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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.24)

              賛美と祈りを大声で捧げよう!




彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。イェシュア、・・・・ケナニは、レビ人のための台に立ち、神なる主に向かって大きな叫び声をあげた。・・・・「立って、あなたたちの神、主を賛美せよ。とこしえより、とこしえに至るまで。栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。」
                                                                                                       【ネヘミヤ記9章3~5節】


神との「親しい交わり」
 私たちキリスト者は、何のために召されているのでしょうか?確かに、主なる神の「救い」の門が開かれ、多くの魂が招かれるための働きに、私たちが召し出されていることも事実ですが、主なる神が一番に喜ばれることは、アダム(エバ)を創造した時点の事実、即ち「真実の愛」の関係が回復することです。


 それは初子を出産する瞬間の、両親(特に母親)の心境に似通っているかも知れません。「我が子が美人(美男子)に産まれてくるように!」などと思うのではなく、大抵は「命」を十月十日宿す訳ですから、「無事この世に出生してほしい!」と思う。そして生まれた瞬間、初子に対して期待すること、それが「親しい交わり(コミュニケ-ション)」です。


 主なる神がアダム(エバ)を創造した目的は、彼らを①真心から愛し、また②こよなく慈しみ、③彼らと共に居て親しく交わり、そして④共に楽しみ合う(愛を共有し合う)ことです。逆に言えば、彼らが創造された目的とは、主なる神の臨在を待ち望み、常に神の御顔を求めることです。そして神が語りかけて下さる時には、必ず「主よ、あなたでしたか!私はここにおります。どうぞお語り下さい。」と、素直に御前に出ることです。


 そうです!主なる神は、私たちが「罪」を犯した存在であっても、「エデンの園」で為されていた、この「真実の愛」の関係を、再び回復されるのです。ですから私たちは、高らかに「主なる神のみを崇め、常に御顔を仰ぎ求め、神の臨在の中に立ち続けます!」と告白しながら、真の礼拝を捧げましょう。


日もすがら、夜もすがら・・・・
 ところが「敵(サタン)」は知っています。「祭壇(神との親しき交わりの場)を破壊することこそが、人の霊を乱すことになる」ことを。そこでネヘミヤは、更なる霊的改革として「日の四分の一(3時間程度)」を二度に渡って聖別することを断行しました。具体的には、昼食前の3時間は御言葉を詠唱(告白)し、就寝前の3時間を「罪」の告白と、真心からの「悔い改め」の時間として捧げました。


 このような彼ら(私たちを含む)の捧げる、「真の礼拝」における重要なキ-ワ-ド、それは「贖い(子羊の生贄)」です。旧約時代においては、大祭司のみが「至聖所」に立入り、民の代表として生贄(子羊)を捧げました。但しそれが出来るのは、大祭司がその時に、「罪」無き場合に限定されます。「罪」がある場合には、直ちに「死」が待ち受けている場、それが「至聖所」でした。


 しかし新約時代においては、私たちの「罪」の身代わりとして、唯一の子羊(イエス・キリスト)が、十字架上で既に屠られたことにより、私たちがそれを信じて「救い」の御名、即ちイエス・キリストの御名を告白するだけで、私たちは大胆にフリ-パスで、「至聖所」に立入ることが可能になりました。つまり驚くべき神の次元の中に、私たちは「いつでも」入れるのです!


 ここで覚えておきたい、真の礼拝に至る手順、それは第一に①「3時間」立ち(stand)続けることです。私たちが仕事(作業等)以外に、ひたすら「3時間」立ち続けること、これは(体力的にも精神的にも)耐え難きことではないでしょうか!しかしこの時、彼ら(老若男女の)全てが、完全に為し得たことを考えてみますと、人間的な「力」ではなく、神の臨在に深く包まれ、上よりの「力」が着せられたからこそ、この真の礼拝が確立されたのではないでしょうか。最初の人(アダム)に要求されたもの、それが神の御前に立ち(stand)続けることでした。


 次に②「神なる主に向かって大きな叫び声をあげ」(4節)ることです。これは「祈り」の叫びのことです。私たちは「苦しい」こと、また「辛い」ことには、簡単に叫び声を発しますが、自分の「罪」の告白になりますと、それは途端に「か細い」声になります。ところがこの時は、全ての者が次々と「罪」を告白し、最終的には「感謝」と「喜び」のうねりが、叫び声となって一斉に噴き出したのです。


 そうです!私たちは、如何なる状況下においても、主なる神の臨在を目の前に置くかの如くに、信仰の歩みを続けなれりばなりません。その時に果たして自分の歩みの「速度」、「方向性」等が神の御心に沿っているか否かを、聖霊様に問い質す確認作業が必要となります。


 今回のネヘミヤの置かれた状況は、決して「エデンの園」の如きものではありませんでした。また自分が、たとえ「総督」という高位の立場にあっても、「敵」に囲まれる状況下の中では、その権限を十分に発揮できませんでした。にも関わらず、ネヘミヤは知っていました。「主なる神の臨在が、常に我らと共にある限り、神の守りは鉄壁である!ならば我らの為すべきことは只一つ!賛美と祈りの行軍を止めてはならない。」と。


 私たちも、本来立つべき場所(至聖所)に立ち、神の御顔を求めるべく頭を上げ、高らかに「主よ、目の前の現実は、とても前進することの出来ない、大混乱と巨大な壁が立ち塞がっています。しかし私は、それらを見ません!あなたの御顔のみを見続け、救いの御名(イエス)を呼ばわります。そうすれば、あなたの救いの御名によって、私は勝利の御旗を必ず手にします。」と叫びましょう。


 私たちが信仰の前進(歩み)をし続ける限り、敵の攻撃は決して緩むことはありません。しかし覚えて下さい!私たちが手にしている霊的武器は、敵の策略を瞬時に見抜く(切り裂く)ことの出来る「霊の剣」です。それ故に、私たちはネヘミヤたちの如くに、日もすがら夜もすがら、主なる神の御名を呼びつつ、前進し続けましょう。


 あなたが神の御名を、堂々と高らかに讃える時に、「勝利は既に私のものです!」と宣言できる程の信仰が、あなたの上に日々注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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