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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.28)

                     不思議という名の信仰
 
 
 
・・・・その名をマノアという一人の男がいた。・・・・彼の妻は不妊の女で、子を産んだことが無かった。主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは・・・・身ごもって男の子を産むであろう。・・・・その子は胎内にいる時から、ナジル人として神に献げられているので、その子の頭に剃刀を当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」女は夫のもとに来て言った。「神の人が私の所においでになり・・・・名前を明らかにされませんでした。」・・・・そこでマノアは主に向かってこう祈った。「私の主よ。お願いいたします。・・・・生まれて来る子をどうすればよいのか教えて下さい。」・・・・神の御使いが、再びその妻の所に現れた。・・・・妻は急いで夫に知らせ・・・・マノアは立ち上がって妻について行き・・・・主の御使いに、「お名前は何とおっしゃいますか。」と言った。主の御使いは、「何故私の名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。・・・・この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。
                                                                                                          【士師記13章1~24節】
 
「ナジル人」として捧げる信仰
 今回登場する夫婦は、夫の名前(マノア)よりも、妻の「信仰」が非常に優れているという面で、妻の名前こそ分かりませんが、非常に興味深い夫婦関係と言えます。そしてこの夫婦から、あの有名な士師「サムソン」が生まれるのです。
 
 ご存知のように「サムソン」は、最初の出だしは敵(ペリシテ人)を次々と打ち負かす、民族的英雄として登場します。しかし後半はソロモン王の如くに、好色で体たらく(だらしない)な人物として、イスラエル民族を弱体化させた人物と、私たちは描きがちです。
 
 ところで「ナジル人」とは、如何なる身分の集団のことでしょうか?彼らは、イスラエルの12部族の「レビ(祭司職)」とは別の、現在の言葉で言い換えるなら「特別献身者」のことです。彼らは、ある一時期主なる神の「御心」に従うべく、一生懸命に身を聖別しながら、献身者として生きました。
 
 今回学ぶべき第一の奥義、それは「ナジル人」として捧げる信仰とは、如何なるものであるのか?という点です。それは幼児「サムエル」を、神の宮に捧げた母親(ハンナ)、或いはサウロからパウロへと、一方的な神の取扱いにより、霊的な「ナジル人」へと献身した、使徒パウロの信仰に見られるものです。
 
 サムソンの母は、不妊の胎であったにも関わらず、主なる神の「御心」により、待望の「男子」を授かる訳ですが、その条件として「いずれ時来たらば、ナジル人として捧げなさい!」と命じられました。それを知った彼女は、当初「え!?」と躊躇しましたが、神の「命令」に対して、ことこどく遵守しました。その「ご命令」の中には、男子であるにも関わらず、生まれた時から「一切髪の毛を切らない!」という、非常に難しい命令もあった訳です。
 
 サムソンの場合、彼の頭には「剃刀」どころか、如何なるものをも触れることが認められませんでした。ところでこの「頭」は、霊的に如何なる意味を持つのでしょうか?それは神の「霊(聖霊)」が、直接降る(宿る)聖なる領域を意味します。ですから最初に神が働きかける場、それが「頭」です。そういう意味でナジル人は、「頭」のてっぺんから、「足」のつま先に至るまで、神の聖なる領域になり、神の主権が豊かに宿る奉仕者のことです。
 
 それ故彼らは、「頭」の上に汚れたものを覆ったり、「剃刀」を当てる等の人間的処置は、一切行うことが許されませんでした。では私たちキリスト者の生活においても、人間的な「力」が一番現れ出る場所(器官)、それが「頭」や「手」・「口(唇)」ではないでしょうか!私たちが、それらの人間的な器官で、全てのことを対処していきますと、必ず神の「霊」の下にではなく、自分の「肉」に頼る(依存する)ことになります。これが私たちの「弱さ」です。
 
人間的なマノアの行動
 その人間的な「肉の業」を一番に求めたのが、ある面で「マノア」かも知れません。マノアの行動は一見、愚かなものに映りますが、実はその中に神の大いなる働きがあります。主なる神は、ある不思議な方法をもって、彼を正しい方向に導きながら、その行動を修正しているのです。とは言っても、奥方の元に訪れて下さった神の御使いは、(残念ながら)彼の元には現れませんでした。
 
 二度目の時は、妻からの報告に急いで、神の御使いとおぼしき人物の元に来て、愚かにも不信仰的な質問をします。「ところであなたは、一体何処の方で、何者なのですか?とても素晴らしいお話をして下さいますが、もしかしたら預言者ですか?食事の用意でも致します。」などと。すると神の使いは、「待てマノアよ。私は神の御使いだから、食事など無用だ。神のみに全てを捧げなさい!」と窘めました。
 
 この段階に至っても、マノアは信じられずに「分かりました。で、あなたのお名前は何でしょうか?」と問い返す始末。ご存知のように「士師の時代」は、モーセによる出エジプトの頃から、かなり時代が経っていますので、主なる神の「御名」を問うことは、死を招くほどの恐ろしい行為であることを、マノアは知っていたにも関わらず、あえて問い質したのではないでしょうか。
 
 それに対する神の御使いの応答は、「何故私の名を尋ねるのか。」(18節)という、若干憤怒を現す反応でした。続いて、すかさず「それは不思議と言う」と教えました。ご存知のように「不思議(wonder)」とは、驚嘆したり不思議に思う時に使う言葉です。
 
 マノアのその後の反応は、聖書には何も記述がありませんが、彼の妻だけが狂喜したかのように、その様子を見て「笑い(聖なる笑い)」の感情を出しました。そうです!彼の妻だけが、即座に「不思議である!」と受け留め、信仰的に狂喜したのです。まるでアブラハム夫婦に起きた、奇跡の「お告げ」の体験の時と同じ如くに。
 
不思議とい名の「信仰」
 私たちが「不思議(wonder)」と聞いた時に、自分の人生の中にどれ一つ取っても、「私が~したから、・・・・という結果になった!」と言い切れる(人間的に説明する)ものが無い!ことが分かります。当然のことですが、私たちは「出生」した時から、自分の「両親」を選ぶことも、自分の「齢」の終わりの時を、明確に知ることも出来ません。
 
 ましてや私たちは、自分の人生が「何」のためにあり、「何」を目指しているのか、その理由が分からない存在でした。しかし神の「御救い」にあずかった、今の時を考える限り、それは神の「不思議」としか、言葉に表せないのではないでしょうか!
 
  説明できない程の、主なる神の大いなる「御力」の中で、私たちが日々生かされていること、これが神による「不思議」、即ち「摂理」です!前述した如くに、マノアの信仰は愚かなものに写ります。しかし彼の妻は、彼がやっと神の使いと分かり、自分たちが「死ぬ」かも知れないと、慌てふためく様を見て、堂々と「もし主が私たちを死なせようとお望みなら、私たちの手から・・・・献げ物をお受け取りにならなかったはずです。」(23節)と諭した結果、マノアの信仰が軌道修正されました。
 
 私たちは普段、自分が「神の摂理によって生かされている!」ことを、余り意識していません。しかし実際は、神の見えざる「不思議」が、至るところにあるのです!この素晴らしい神の「不思議」という働き、また「不思議」という賜物、そして「不思議」という名の、神の驚くべき「ご計画」を、前もって見るというマノアの妻の信仰を、私たちも受け取るべきです。
 
 そのためには、「朝」に「夕(夜)」に為す、日々の「祈り」の中で、神の「不思議」を、一つ一つ確認していくという、地道な霊的作業が必要になります。そうすれば、私たちの日々の「人生」が、それこそ「Wonderfull(神の不思議に満ち溢れた状態)」になるのではないでしょうか!そうです!神の「不思議」は、目に見えざる次元の中に、尽きること無く満ち溢れているのです!
 
 マノアは遂に信仰が回復し、あることに気付きました。それは妻の胎の中に、待望の「サムソン」が存在する!ことを。私たちが主なる神の「主権」の中に、常に生かされていることを、決して忘れることがありませんように。それ故私たちは、いつも神の「不思議」を探し求めましょう。もしかしたら神の「不思議」は、「命の水」の如くに流れているのかも知れません。
 
 そうです!神の「命の水」は、常に私たちの前に用意されています。主イエス・キリストの、豊かなる「不思議」の働きが、飢え渇き続けるあなたの信仰に、無尽蔵に溢れ注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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