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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.15)

イエス・キリストのEyes②


                      主の御心を注ぐ方




イエスはお育ちになったナザレに来て、いつもの通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」と話し始められた。皆はイエスを誉め、その口から出る恵み深い言葉に驚いて・・・・。
                                                                                                   【ルカ福音書4章16〜22節】


 主なる神は、どのような「思い」をもって御子イエス・キリストを、「この世」に遣わされたのでしょうか?このことを常に覚えて下さい!イエス・キリストは、父なる神の「御思い」を汲み取った時に、聖霊様が彼の「霊」に働きかけ、神の「命の言葉」を託され(注がれ)ました。イエス・キリストは、この時シナゴーグ(会堂)にて、聖霊に導かれるままイザヤ書の巻物を開かれた訳ですが、実はこれこそ父なる神が、イザヤの唇を通して預言していた、「命の言葉」の成就、つまりイエス・キリストが「救い主」として、人々の間に訪れて下さった!という、大いなる証明の時であり、彼の聖なる務めである「召し(使命)」の始まりを物語る、素晴らしい出来事だったのです。


「注ぐ」というキーワード
 このストーリのキーワードは、「注ぐ」という言葉(動詞)です。これは、イザヤの預言にも記述されている言葉ですが、人々の「目」が救い主の「行動」、またその語る「言葉」に注がれたことを説明しています。「注ぐ」とは、注意や注視などの熟語に使われるように、それは文字通り「水(液体)」を、何かの「器」に入れる行為(動作)から生れた言葉です。


 聖書には「油注ぎ」という言葉が、数多く記述されています。この言葉は、神の務めを為していく際に、聖なる「香油」を祭司(王)の頭に注ぐことです。祭司の務めの主要な働きは、人々の「罪」を父なる神によって贖って戴くため、代理人(仲介者)のように働くことです。本来私たちは、神に対して「面」と「面」を向かい合って、「申し訳ありませんでした!私が誤っていました。どうぞ私の罪の全てを、あなたが赦して下さいますように!」と、ストレートに表明できれば良いのですが、アダム(エパ)の犯した「罪」により、私たちは神の御前に直接出ることが不可能になりました。それ故、祭司(代理人)が年に一度、幕屋の中に設けられた祭壇上で「子羊」を屠り、全焼の生贄として献げる行為(務め)を果すなど、「神」と「人」を結ぶ仲介の役割を担います。


 しかしイエス・キリストが、「この世」に遣わされた目的は、このような幕屋における、手間のかかる全焼祭などの儀式の為ではありませんでした!それ故、父なる神が聖霊を通して、この時のイエス・キリストに対して開かれた言葉が、実はイザヤの預言だったのです。


イエスの目が「注がれた」御言葉
 ところで「注」という漢字は、ご存知のように「シ(さんずい)」に、「主」を組み合わせた合成文字です。今日の日本文化の中では、「主」という概念は余りピンと来ませんが、ユダヤ人及び昔の中国の人々にとって、「主」イコール天の神(中国語では天主)のことです。そして「シ(さんずい)」とは、水の働きを表す動詞や名詞に用いられる言葉(つくり)です。


 この時イエス・キリストは、どのような「思い」をもってイザヤ書の巻物を開かれ、そしてお読みになったのか、この点について私たちは先ず「知る」必要があります。イエス・キリストは、幼少の頃よりユダヤの「律法」を学び、成人してからも様々な宗教儀式に携わる過程から、「律法」の行いが如何に人々を霊的に束縛し、「律法」の規定する様々な行為そのものに、多くの矛盾が存在することを知っていました。特に年に一度の全焼祭において、数多くの子羊が「生贄」として屠られ、大量の子羊の血が流されること、更には「祭り」自体に様々な規制が敷かれ、しかも莫大な「金(費用)」がかさむなど、明らかに一般の民衆にとって、近寄り難い神への「礼拝儀式(行い)」でした。


 日本の葬式仏教の儀式にも、相似した部分が多く見受けられます。「ご先祖様が、安らかに成仏できることを願うのであれば、(私どもの寺に)多く寄進しなさい!」などの教えや、キリスト教の異端にも見られる極端な教え、例えば「地獄に落ちたくなければ、牧師(指導者)に従いなさい!」、また「信仰が成長したいのであれば、より多く献げなさい!」などと、「奉仕」や「献金」を更に要求し、精神的にマインド・コントロールする場合が、前述した宗教的「行い」に相当します。しかし真の父なる神の「御心」は、無代価であなたを贖い、罪の縄目から完全に解放し、その後にあなたを完全に「自由人」として造り変えることにあります!


 まさしくイエス・キリストは、シナゴーグに集うガリラヤの人々の「思い」を汲み取った時に、「主よ、今から私は、何を彼らに語るべきでしょうか?聖霊様!あなたは先日ヨルダン川にて、鳩のように降って下さいました。今から私が開く巻物の中に、どうか父なる神の御心を注いで下さり、読むべき御言葉をお示し下さい!」と祈りながら、「その時」を待ち望みました。すると聖霊が、イザヤ書の巻物に記述されている、ある預言の御言葉に彼の「目」を導きました。


「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61章1〜2節)


 今まで、様々な律法の専門家や教師たちが、当然の如くこのイザヤの預言の言葉を、数多くのイスラエルの人々に読み聞かせました。恐らく彼ら教師は、義務(職責)的にこの御言葉を、朗々と読み進めたことでしょうが、イエス・キリストの場合は、まさしく父なる神の代弁者として、大胆に宣言するかの如くに読んだ訳です。


 すると、聞いていたガリラヤの住民は、その預言の御言葉に圧倒されて、思わず「主を称えます!」と、次々と神に向かって拍手しました。その瞬間に、「真実の礼拝」が起きたのです。イエス・キリストが、イザヤの預言の一部を読んだだけで、彼らの「霊」の中に「これこそが、私たちがずっと待ち望んでいた、真の父なる神の救いのメッセージであり、今私たちは実際に、これを聞くことが出来た!」と、明確な信仰として捉えることが出来たのです。


 イエス・キリストは、続いて彼らに対して「皆様方、あなた方は確かに今、神の御言葉を受け取りました。それ故に、神の御心がまさに今あなた方の、霊の只中から実現しているのです!」と、大胆に預言の成就を宣言しました。


イザヤの「預言」の奥義
 このイザヤの預言の御言葉は、実はあなたの中にも聖霊を通して、「約束の言葉」として豊かに注ぎ込まれているものです。父なる神は、愛するあなたを創造するに当たり、先ず「霊」を形作り、その中に「命の息」を注ぎ、そしてあなたを母の胎の中に、一人の「命あるもの」として創造した時から、主なる神の「霊(聖霊)」があなたに対して、イエス・キリストと同様に、「あなたを、この世に産み出した目的は、このイザヤの預言の目的と同じである!」と命じられているこの重要なメッセージを、あなたも受け取る必要があります。「え!この私が、①貧しい人々に福音を告げ知らせ、②縛られた人々に解放と自由を与え、③盲目の民に明確な視力の回復をもたらし、④難病に苦しむ民に本当の癒しの御業を現す・・・・ですって?イェス様には可能でも、私には無理です。」と、誰もが困惑することでしょう。


 しかし、果たしてそうでしょうか?聖霊様に従順して行く者には、単純に聖霊の促しを通して「今、(神の命の言葉を)語りなさい!」と命じられる、その「命の言葉」を大胆に語った(発した)だけで、様々に驚くべき癒し(奇跡)の御業が現されることを、私たちはリバイバルに伴う「証言」を通じて知っています。そして、そのような「神の国」の御業の現れを通して、父なる神がまさしく生きて働かれ、私たちの生きる今日の時代にも、イザヤの預言を成就して下さっていることを知り、結果的に大いなる「励まし」を受けます。聖霊様は、「主の霊(聖霊)が降る時に、必ず神の国が豊かに現されます!あなたが神の命の言葉を、唇から大胆に語った(発した)時から、イエス・キリストの素晴らしい御業が、既に始まっているのです!ですから祈り続けなさい!求め続けなさい!あなたの信仰、あなたの真実の礼拝を通して、必ず神の国があなたの霊の只中から生み出され、大きく拡大して行くことでしょう!」と、今も尚「励まし」を与えているのです!


 私たちは、すぐに三次元の「肉の眼」をもって、物事の現実を見てしまうが故に、この聖霊様の大切な「励まし」を忘れます。しかしイエス・キリストの「目」は、三次元レベルを見ていません。イエス・キリストの視点は、常に父なる神の「御心」を、この地に現すべく「父よ、私はあなたの御子として、この地にあなたの麗しい御業をもたらす、天の権威(特権)が授けられています!それ故、命の言葉をもって語る時に、あなたの御心を現して下さい!」と祈る姿勢に全精力を傾けました。


 彼は父なる神の「栄光」を現すべく、常にその「視点(眼)」を父の「御心」に留めました。私たちは、三次元の「肉の眼」で物事を見るという、霊的縄目に縛られている故、例えば「あー、これは私には不可能だ!この大きな問題(難病、困難、苦しみ)は、私の祈りではままならない!」などと躊躇します。しかし、父なる神は「その時」私たちに対して、「否!あなたが為すのではない!私の思い(御心)をあなたに注ぎ、私の霊(聖霊)をあなたに遣わす時に、あなたは只待つだけで良いのです!その時を視る!という信仰を持ちなさい!」と、尚も聖霊を通して「励まし」を与えて下さるのです。


 「注ぐ」とは霊的に解釈すれば、主なる神の「御心」を現すべく、「シ(さんずい)」なる方(聖霊)が働かれることです!つまり聖霊様が、主の「御心」を現す為に働かれる際、あなたという貴い「器」に、神の「御心」を同様に託す(注ぐ)こと、これが聖霊の「油注ぎ」です。私たちが「井戸」から、一杯の水を汲み上げる場合、その目的は何のためでしょうか?それは汲み上げた水を「器」に注ぎ、そしてその「器」から直接「命の水」を飲むためです。そうです!喉の渇きを潤すために、私たちは「井戸水」を汲み上げるのです。


 「命の水」を飲んだ者は、その後どうなるのでしょうか?再び「活力(生きる力)」が体内にみなぎり、「よし!あと一踏ん張りがんばろう。」などと、立ち上がることが可能になります。このように「器」の働きは、①「命の水」を注がれ、そして②「器」を用いる者の唇に、「命の水」を流すという、この二点です。「注ぐ」と「流す」に共通する文字が、「シ(さんずい)」つまり聖霊様の働きを示しています。私たちは、取るに足らない「小さな器」かも知れませんが、主なる神の「御心」が注がれる時に、私たちは聖霊様の促しに従って、「流す」だけで良いのです。私たちという霊的な「器」の源泉は、「命の水」を与えて下さるイエス・キリストだけである!このことを常に覚えて下さい!


 イエス・キリストが歩まれた経験の全ては、私たち(器)の働きにも関わってくることです。私たちの救いの御子イエス・キリストは、今も尚「復活の力」を人々に与え、この地に「神の国」を豊かに現すべく、聖霊を通して私たち(器)に「励まし」を与えておられます。それ故イザヤの預言通りに、私たちキリスト者に豊かな人生が確立されるよう、私たちは希望をもって祈り続けて下さい!


 イエス・キリストの「愛の眼」が、私たちの人生の全てを見通され、しかも私たちの人生の全てを、前もって経験される(請負って下さる)ことを、信仰として受け留めて下さい!主なる神の「御心」を注ぐ方は、聖霊様お一人です。ですから、私たちは聖霊様との「親しい交わり」を更に求め、父なる神の麗しい「御心」が、あなたの人生に注がれることにより、「神の国」があなたの人生に豊かに実現することを、主イエス・キリストの御名の権威によってお祈りします。アーメン!


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