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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.32)

                       神の御心を測る尺度
 



ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々全てと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。三日経ってから、民の役人は宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今居る所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことの無い道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」
                                                                                                       【ヨシュア記3章1~4節】


「三日間」祈り続ける
 二人の斥候の「報告」を聞いた、ヨシュアと各リーダー(民の役人)たちは、祈り待ち望んでいた「その時」が、いよいよ来たことを悟りました。遂にエリコの住民が怖気づき、王と兵士の殆どが「戦意」を喪失しているため、ひたすら彼らの信じる神々に、危機(イスラエルの進撃)が去ることを祈り求めている!と。
 
 そこで主なる神は、ヨシュアに命じました。「その時が来た。いよいよ出立しなさい!」と。しかし目の前には、ヨルダン川が存在している(立ちはだかっている)ことを、イスラエルの民は十分に知っていました。それ故にヨシュアは、主なる神が命じられた「三日間」を、野営することにしました。しかしその間、彼らは何もしないまま、三日間の時を過ごした訳ではありません。彼らの為すべきことは、神の「御心」を祈り求めることでした。
 
 イスラエルの民は予想通り、その殆どが動揺していました。いくら斥候の「報告」が、肯定的なものであっとしても、一番最大の難関である、ヨルダン川が立ちはだかっているからです。川幅が狭い場所を見つけて渡ろうとしても、そこは一番の激流が待ち受けています。神の奇跡によって、「紅海」を渡った彼らの親たちは、既に他界している故、彼ら次世代にとって、ヨルダン川を渡るということは、「死」を招く未知の体験になるのです。とにかく激流の中にあっては、強靭な体力を持つ若者は、何とか渡り切ることが可能であっても、老人・子供(幼児)・家畜などは、激流の中で溺死することが必然です。
 
待って、その後に見る!
 「三日間」という、神が与えた猶予期間の中で、彼らの「信仰」は念入りに試されました。私たちも、新たなスタートの時には、何らかの「恐れ」が来ます。この時、主なる神は「直ちに出発しなさい!」とは命じていません。命じた以上、ある程度の「猶予期間」を設けて下さいます。しかし「時」至りて、ヨシュアは下役たちに命じて、神の御心(ご命令)を伝達しました。これは、とんでも無い内容でした。今回の奥義、それは「待って、その後に(神との距離を)見る!」という、信仰のアクションです。
 
 この「見る」こと、これは中々難しい行動です。それに対して「待つ」ことは、誰にでも可能です。その「動き」を止めればよいからです。しかし「動く」ことの後に、次の「見る」というアクションに、私たちは思考回路が移りません。どちらかと言えば、「待った後に、次はどうしたら(動いたら)よいだろうか?」と考えるのが自然だからです。しかし今回、神が命じられる奥義は、私たちが「待って、その後に見る!」ことです。
 
 ご存知のように、私たちはアダム(エバ)の犯した罪故に、神の御心を正しく「知る」ことも、「見る」ことも出来ません。しかし覚えて下さい!今回主なる神は、神の御心を正しく知る(測る)ための、重要な「尺度」を私たちに用意しています。これは神の「御心」を、完全に知るためのものではなく、私たちが「霊の眼」をもって信仰的に見る時に、ある程度の「基準(バランスのある測り)」を指し示すものです。
 
 私たちが学ぶべき第一の奥義、それは「主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら」(3節)の記事にあります。レビ人の祭司の役目は、ひたすら「契約の箱」を担いで運搬することでした。ここに示されることは、「レビ(今日の祭司職)」の為すべきことは、「イスラエルの民(聖徒たち)」を支配したり、説教を通じて命令を下すことではありません。そういう意味で五役者の務めは、教会の聖徒たちが神の「御心」通りに、正しい信仰の道を歩めるよう、自らが「命」を懸けて先頭に立つ(模範を示す)ことです!
 
 ではイスラエルの民は、「何」をしたらよいのでしょうか?「契約の箱」が先頭に立つのを見たなら、一緒に付いて行きなさい!とは、神は命じていません。ただ「待ちなさい!」の一言です。神の「ご計画」や「取扱い」は、あくまで私たちの信仰の歩みの、「先」を行くものであって、私たちが先んじるべきでありません!私たちは常に、次のような霊的誘惑が付きまといます。「私は一生懸命、リバイバルのために命を懸けます!」などと。
 
 しかし聖霊様は、「否!今は待ちなさい!」と必ず指示されます。神の「御心」が始まることを、私たちが正しく見定めるためには、ひたすら「神の時」を待ち続け、そして祈り続けることが肝心です。それによって初めて、「霊の眼」が開かれるのです。私たちはとかく「え!私は既に霊の眼が与えられているので、神の御心がいつ始まるのか分ります。」と主張しがちですが、はっきり申し上げて己の「肉の力」で、神の御心を知ることの出来る者は、誰もいないのです。
 
 第二の奥義、それは「霊の眼」で神の御心を見る際に、如何なる「尺度(基準)」をもって、それを測り知るべきか?ということです。これは私たちに対する、日々の霊的「戒め」となります。私的な「思い」や「意思」を優先させて、先を行こうとする私たちの歩みを、正しく押し留めることの出来る、霊的「訓練」と「取扱い」を、主なる神は重要視しています。「契約の箱との間には約二千アンマの距離を取り、それ以上近寄ってはならない。」(4節)という、神の具体的な「指示(手順)」が、ヨシュア及びイスラエルの民、そして全軍に対して命じられた、神の「取扱い」でした。これは私たちに対しても、命じられている重要な命令です。神の「ご命令」である以上、私たちが正しく従わなければ、神の「御心」を明確に捉えることが出来ません。
 
二千アンマという霊的距離
 それ故、私たちが正しく従う手順(順番)としては、先ず①「契約の箱」が動き出すのを見ること、続いて(その後の動きとして)②「二千アンマ」の距離を、常に取り(測り)続けながら歩く、この二段階の行動です。「二千アンマ」の距離とは、今日の長さ(距離)で言うならば、1アンマが45cm前後ですから、約900mの距離に相当します。この距離では、人の「立ったり」や「座ったり」、そして「赤旗を左右に振る」などの動きは、ぼんやりと確認できますが、大声や指の動きなどは全く認識できません。
 
 それ故彼らは、先ず「二千アンマ」の距離を保ちながら歩行しました。これには各部族の長が、非常に苦労したものと思われます。今の時代のように、距離を瞬時に測定する機器、例えばGPS測定器が無い訳ですから、正確な距離を測り知ることが出来ません。この「とんでもない困難な課題」は、彼らを混乱させるために命じたものではなく、単純に「(契約の箱の前に)先んじてはならない!」ことを、主なる神は要求されているに過ぎません。ですから「二千アンマ」以内に近付くこと自体が、神の「御心」に反する(逆らう)ことを意味します。私たちが神の「御心」を求めて祈る時、私たちも見誤ることがあります。「肉の思い」が先走って、せっかち(事を急くこと)になるからです。
 
 何故、私たちが神の「御心」を、「二千アンマ」という尺度をもって、測り知らなければならないのでしょうか?第一の理由、それは私たちが失敗しないためです。そして第二の理由が、私たちが「誤った道」に行かないためです。と言うことは、殆どと言ってよい程、私たちの側から神の「御心」を、勝手に(先んじて)判断してはならないのです。主なる神は、様々な次元の中に、一つ一つ「神の時」を準備し、ご自身の「御心」を現そうとしておられます。ですから私たちは、恐れおののいて(霊的にへりくだって)、神の為さる全ての事柄に対して、特に目に見えざる次元の中に働かれる、神の領域を見る「霊の眼」が、研ぎ澄まされることを求めましょう。
 
 覚えて戴きたいことは、「二千アンマ」の距離は、私たちの肉眼では正確に(はっきりと)、見定めることが出来ない次元にあります。レビ人が途中で座ることを確認したのであれば、各部族の長たちは直ちに「停止せよ!彼らが立ち上がるまでは、ここで休息しよう。この休息の時を、神に感謝しようではないか!」と号令を発したのです。この点に関して、私たちは(せっかち故に)素直に感謝することが出来ません。「何故、今停止するのだろうか?今こそ前進すべき時なのに・・・・」などと思うからです。私たちの信仰の「歩み」においても、例えば聖霊様が「今は停止しなさい!」と命じられた場合、私たちは神が与えた「休息の時」を、喜んで受け入れるべきです。
 
 霊的に「二千アンマ(900m)」の距離は、私たちと神との霊的距離を示しています。私たちは神の「御心」を完全に知ることが出来ません。しかし主なる神は、この「二千アンマ(900m)」という霊的距離を持って、私たちを日々導いて下さっていることは確かです。この霊的距離に耐え切れない者は、「あーもう駄目だ。我慢ならない!私が先に行って(ヨルダン川を)渡り切れば、神の栄光を現すことが出来る。」と言って、途中で溺れ死ぬだけです。私たちの信仰の「歩み」を、確かなものとされる方は、この「私(あなた)」ではなく、主イエス・キリストだけです!
 
 この霊的距離は、私たちが「近付いて」も「遅れて」もなりません。ところで私たちは、世界中の至るところで「リバイバル」の報告を聞くことがあります。その時、私たちは「励まし」を受けると同時に、「あせり」も感じます。「何故、私たちの日本は?」などと。しかし主なる神は、私たちの疑問視する、この「何故!」を霊的に砕くために、「二千アンマ(900m)」の距離を設けているのです。そういう意味で、私たちが神の「御心」に対して、完全に服従するためのテスト、それが「二千アンマ(900m)」の距離です。
 
 私たちの「歩み」の全てを、主なる神の「御心」に明け渡して、神の「御心」を知るべく、私たちはひたすら祈り続けましょう!そして神の「御心」を示されたのであれば、神の「御心」の進み具合に応じて、私たちは聖霊様と共に従順して行くことが重要です。私たちの人生には、その進み具合が「どうしてだろう?」などと、不具合を覚えることが多々あります。しかし主なる神が、私たちの「歩み」の全てを覚えて下さり、ねんごろに取扱って下さっているのです。この神に対する「完全なる従順」を指導して下さる方が、助け主なる聖霊様です。聖霊様が私たち共に進軍して下さる限り、「二千アンマ(900m)」の距離を保つことが出来ます。
 
 この「日本」は、(神の奇跡が)未だ何も起こっていないかのように見えても、目に見えざる霊の次元においては、神の軍隊がドラを叩きながら進軍しているのです!リバイバル(後の雨の大収穫)の時は、もう間近です。日本の歴史において、キリシタンを始めとする先陣部隊の、殉教(とりなしの祈り)の血が多く流されてきました。しかし神の「御心」は、この日本においても継続しているのです!今の時代に私たちが生きている理由、それは神の栄光ある「凱旋の時」から紐解けば、「あなた」も神の大いなる進軍の一人として、実は前進の恵みにあずかっている!と、このような信仰で歩んで参りましょう!信仰の歩みは、自分一人が(地上で)歩んでいるのではなく、天国から先にとりなして祈り待つ、大勢の聖徒たちの励ましの中で、霊的に進まされているのです。
 
 「今の日本」は、まさしくイエス・キリストが約束された、「私よりも更なる偉大な業を為す!」ことの出来る、素晴らしい神の「御心」が実現する時代に突入しています。あなたが、聖霊様が指示して下さる、正しい信仰の歩調(尺度)に従って、神の「御心」を正しく捉えながら、日々前進することが出来ますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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