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言葉の革命(No.35)

                        思い違いの危険性




私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物は皆、上から、光の源である御父から来るのです。・・・・御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んで下さいました。それは、私たちを、言わば造られたものの初穂となさるためです。
                                                                                【 ヤコブ書1章16~18節】


ヤコブ書とは?
 新約聖書には、他にも何人かの「ヤコブ」が登場しますが、『ヤコブの手紙』の著書は、主イエス・キリストの兄弟ヤコブであり、12使徒のヤコブではありません。この手紙は、時代的には使徒行伝期よりも何十年か後の、1世紀後半から2世紀にかけて、書かれたものではないかと推測されます。そしてこの手紙は、1章1節に明確に記述されているように、ローマ帝国に広く離散した同朋ユダヤ人に対して書かれたものです。


 文章的に、この手紙の際立った特徴は、命令調の語句が非常に多いことです。この手紙は、全部で108節に区切られていますが、その内の60節(6割)が「命令形」の言葉です。ですから、全体的に見てこの手紙は、霊的に厳しい内容(命令)の言葉が書かれてあり、ヤコブは律法主義的な人柄ではないかと錯覚しがちですが、彼がこのような手紙を書くに至った背景について、私たちは先ず知る必要があります。彼は決して、厳格に教え諭すためにこの手紙を書いた訳ではなく、全体の6割が神ご自身からの直接的戒め、つまりメッセージ色を帯びた、神の「御言葉」として同朋に投げかけるべく、聖霊の促しに従って書き著わしたことを知って下さい。


 実は使徒の働きの初期の頃は、全てのキリスト者が聖霊の力強い「変革の御業」により、素晴らしい「聖霊の器」に造り変えられました。一人一人が、イエス・キリストの「愛」と「情熱」に満ち溢れ、霊と真をもって主なる神を求め、かつ聖霊様に促されるまま人々に仕えることのできる、麗しい「コイノニア」が確立されていました。


 しかし聖霊のリバイバルの結果、数量的現象が飛躍的に拡大していく中で、エペソ教会やコリント教会に見られる、「宗教行為」にのみ力を注ぐなどの、誤った「人間的な業」の方向へと、いつしか人々は歩み始めました。ですから、この誤ったキリスト教の流れの中で、かなり初期の頃と比較して、イエス・キリストへの「情熱」が冷めつつある現状に対して、ヤコブは旧約時代の預言者の如くに、聖霊様から啓示される「預言的洞察」をもって、キリスト者の「霊的危険性」に関して、詳細に書き著したのではないでしょうか!


 それ故に、私たちはこの手紙を読む際、「~しなければならない」などの律法主義的な言葉として捉え、思わず脅迫観念に捕われるなど、窮屈に感じてしまうような読み方ではなく、ローマ書12章1節に記されているように、私たちがイエス・キリストとの関係で、本来の霊的ポジションに立ち返るよう、聖霊ご自身が直接命じて下さる、「愛の戒め」の御言葉である!このように把握し直そうではありませんか!


 このような視点で、再びこの手紙を読み直す時に、私たちが本来のあるべき「姿(フォーム)」に変革されるよう、聖霊様が指導教官として、直々私たちに対して霊的訓戒を、述べていらっしゃることがお分りになると思います。そしてヤコブ書を読み進めていく中で、必ず聖霊様の「語りかけ」が始まることでしょうが、私たちがその聖霊の「御声」に、謙虚に耳を傾けて行く時に、様々な「世俗的次元」にあっても、如何にして霊的勝利者に成り得るのか、又私たちが三位一体なる神に、いつも全面的に依り頼むことで、如何にして「この世」に流されること無く、霊的に「正しい方向」に歩む「器」へと変革されていくか、この二点が明確に見えてくることでしょう。


誤った方向性
私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。」(16節)
 「思い違いをする」部分を、英語で「deceive」と表現していますが、この言葉は本来「騙すこと」を意味します。しかしここでは、「正しく判断して受けとめること」に対して、「逆の判断」を為していくこと、つまり「正しい方向」とは逆の方向に判断していくことであり、正しく判断すべきところを逆に「思い違い」をするなど、そのような「意味合い」を持つ言葉です。


 私たちは思い違いをすることで、「正しい判断」として受けとめるべきことを、「正しい方向」から逸脱した、「誤った方向」の判断思考に決定付けられます。ですから、私たちは本来の「正しい判断」、「正しい考え方」、神からのメッセージに対する「正しい用い方」、そのような神が決定される「正しい方向」へと、霊的に軌道修正されなければならないことを、この御言葉は訴えています。


 この命令は、非常に「重要な戒め」です。ヤコブは「思い違いをしてはならぬ!」と、厳しく命じています。私たちが悪魔サタンによって、騙されている(deceive)部分が多くあり、この「思い違い」という「別の判断」を為すことで、私たちが「誘惑」と「試練」に対して、「誤った解釈」をする傾向にあります。例えば、「今、私は迫害の最中にあります。試練に遭っています。教会の中で、先生(或いは信徒)から、霊的ないじめに遭っています。」などと嘆く、キリスト者が多く見受けられます。しかし忘れてならないことは、聖書が示す「迫害」に関する「正しい判断(解釈)」は、次のようなものです。


 本当の霊的迫害とは、必ず「正しい方向」へ決定付けてくれるもの、つまり迫害を受ければ受けるほど、主なる神を益々追い求め、更に近づくようになることであり、決して「人」に対して嘆いたり、霊的迫害を受けていることで、自分を正当化するなどの「誤った判断」をしません。そして忘れてならない、悪魔サタンによる迫害は、私たちとイエス・キリストとの、奥深い「親密な交わり」を引き離そうと、最終的には私たちが「悪しき方向」、つまり「誤った判断」をするよう仕向けます。


 サタンが本当に働く時には、私たち信徒どうしの、又牧師との人間関係上のトラブル程度のものではなく、私たちの「信仰」そのものを破壊し、消滅せしめようとする規模の迫害が起きます。私たちの神に対する、「情熱」が激しくなればなるほど、サタンも紙一重で悪しき働きかけを試み、その「一体化」を引き離そうと、「誘惑(試み)」の度合いが激しさを増して行きます。このように「真の迫害」は、サタンが攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、私たちを更に神に近づけて行くものです。


 この「迫害観念」で思い違いしてならないことは、試練を通して「自分の判断」を更に助長するなど、傲慢な考えに陥って行くのであれば、それは「真の迫害」ではないことです。例えば、「私は預言的賜物に優れた器であるから・・・・、このような素晴らしい働きをしているから、他のキリスト者(或いは先生)が、私のことを妬んで霊的いじめをしているのだ!」などと考える時、この人は「真の迫害」を受けているのではありません。ヤコブがこの手紙の中で、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへり下りなさい。・・・・」(4章9~10節)と述べているように、とにかく私たちが「思い違い」を簡単にするために、「誤った方向」に傾き易い存在であることが、お分りになるでしょう。


「上」から来るもの
良い贈り物、完全な賜物は皆、上から、光の源である御父から来るのです。」(17節)
 私たちが何か判断する際、その判断が「上」から来ているのか、それとも「下」から来ているのか、これが非常に重要になります。あなた方の中にある、例えば「召し」や「賜物」に関する考え方(判断)は、「上」から来ていますか、それとも「下」から来ていますか?え!?「召し」や「賜物」に対する考え方が、「上」や「下」から来ることがあるのでしょうか?然り!あるのです。それは、思い違いをしている場合にその「召し」や「賜物」が、あたかも自分のものであるかのように錯覚する時です。


 例えば、ピアノ奏楽などに見られる熟練した「技術(業)」、何か他の人より優った技術的奉仕、人を魅了し説得力ある言葉をもって司会する奉仕などは、果して「上」からの賜物でしょうか?これらの技量的奉仕を、神の栄光のためにのみ使うのであれば、神から与えられた「天賦の才(タラント)」、つまり「上」からのものに相当します。しかし思い違いをすることで、「私は、これほどのことができる!だからこのように、人々から素晴らしい称賛を受けるのだろう!」と思う時、はっきり申し上げてこれは、「下」から来る思い違いの「考え方(判断)」に相当します。


 「上」から来るものは、天に居ます父なる神の「意志(御心)」から発するものです。私たちに対する、神の「ご意志」について考えてみたことがあるでしょうか?たとえ、私たちの霊的状態が罪に染まり、神に対して何も「善きこと」をしていない身であっても、父なる神は一つだけ、変らぬ「ご意志」を持っておられます。それは、私たちを決して「孤児」とは扱われないという、父なる神の「愛」の現れから分ることですが、「天(上)から全ての良きもので、私たちを完全に満たしたい!」と願っておられること、これが父なる神の変わらぬ「ご意志」です。これは、私たちが子供の時には分らなかったことが、大人になり結婚して子供が産まれ、その子供に対して願うことと同じもの、つまり「愛する子には、良いものを惜しみなく与えたい!」などと願う、親の「意志」の現れと同質のものです。


 それに対して「下」から来るものは、天(上)の領域から見て「下」の方位(方向)にある領域、即ち「この世」の三次元的フィールド、ひいては私たちの内側から生まれ出る、「肉の領域」のことです。この私たちの内側という、「下」の領域を占有しているもの、それは私たちの「自己中心(エゴ)」に他なりません。私たちは、「己の欲」から全てが始動するシステムが、生まれつき自分の中に働いてることを知っています。ヤコブが「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(14節)と、明確に記述している通りです。この御言葉に、「誘惑」の発生原因が説明されています。私たちはアダム(エバ)のように、全ての「誘惑」の根本原因が、サタンにあるなどと責任転嫁しがちですが、聖霊様は「あなたの中にある、己(自我)の欲望が働き出した結果、誘惑に陥ったのである!」と戒めます。


 「欲望」を与えたのはサタンでしょうか?実は、「欲望」には二種類あり、第一に「聖なること」を欲する思いと、第二に「悪(俗)なること」を欲する思い、例えば自分の「肉の力」で自己を満たそうとする思いのことです。しかし「聖なる思い」は、「上」からの力を得て初めて、父なる神の「ご意志」そのものを、自分の「意志」全体に満たして戴こうと欲する思いです。しかし自分の「肉の力」によって、自己満足に至ることを願う思いは、全て「下」から来る欲望(desire)です。ですから、アダム(エバ)の罪の結果、私たちも「善悪の木」の実を食しようとするなど、「下」からの思い(誘惑への欲望)が常にあることを、ヤコブは明確に述べています。


 私たちの「霊」が、「上」からの「聖なる思い」を、優先的に願い求めるのではなく、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(ローマ書7章15節)など「悪しき思い」があることを、パウロも訴えています。「悪しき思い」とは、悪しき「行為」に至る具体的な「思い(計画)」のことではなく、例えば「自分で何でもしよう!」、「自分で自分を満たそう!」、そして「人からの称賛を、自分の元に全て集めたい!」などの思いのことです。これらは、「下」から来る欲望の一例です。


 私たちは生まれながらにして、アダムとエバの子孫であるが故に、誰もが「思い違い」の危険性に陥り、そして「誤った判断」をすぐに下します。「誤った判断」とは、自分が「思い(判断)」の面で失敗することではなく、「下」から来る自己中心の「思い(欲)」で判断していくことであり、これが罪に至る「過ち」の根本原因です。神の「ご意志」に従って判断しようとする思いが、聖なる「正しい判断」であるのに対し、「私の意志」や「私の思い」、そして「私の欲」などから自分で動き出すこと、これが「誤った判断」です。


 私たちが、自分自身で先走った考え方をすること自体、「思い違い」という誤った方向に歩いています。自らの「意志」で、何らかの行為をしているのですが、それら全ての行い(業)がサタンを喜ばせる、「誤った方向」にあることを、私たちは「知る」べきです。私たちは、神に喜ばれることを自分で判断し、その「判断」から一生懸命に励み行いますが、その「判断」には自らの「意志」から来るもの、例えば「私は~の奉仕をしているから、神が喜んでいて下さる!」などの「思い込み」があるのであれば、それは「誤った判断(動機)」になります。


 私たちは、何のために奉仕(伝道、ミニストリー)をするのでしょうか?口先では全てのキリスト者が、「主の栄光のために・・・・」、「主に喜ばれることだから・・・・」などと証言しますが、その奉仕の実(成果)が多くなればなるほど、私たちは「思い違い」の誘惑に駆られます。教会奉仕において、必ず見受けられる「伝道実績」、「信仰暦」、「高額献金度」、「信徒からの良き評判」などを基準にして、ピラミッド型の教会奉仕の組織立てが為されているとすれば、これこそ「思い違い」の牧会運営に当たるのではないでしょうか!


 ですから、私たちは自分の「意志」で何かをしていても、それは全てサタンを喜ばせるなど、「思い違い」の危険性に陥っていることを、先ず第一に知る必要があります。自分の為していることが、自らの「意志」で進めている(動いている)のか、それとも只神の「ご意志」によって、全てが進められている(決定付けられている)のか、このことが非常に重要になります。「賜物」にしても「召し」にしても、私たちが父なる神から戴く場合、どのような「思い(動機)」から願い求めていますか?「下」から来る思いは、全てその求める動機が「自分」を満たすため、つまり自分の「意志(欲)」に焦点を当てるものです。それに対して「上(天)」から来る思いは、父なる神の「ご意志(御心)」だけに、焦点を当てようとするものです。


被造物の初穂
 では、父なる神が私たちに対して願われている、その動機について考えてみたことがあるでしょうか?「全ての良きもので満たす(与える)」ことは、父なる神の「意志」の働きですが、これは動機には当たりません。「意志」と「動機」は、厳密に言って「異なるもの」です。「動機」とは、「意志」を決定付けるための、最初の「心の動き」です。


 何故父なる神が、その独り子イエス・キリストを、悪しき罪に染まった「この世」に、全ての人類を救うために派遣して下さったのか?その動機について考察して戴ければ、お分りになると思います。18節でヤコブは、「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んで下さいました。それは、私たちを、言わば造られたものの初穂となさるためです。」と記述しているように、ご自分の「御心(意志)」通りに、「真理の言葉によって、私たちを産むこと」が、父なる神の「動機」です。


 実際にアダムとエバは、全ての被造物の初穂として、「真理の言葉」によって産み出されました。イメージ的に父なる神は、男性神格として把握されているために表現しにくいのですが、実は「多く出産したい!」と望んでおられる方です。とりわけ、「新しいもの」を多く産み出したい!と願われています。その証拠に、私たち被造物が父なる神の「意志」を受け継ぐよう、創造されていることを示す御言葉が、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1章28節)の記述です。


 父なる神の「意志」は、常に被造物と共に親密な「愛の会話」を交わし、「創造の美」を共有し合うことです。常に父なる神は、聖霊を通してアダムとエバに、次のように語られていたことでしょう!「さー、私の愛する者たちよ!エデンの園にある私の作品を、ことごとく味わうがよい!そうすれば、必ず一つ一つの作品に、私の意志の現れである美を発見するであろう。私はあなた方と共に、その発見の喜びにあずかりたいのだよ!そしていつも、その喜びを共に分かち合いたいのだ。」これが、父なる神の創造の「動機」です。


 父は更に続けて、「あなた方を通して、更に新しい美が創造されていくよう、私はいつも望んでいる!」と語られました。救われた私たちを通して、更に「新しい美」が天に向かって捧げられることを、父なる神は望んでおられます。今は罪を犯した結果、この古き「罪の世界」が地を覆っています。しかし、それでも尚父なる神の「ご意志」が、聖徒たちに受け継がれているのです。


 聖霊様は、聖徒たちに次のように命じています。「あなた方は、再び霊的な初穂として、本来のあるべき霊的ポジションへと、更に産み出されて行きなさい!」と。つまり聖霊様の願いは、私たちが更に「新しい者」へと変革され、造り変えられていくことです。聖霊様は、「新しい酒」をもって私たちの全てを満たし、イエス・キリストの「喜び」に、更に満ち溢れる者へと造り変えたいのです。


 よく言われることですが、「聖霊のバプテスマ」の体験は、一度限りの体験ではなく、日々の満たしが必要です。即ち、毎日(毎瞬間)聖霊様から「新しい酒」を戴き、そして新しく生まれ変ることによって、父なる神との「交わり(美)」を発見していくことを、父は望んでおられます。そのために、私たちは何を為すべきでしょうか?それは、父なる神から戴く「上」からの「良きもの」をもって、私たちの側からも「新しい美」を捧げることです。「新しい美」とは、霊と真による礼拝のことです。


 私たちに、今働きかけて下さる父なる神の動機は、聖霊を通して戴く「新しい言葉」をもって、私たちの人生全般に渡って「イエス・キリスト」を、「御心」通り多く産むことです。聖霊を通してでなければ、私たちは主イエス・キリストを、自分の「救い主」と告白できませんし、イエス・キリストを霊的に産み出すことも不可能です。そして、私たちがイエス・キリストと同じ似姿に、造り変えられることもありません。


 「新しいもの」を産み出すべく、新しい霊的権威を授けられた最初のキリスト者(初穂)とは、どのような人々のことでしょうか?それは、「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずかったキリスト者です。「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずからなければ、新しい「霊の次元」の領域に入ることはありません。そして、「思い違い」をしてならないことは、私たち自身の「肉の力」で、霊的なものを「産んだり」、「増やしたり」、「地を満たす」こともできません。全ては、「上」から来る聖霊の「力」、つまり天上の権威をもってのみ、為し得るのです。


 さて、私たちは聖霊ご自身の動き(働き)に対して、霊的に敏感にキャッチしているでしょうか?聖霊様が、如何なる「思い」を抱いておられるか、それを「知る」ことを常に意識して、私たちは祈り求めているでしょうか?残念ながら、99.999%近く「私の思い」を優先している、これが私たちの「現実の姿」です。


 しかし覚えて戴きたいことは、この「私の思い」さえもコントロールできない状況に追いやられる時、実は聖霊ご自身が側近くにいて下さり、働いていらっしゃる時です。私たちが肉的に先走ったり、「誤った判断」により自分勝手に動いている限り、聖霊様は共に働かれません。そのような人々は、大抵聖霊の働きを自己中心的に解釈して、失敗した時は「これは御心ではなかった」などと弁明したり、逆に成功した時には「これは御心である!」などと、「思い違い」の告白(証し)をする傾向にあります。


 私たちが全ての物事に対して、正しく判断できるなど天的レベルにあるのでしたら、聖霊の「助け」は必要ありません。父なる神の「御心(意志)」を、私たちの「霊」がストレートにキャッチできるのであれば、聖霊様に依り頼む必要もなく、ましてや罪を犯す危険性は皆無です!ですから、私たちがある物事に対して、果して神の「御心」であるか否かを、自分の「肉の力」で判断すること自体が、「罪」に他なりません。まさしくヤコブが、「誘惑に遭う時、誰も、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。・・・・」(13節)と述べていることが、これに相当します。


霊のシグナル
 「ヤコブの手紙」全体を読んでみますと、私たちの「舌」「意志」「霊の思い」が、トライアングルのような位置関係で、それぞれ働き合っていることがお分りになるでしょう。そしてこの三つの器官(部分)が、「古い次元」から来る「思い違い」をするなど、「誤った判断(罪)」のレベルにある限り、たとえ「唇」で麗しい言葉(賛美)を、神に向かって捧げていたとしても、聖霊様は受けとめて下さることはありません。


 聖霊様が「正しい言葉」として、受けとめて下さる唯一の方法は、聖霊様が「上」から注がれる天上の権威をもって、私たちを「言い難きうめき」の状態に置いた時に出て来る、「主よ!あなたの御心を、私の意志からではなく、あなたの聖なる思いを通して与えて下さい!私は今、どうにもならないレベルに在ります。どうぞ私の唇に触れて下さり、あなたの意志と思いを現すことのできる、正しい霊の言葉を与えて下さい!」などと祈り求める、「異言の祈り」に他なりません。


 「私(エゴ)」が徹底的に打ち砕かれ、「言い難きうめき」のレベルにまで導かれた時に初めて、父なる神の「意志」が聖霊を通して、私たちの「霊」に注がれます。自分の「意志」から発する言葉が、「上(天)」から来ているのか、それとも「下(自己中心)」から来ているのか、そのことを知らしめるため、聖霊様は私たちの「霊」の只中に、一つの「霊的信号機(spiritual signal)」を設置して下さいます。そして「下」から来る時、この信号機は「赤色」の点滅で警告を知らせます。「気を付けなさい!あなたが今発している言葉、そして思い、動機、意志の全てが、あなたの自己中心から来ています。それを全て聖別しなさい!」と。


 しかし「上」から来ている場合、例えば「主よ!あなたの願いによって、私の全てを捕らえ、私の願いではなくあなたの願いによって、私を満たして下さい!」などの思いで祈る時は、聖霊様はこの「信号機」に対して、「青色」を灯して下さいます。又「黄色」の点滅になる場合は、「注意しなさい!確かにあなたは、天の思いで祈っていますが、時々自らの思いに傾いて祈ることがあります。」という警告に当たり、私たちが普段祈り求める、その殆どに対して聖霊様は、「黄色点滅」の警告を発しておられることでしょう!その時に聖霊様は、警告を発せられると同時に、「ちょっと、スピードを控えなさい!」、「今、一時停止しなさい!」「完全に停止して、霊の状態を再点検しなさい!」などと、具体的に指示して下さいます。


 「思い違い」の危険性に陥る時、聖霊様は必ず「危険信号」を発して下さいます。その時に、私たちは感謝しようではありませんか!父なる神が聖霊を通して、「青色」の信号を灯して下さる、つまり安全な方向に導かれている時は、実は聖霊様も「言い難きうめき」をもって、とりなして働いて下さっている時です。私たちの「思い(意志)」や「判断」が、神の「御心」に沿った「正しい方向」に導かれるよう、聖霊様が少しずつ聖別して下さいますように!又、私たちが「霊的初穂」となるべく、聖霊による様々な「変革」の御業が、霊的段階に応じて開始されますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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