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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.16)

                    たまたま賜る神の恵み




ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。・・・・ルツがナオミに、「畑に行ってみます。・・・・落穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「私の娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後に付いて落穂を拾ったが、そこはたまたま・・・・ボアズが所有する畑地であった。
                                                                          【ルツ記2章1~3節】


聖霊の「大介入(ひっくり返し)」
 ルツの信仰行動は、聖霊様の「働き」を表しています。彼女は、主なる神の「恵み」を常に求め続け、そしてストレートに受け取るという、非常に大胆な霊的特性を持ち併せています。それはイエス・キリストに対して、自分の子(娘)の病いを癒して戴くべく、恥も外聞も捨てて「救い主」に懇願した、フェニキア出身の異邦人女性(母親)に似通っています。


 「先(将来)の望み」、そして「先(老後)の蓄え」が、殆ど底を尽きようとしていたナオミ一族にとって、故郷への帰還は「骨埋め」の如き、絶望(悲観)的なものでした。しかし不思議な事に、ルツだけがナオミに共に随行しました。


 今回の記事で学ぶべき奥義、それは聖霊様による「大逆転(ひっくり返し)」の働きです。第一の「ひっくり返し」は、ナオミの不信仰から来る「人の時」を、遥かに超える「神の時」が、既に用意されていたことです。そうです!それが大麦の「収穫時期」でした。当然ナオミは、そのことを知っていましたが、その時期を狙って帰還したのではなく、あくまで「たまたま」に過ぎませんでした。


 第二の「ひっくり返し」は、ナオミ自身が気付いていなくても、「信仰者(正しき者)」が必ず存在している、つまり神が必要な「助け手」を備えている点です。そしてルツの信仰行動が、その霊的「接点」となります。ナオミは「過去の繁栄」という、人間的プライドを捨てられませんでした。


 しかし異邦人ルツには、そんな人間的プライドは、過去(モアブ)に全てを捨ててまで、ナオミの信じる「真の神」に付き従いましたから、このルツの信仰行動が、実はナオミの人間的プライドの一切を、完全にひっくり返すことになります。


 食糧の「蓄え」が無くなる前に、ルツはナオミに申し出ました。「お義母さん、私ちょっと出かけて来ますね!」と。するとナオミは「え!何処に行くつもり?」と逆に驚く始末。続いてルツは「お義母さん、このままボ-ッ!としていても、何も始まらないし、飢え死にするだけですから、私ちょっと食糧を調達しに行って来ます!」と言うや否や、急いで出かけました。


不思議なる神の「たまたま」
 ルツの大胆な行動がもたらす、予想もしない「出来事(ひっくり返し)」が、次々と起こり始めます。私たちは、自分が立てていた「計画」、自分が描いていた「将来像」、自分がコツコツと積み上げていた「貯蓄」などが、何らかの理由で一旦途絶えるような、想定外の事態に陥った時、試されることになります。それは私たちが、一体「何」に属しているか?という点です。


 つまり「この世」に属しているのか、それとも神に導かれる民として、神の豊かな栄光の富(恵み)を享受するなど、「御国」に属して生きているか?ということです。聖霊様は私たちを霊的に試すべく、想定していない事態(神の出来事)を、あえて起こされる方です。私たちに対する神の「取扱い」や「恵み」は、決して断たれている(途絶えている)訳ではないことを、霊的に再確認させるためです。即ち、私たちが「神の子」であることを、改めて認識させること、これが神の「たまたま(取扱い)」です。


 私たちは「この世」という、有限的な世界に生きていますが、決して「この世」の奴隷ではありません!「この世」に縛られた虜(群れ)でもありません。「世」に属する人々は、必ず「これ(世の富)が無くなったら、どうしよう?生きていけない!」などと、必ず「恐れ(心配、不安)」の霊に支配されます。


 ルツには元々、何の「計画」もありませんでした。ただ分かっていたことは、落穂拾いに出かければ必ず、「異邦人の卑しい女が・・・・!」などと、必ず軽蔑(差別)されることを。しかし彼女は、それを恐れることなく、最初に出かけ働き始めた場所が、何とボアズの「農場」だったのです。それも「たまたま(偶然)」。


 この「たまたま(偶然)」という表現は、「人の時」を超えて働かれる、「神の時」を賛美する意味で、恐らく彼女が後々記述したものと思われます。ルツには、神が「全て」を相働かせて、必ず「益」として下さることを、ナオミの「信仰」姿勢から、霊的に学び取っていました。


 何度も強調しますが、私たちキリスト者は、「この世」を恐れる奴隷ではなく、聖霊様によって神の霊的「必然性(たまたま)」を、必ず賜ることを認められた、自由な「神の子」です!私たちにとって、偶然の出来事は多々ありますが、父なる神の側から見れば、それら「全て」が必然的な、神の「ご計画」の中にあります。「たまたま」とは、人間の側から見た「表現」です。しかし父なる神にとっては、「全て」が私たちに対する、「益」として定めたこと、そして必ず「ご計画」通りに与えて下さる次元にあるのです!


あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証して下さいます。もし子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
                                                            【ロ-マ書8章15~17節】


 私たちが聖霊によって、「神の子(皇太子、皇女)」という、偉大な霊的特権が付与されている以上、それはイエス・キリスト(長子)と共に、全ての「苦しみ」ばかりでなく、天の「栄光」をも受ける身分です!キリストの共同相続人とは、永遠の「御国」の幸福(領域)に入る、権利(特権)を有した者です。将来に対して、「心配」と「恐れ」が全く無い世界、それが永遠の「御国」です。


 「落穂」は常に、信じ続けるあなたの前に用意されています!私たちが、一本一本と確信して拾い続ける限り、「落穂(神の恵み)」は無尽蔵に与えられます。聖霊様は私たちに対して、励ましの言葉をもって、常に導いて下さいます。「心配する必要はありません。私は圧倒的な大勝利(大収穫)を、イエス・キリストの御業を通して、十字架上で完成した。私に付き従ってきなさい!命の水が欲しい者には、価無しに飲ませてあげよう!」と。


 あなたが、ルツの如き大胆な信仰行動に立つべく、必ず召し出して下さる方、即ち聖霊様を通して豊かに導かれ、落穂を一本一本と拾いながら、明確に感謝の収穫にあずかれる者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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