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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.27)

                           自分の命の代償
 
 
 
主の霊がエフタに臨んだ。・・・・エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人を私の手に渡して下さるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰る時、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものと致します。私はその者を、焼き尽くす献げ物と致します。」・・・・主は彼ら(アンモン人)をエフタの手にお渡しになった。・・・・エフタがミツパにある自分の家に帰った時、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼には他に息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ。・・・・私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」彼女は言った。「父上。・・・・どうか私を、その口でおっしゃった通りにして下さい。・・・・」・・・・エフタは立てた誓い通りに娘を献げた。
                                                                                                        【士師記11章29~39節】

 
 主の「聖霊」が臨まれる時
 聖霊様が働かれる時には、今回のような厳しい取扱いが、必ず為されることを、私たちは覚悟しなければなりません。今の日本は、かつてキリシタン弾圧の時代と違って、宗教的迫害は憲法によって禁じられています。しかし、いずれ同じ事が繰り返されることでしょう。
 
 仮に私たちに、主なる神の「ご命令」として、身内(家族)の誰かを捧げなさい!と命じられた場合、私たちは先ず「自分」を差し出すか、その次に自分の「妻」、或いは「両親」のいずれかと思うかも知れません。まさか最愛の「子供」を、第一に捧げるとは決して思いません。
 
 しかしこの時、エフタに臨まれた聖霊様は、最終的に彼の最愛の「一人娘」を差し出すよう、事を起こされたのです。そうです!聖霊様が臨まれる時には、私たちの「人知」を遥かに優った、予想もしない出来事が起きるのです。エフタも「人の子」ですから、巨大な「敵」の軍勢を前にして、最初は怯え震えたことでしょう。その時、聖霊様が彼に臨んだのです。
 
「全焼の生贄」を要求される
 本人の「肉(魂)」の意志(感情)としては、「私たちの軍馬や兵糧(牛・羊)の中から、肥えた初子を捧げますから、主よ勘弁して下さい!」と祈り願い出たいところでした。ところがこの時は、聖霊様が一方的に臨まれた結果、自分の頭では理解できない「言葉」が、次々と出てくる始末。「主よ、アンモン人との戦いに勝利し、彼らが二度と攻撃しないことを、あなたが保証して下さるのであれば、私は自分の家族の中から、真っ先に戸口に迎えに出て来た者を、全焼の生贄として捧げます!」と。
 
 聖霊様が私たちに臨まれる時には、必ず「全てを捧げ切る!」ことが要求される、このことを先ず覚えて下さい。では具体的に、「何」を捧げ切るのでしょうか?「この世」の宗教は、例えばお布施(金銭)等を捧げるよう信者に要求します。しかし聖霊様の場合は、金銭や財産等の物質ではなく、「あなた(私)」自身のことです!つまり「あなた(私)」の存在の全てです。
 
 その時に私たちは、「え!私の命に、どんな価値があるのですか?」等と考えがちです。イエス・キリストは福音書の中で、「私に付いて(従って)行きたいと望むのであれば、全てを捨てなさい!」と命じられました。確かに私たちは、誰しも自分自身の「魂」や「霊」の中に、大切なもの(これだけは捨てたくないもの)があります。しかし覚えて戴きたいことは、聖霊様が要求されるポイント(視点)は、私たちが「心」と「知性」、そして更に「命」を尽くして、主なる神の御前に全焼の生贄、つまり生きた聖なる存在として、捧げ尽くしているか否か?という点です。
 
 だからと言ってこれは、神と自分の「取引き」ではありません。聖霊様は私たちに対して、常にあることを思い起こさせます。それは私たちは本来、アダム(エバ)の犯した「罪」が無ければ、ストレートに神の御前に、自分の全てを躊躇無く捧げることが出来たのです。つまり私(あなた)が「命」を捧げるイコール、主なる神と同じ霊的存在として、神との「一体化」にあずかることが出来る、そのような麗しい関係が、彼らは保証されていたのです。そうです!本来の「私(あなた)」は、神のものなのです!
 
 しかし如何せん、私たちは「私は私のもの!」と考える、つまり「罪」の意識(自我)に思考が留まっています。そのような私たちの、霊的「弱さ」をご存知の上で、聖霊様は次なる霊的取扱いへと移ります。それは、エフタの「考え」を遥かに優った、神の次元へと導くことです。
 
 一家の主人(父親)を、祈って待ち続ける「妻」と「娘」に、ある朗報が届きました。「イスラエル軍が遂に、圧倒的な勝利をもって、アンモン人を打ち滅ぼした!」と。ですから家族は、今か今かとエフタの帰りを待ちわびました。ところが中々、イスラエル軍の帰還の知らせが届きません。しかし全てが、聖霊様の支配の下に「その時」が用意され、事が為されました。つまり「人」にとっては、たまたま(偶然)と思われることですが、聖霊様は「必然性」をもって臨まれるのです。誰も気付かぬ時間に、エフタを家族の許(もと)に帰還させ、たまたま玄関口に出たのが、何と最愛の「一人娘」でした。
 
 彼女だけが、聖霊様に促されて玄関口の扉を開け、何故かしら待っていると、父親(エフタ)が遠くに見えます。しかしその父は、勝利に酔いしれた元気な姿ではなく、何となく疲れ切った老人の如き歩き方でした。エフタ本人は、自分が帰宅したら、悲劇が待っていると自覚していたからです。
 
 「その時」更に、彼女に聖霊が激しく臨みます。彼女は父を発見するや否や、持っていた太鼓を激しく叩きました。そして賛美の踊りをもって、父の帰宅を出迎えたのです。「お父さん!お帰りなさい。主なる神よ、父の無事の帰還を感謝します。」と。すると父は、顔色が真っ青に変わり、次のように激しく震え、衣服を引き裂きながら泣き出したのです。「おー、私の最愛の娘よ!お前が出てくるとは・・・・」と。
 
 それを聞いた彼女は、さっぱり意味が分かりません。続いて父の唇から、事の真相(神の命令)を知った彼女は、瞬時に悟りました。そして落ち着いた口調で、「やはりそうでしたか。私は、主なる神の為さることに対して、全面的に従順いたします。ですからお父さん!私は神の前に純潔を守るべく、二ヶ月の間、聖めの期間を設けて下さい。」と、驚くべき応答をしたのです。
 
自分の「命の代償」
 このエフタの一人娘は、霊的には「私たち(エクレシア)」の雛形を指します。ご存知のように私たちは、霊的に「キリストの花嫁」です。その「花嫁」のために、花婿イエス・キリストが先に、「命の代償(全焼の生贄)」となって下さいました。確かにこの時は、エフタの娘は祭壇上で死にました。しかし新約の時代にあっては、父なる神はこの方法を破棄されています。
 
 覚えて戴きたいことは、聖霊様が私たちに臨まれる時には、エフタの娘と同様の「信仰」、つまり激しい油注ぎが為され、自分の「死」ばかりか、家族の「死(殉教)」をも覚悟で、神に全てを捧げ切るという、素晴らしい取扱いが起きるのです!その時には私たちの「弱さ」を、遥かに優った次元の中に於いて、既にイエス・キリストが「贖いの生贄」として、十字架上で命を捧げ尽くされた以上、私たちにも「上」よりの力をもって、捧げ尽くすことの出来る霊的道備えを、聖霊様は必ず整えて下さいます。
 
 確かに、私たちは「全焼の生贄」として、自分自身の全てを捧げなさい!と命じられた場合、誰もが霊的に躊躇することでしょう。しかし聖霊様は、私たちの「弱さ」を承知の上で、私たちを最終的には、聖なる生きた捧げ物になるべく、ねんごろに取扱って下さいます。
 
 私たちが「今の時代」に生かされているのは、私たちの肉の力で為し得なくとも、聖霊様が一方的に臨まれる時、予想もしない出来事の中で取扱われ、エフタの如くに想像していない次元の中で、預言的行動に至ることがあるかも知れません!「その時」に私たちは、聖霊様の働きを否定したり、打ち消したりすることがありませんように!
 
 そうです!私たちは、イエス・キリストの「贖い」、即ち子羊の「全焼の生贄」の御業を覚えながら、いつも私たちの「存在」と「命」が、霊的に何処にあるのかを確認して下さい。そうすれば、今の自分が「この世」にあるのか、それともイエス・キリストと同じ、聖なる十字架(全焼の生贄の場)にあるのかを、聖霊様を通して知らされます。
 
 あなたが「信仰」の歩みの中において、様々に体験するであろう出来事、それはあなたに対する、聖霊様の霊的取扱いに他なりません。それ故あなたは、イエス・キリストと共に、日々十字架に付けられ、捧げ尽くすことの出来る、イエス・キリストの「花嫁」であり、主なる神にとって最愛の「一人娘」です。
 
 主イエス・キリストの豊かな「交わり」と、聖霊様の麗しい「取扱い」により、あなたが日々聖められ、「全焼の生贄」として完成されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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