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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.30)

                         和解に必要な香り




奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。奉納者がこの牛を燃やして主に捧げる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着する全ての脂肪、及び腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る。アロンの子らはこれを、祭壇の燃えている薪の上の焼き尽くす献げ物と共に煙にする。これが燃やして主に捧げる宥めの香りである。・・・・・・・・
                                                                                                            【レビ記3章2~16節】


「和解」に必要なパーツ
 「和解」の献げ物を捧げる時に、一番重要となるパーツとは、如何なるものでしょうか?そしてそのパーツを、「全焼祭」と共に捧げる中で、本当に麗しい「香り」を、実は父なる神に対して現していることを、私たちは是非知るべきです。そのパーツとは、「脂肪」です。


 ところで健康ブームの話題の中で、数年前から盛んに叫ばれている言葉の中に、「メタボリック・シンドローム」という用語があります。その言葉の中で「脂肪」の存在が、まるで悪玉の如くに敬遠されています。果たして、これは事実なのでしょうか?父なる神は、この「脂肪」というパーツを、「和解」の献げ物において、全て切り取って捧げるよう命じています。


 ということは、内臓に付着する大小の「脂肪」を、一つ残らず丹念に切り取るという、非常に細かい作業が、「和解」には必要となります。ところが「感謝」の献げ物の場合、幾つかのこと細かい規定があるのに対し、この「和解」の献げ物に関しては、上記の項目を綿密に守り行うだけでよいのです。
余分な「脂肪」の意味すること


 内臓脂肪と呼ばれるパーツを「火」で焼き上げると、如何なる「香り」が生じるのでしょうか?余談になりますが、「焼肉」や「天ぷら」を料理している際に、私たちはその「香り」が漂ってきますと、非常に食欲を駆り立てられます。何故なら、その「香り」の源である「脂肪」の燃焼臭が、私たちの嗅覚にとって、美味なものとして受け留めるからに他なりません。確かに私たちの人体には、栄養の過剰摂取による、内臓脂肪の余分な付着は、健康を害する要因ともなりますが、だからと言って「脂肪」が、全く「悪玉」の如き、意味を成さないものではありません。ある程度のバランスをもって、付着しているべきものなのです!


 今回示される霊的キーワード、それは「付着している」、「覆っている」という、一つの状態(有様)を指します。つまり私たちの臓器には、本来(元々)付着しているものがあり、それは完全に悪しきものではなく、良きものとして働く場合があることを物語っています。ご存知のように「脂肪」は、私たちが肉体的動作(運動や仕事)をしていく上で、燃焼効率を上げるために必要なエネルギーとなります。


 ところが余分に栄養を摂取しますと、内側(肉眼で見えざる領域)に、余分な「脂肪」が付着していくのです!これと同じ有様で、私たちが「霊の糧」である神の「命の言葉」を、純粋にバランスよく摂取している間は、私たちの「霊」の内側には、余分なものは付着しません。しかし「この世」に生きている以上、私たちは好むと好まざるとに関わらず、霊的に汚れた水(この世のもの)を飲んだり、「この世」のもの(肉的に欲するもの)を、つい「口」に入れることで、私たちの「霊」に余分な(神の忌み嫌う)ものが、内臓脂肪の如くに付着していきます。その結果、父なる神と私たちを妨げる「罪」が、私たちの「霊」の健康を害し、いつの間にか自分が霊的に肥大化していることにも、気付かない状態に陥るなどの、霊的「病い」を患うことになるのです。


霊的執刀医「聖霊様」
 本来の「霊」は、父なる神との「親しき交わり」を欲しているのですが、それを阻害(遮断)するものがある!と、パウロも言及しています。それが今回のバーツ、「内臓脂肪」です。その結果、父なる神との関係がギクシャクして、「和解(平和の関係)」ではなく、「対立(不和)」の状態になるのです。はっきり申し上げて、私たちは自分の「肉の力」で、霊的な「脂肪」の全てを、完全に削ぎ落とす(除去する)ことは出来ません。


 それ故に、私たちは「至聖所」において、聖霊様の霊的なメスをもって、外科手術を受ける必要があります。聖霊様こそ、私たちの「霊」に付着する全ての内臓脂肪を、完全に切除し聖めて下さる方(執刀医)です!私たちは聖霊様による、この外科的な霊的働きを通して初めて、自分の内側にある(今まで付着してきた)、余分な「罪」を見せられることで、私たちはひたすら神の「救い」に依り頼むようになり、悔いた砕かれた「祈り」へと導かれます。


 「その時」から聖霊様は、私たちの余分な「脂肪」を切除し始め、最終的には自分が如何に、父なる神の御前において、「対立(反逆)した者」であるかを啓示され、救い主(贖い主)イエス・キリストの、貴い「血潮」の注ぎを求め始めます。すると私たちは、聖霊様を通して「至聖所」へと導かれ、「イエス・キリストの、貴い血潮の注ぎを感謝します。今、私の全てを御前に捧げます。どうぞ聖めて下さい!」と表明する時に、聖霊様がその「全て」を、聖なる炎で焼き尽くして下さることで、「和解」の香りが、主なる神に立ち昇って行くのです。そして父なる神は、その「香り」を受け取り、「おー、よくぞこの者は、私の元に帰って来てくれた!私との和解を求めて、ようやくこの場に辿り着くことが出来た。」と暖かく出迎え、この者は遂に「和解」に必要な、主の「御心」を喜ばせる「香り」になります。


「和解」を求める祈り
 私たちと、父なる神との「和解」のプロセスには、人間的な「和解」のプロセスと違って、霊的に根気の要る場合があります。しかし私たちが、日々父なる神との「和解」を求めて、「聖霊様!どうぞお導き下さい。私が知らない領域にまで、あなたの聖なるメスをもって、余分なもの全てを切り取って下さり、この私に明確にお示し下さい!そうすれば、私は霊的に余分な脂肪の全てを、父なる神が用意される祭壇上に、捧げ尽くすことが出来ます。そうすることで、ようやく私はあなたと、更に親密になれますから・・・・」と祈り求めて行く時に、「和解」のプロセスは、「神の時」の中で推し進められ、完成されて行くのです。


 それ故私たちが、素直に神(私たちの真の医者)の前にへりくだり、「主よ、宜しくお願いします。あなた様との和解のプロセスを、どうぞ進めて下さい!余分なパーツの全てを聖別して下さい!」と申し述べる(祈る)時に、主イエス・キリストとの豊かな「交わり」と、聖霊様を通して為される、私たちと神との「和解」のプロセスが、私たちの日々の信仰生活の中に豊かに示され、神の「御心」の中で完成されて行くことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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