キリストにとって一番最大の関心事は、ご自分と愛する「あなた」が、麗しいフレンドリーな(親しい)「関係(交わり)」にあるか否か!ということです。


 聖霊様という方は、何か漠然とした神ではなく、絶えず私たちの「霊」の中に、まるで「鳩」が優雅に舞い降りるかのように、訪れて住んで(留まって)下さり、私たちに必要な「知恵」と「力」を授け、無理のない人生を確立して下さる方なのです。それ故私たちは、日々「聖霊の臨在」を求め、次のように祈りましょう!「聖霊様、私の元に来て下さい!あなたを見たいのです!あなたが、私の霊に訪れて下さることで、私は愛するイェス様の御顔を、明確に見ることが出来ます!また父なる神の栄光の中に覆われた、自分の人生を確実に見ることが出来ますから・・・・」


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