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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.33)

                          聖別へのステップ
 
 


ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
                                                                                                     【ヨシュア記3章5~6節】
 
「聖別」の油
 今回の御言葉の中に、私たちが今後歩むべき、正しい「信仰」の道が示されています。特にイスラエルの民が進んだ、カナンに至るルートの中で、父なる神の「救い」の時、「恵み」の時、祝福を受け継ぐ時など、全ての神の約束が保証されています。
 
 しかし、その為には先ず、タナボタ(棚からボタ餅)式に、「恵み」の雨が降ってくる訳ではないことを知るべきです。つまり私たち自らで、歩むべき「ステップ」があり、それは一足、二足、三足などと、一歩ずつ進む次元があるのです。特に、今回学ぶステップの中には、驚くべき次元も含まれています。新約の「恵み」の時代にあって、私たちキリスト者の全てが、等しく神に選び召し出され、油注ぎを受けた「聖徒」としてのステップが、第二の歩みとして示されているのです。
 
 覚えて戴きたいことは、聖霊様を通して注がれる「任職の油」は、旧約に描かれているような、「祭司職」と「イスラエルの民」という、二つに区分けされ、「祭司職」のみが注がれるものではなく、新約においては全ての「聖徒」が歩むべき、霊的ステップに必要な聖めの油です。聖霊様は名も無き(謙遜な)者にも、等しく油注ぎを与え、上よりの「聖なる炎」をもって、力強く臨んで下さいます。ですから「聖別」を受けるには、誰が一番とか二番などの順番はありません。
 
 このように、私たちが聖別される歩みには、ただ待っていれば必ず受けるというものではなく、自らが努力して一歩一歩と進むべき、重要なステップがあることを知って下さい。
 
第一の「ステップ」
 今回学ぶべき第一の奥義、それは「聖別とは、如何なる行動なのか?」という点です。具体的に「聖別」には、二つの歩み(行動)が伴います。第一のステップ、それは「自分自身を聖別」(5節)するという行動です。新改訳聖書では、「身を清める」ことと記述されています。日本の伝統行事(神事)の中に、「みそぎ」という儀式がありますが、これは文字通り「身(身体)」を水で清めること、つまり「身体」と「精神(心)」を精錬させて行くことで、若干「聖別」とは意味が異なります。
 
 具体的に「身を清める」とは、自分自身を純化(purify)することです。それは一度限りの行動(修養)ではなく、絶えず(絶え間なき)美しく聖くあろうとする、純粋(無垢)な渇き(努力)から始まります。ですから「聖別」は、肉なる修行(訓練)の如き行動ではありません。それは「行動」というイメージではなく、静かなる状態を現しているもので、時間のかかる静かな動きのことです。まるでそれは、自分では何も為していないかのように錯覚する程の状態です。
 
 私たちはとかく、「身を清める」ことを、主なる神の御前に身を正すべく、「聖い行い」を為す!ことと把握し、急いでその「行動」に走りがちです。しかし神は、そのような肉の行動を、私たちに要求しているのではありません。聖霊様が私たちに臨まれる時、それは「神の時」が先行するので、一人一人に応じた「聖別」の取扱いの、静かな状態(神の時の動き)があることを、私たちは先ず知るべきです。このように「聖別」には、例えば「海水」や「汚水」などの、不純物が混じった水溶液を、何時間もかけて飲める水道水へと変える、ろ過の過程の如くに、それは静かな状態の中で、聖霊様の働きにより完成されて行くのです。
 
第二の「ステップ」
 だからと言って私たちは、何も為さなくて良い訳ではありません。イスラエルの民(聖徒)であれ、祭司(五役者)であれ、通過する(果たす)べき行動があり、それが第二のステップ、即ち「契約の箱を担いで川を渡る」(6節)ことです。「川に入りなさい!」と命じられたら、私たちは必ず「ちょっと待って下さい!祭司の方々が先でしょう。」などと躊躇(遠慮)します。しかし覚えて下さい!新約の「恵みの時代」にあっては、誰が先かが問題ではありません。
 
 「川」を渡ることは、非常に「恐れ」の伴う行動です。しかし主なる神が命じられた以上、「聖別する(身を清める)」ことは、「死」に等しい行動になります。それは霊的に、自分自身の「命」を祭壇上に、生きた生贄として完全に捧げ尽くすことです。前述したように、私たちは「聖別する」ことを、何らかの肉体的及び精神的「修行(修練)」などと、把握しがちですが、それは自らの「命」をもって、純粋な「自分」を捧げることに他なりません。ですから、この二つのステップには、必ず「時間」を要する、静かなる状態で進行していくのです。
 
 霊的に「契約の箱」を担ぐこと、この務めを担当される方は聖霊様です。聖霊様が、私たちの信仰の歩みの「先」を行かれる限り、それは「契約の箱」即ち神の「命の言葉」が、私たちの「人生」の全てを支配し、常に守り導いて行くのです!この大事な「真理」を忘れて、自分の「肉の言葉」を担ぎ出しますと、それは「死」を恐れる余り、絶対前進できないことになり、結局は「もう駄目だ!」と後ろ(世の次元)を振り返り、「世(エジプト)」に生きることを選択することになります。
 
 このように、私たちが主なる神が用意される、麗しい「カナン(新しい土地)」という、霊的次元に入って行くためには、以上の二つのステップを、聖霊様の助けを戴きながら、時間がかかってもよいから、必ず一歩ずつ踏んで行く(従順する)という、聖別の行動があるのです。聖霊様の「取扱い」の中で、私たちが静かに待ってさえいれば、私たちは自然と「身」も「心」も「霊」の全てを、「神の時」の中に、委ね切る(捧げ尽くす)ことが出来ます。この二つのステップを遵守していく限り、私たちの「歩み」は確保されるのです。
 
 とかく私たちは、自分の「歩み」を、自分が確立しているかのように錯覚していますが、私たちの「歩み」の全てを、確かなものとされる方は、真の主なる神であり、万事を益として下さる力(足の灯火)、それが神の「命の言葉(契約の箱)」です!イスラエルの民は、忠実に神の「言葉(ご命令)」を遵守しました。
 
 これから「日本」は、いよいよヨルダン川の流れの如き、大激流の時代に入って行き、霊的に激しく取扱われて行くことでしょう。しかし私たちは、静かに「神の時」を待ち、聖霊様による聖別の「取扱い」に、身を委ねて参りましょう!如何なる時にあっても、聖霊様の導きに感謝しながら、真の救い主イエス・キリストを、常に讃えることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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