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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.26)

                           角笛と空の水瓶
 
 
 
彼は三百人を三つの小隊に分け、全員に角笛と空の水がめを持たせた。その水がめの中には松明を入れさせ、彼らに言った。「私を見て、私のする通りにせよ。私と私の率いる者が角笛を吹いたら、あなたたちも敵陣全体を包囲して角笛を吹き、『主のために、ギデオンのために』と叫ぶのだ。」・・・・彼の率いる百人が、深夜の更の初めに・・・・角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。三つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んだ。・・・・敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声を上げて、敗走した。・・・・主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢は・・・・逃走した。
                                                                                                          【士師記7章16~22節】
 
 神の「戦い方」
 先ず私たちが覚えておくべき「信仰」の法則、それは主なる神が戦われる際に、その方法は単純である!という点です。主なる神が「私が戦う!」と言われた場合、それはご自身が先頭に立って戦うことを意味します。ですから神自らが「先頭」を行かれる限り、私たちは神に付き従い、聖霊様ご自身が促される、ある行動に移らなければなりません。
 
 だからと言ってそれは、「突撃だー!」と軍曹が命じるや否や、白兵戦に突入するような行動(戦い)ではありません。主なる神の「戦い方」は、私たちの「信仰」の行動と共に働かれて、私たちに必ず「勝利」を得させるものです。そして「勝利」の後、私たちは神に「栄光」を帰すだけでよいのです。
 
 しかし私たちの霊的戦いには、つい油断して霊的に高慢になり、あたかも「自分の中に力がある!」と錯覚する時があります。今日の終末の時代にあって、世界各地で民族的紛争の気運が高まる中、私たちは如何なる「信仰」の行動を採るべきでしょうか?ギデオンの場合、彼は最初の局面において、非常に躊躇したことでしょう。しかし、敵国の兵士に「夢(神の啓示)」を与える、主なる神の「先頭」的戦いを目の当たりにして、彼はいよいよ「出陣する時」が来て、その後に「勝利」が待っていることを確信したのです。
 
 ところが、実際的な神の「戦略」は、彼が描いていた「巨大な大麦のパンの如くに、300人の精鋭部隊が、いざ敵陣に向けて突撃!!」とは懸け離れたものでした。この時、聖霊様を通して語られた神の「ご命令」は、何と驚くことに「あなた方は、何も武器を携える必要が無い!各自が角笛と空の水瓶を整え、その中に入れる松明を用意しておきなさい!」という馬鹿げた内容でした。
 
神の「戦い」に必要な武器
 今回のストーリーから学ぶべき第一の奥義、それは如何なる霊的戦いにおいても同様ですが、果たして「武器」は必要であるか?という点です。エペソ書の結論において、パウロは霊的戦いの際に必要な、霊的「武器(武具)」の数々を述べていますが、この時ギデオンに語られた神の「命令」は、「肉眼で見える(整える)武器は、一切用意するな!」というものでした。
 
 「剣」や「大盾」、また「弓矢」や「戦車」、そして「槍」や「投石器」にしても、それら全てが目に見える次元の「武力」です。しかし主なる神が実際に命じた「武器」は、目に見える次元では、「武器」と呼べるものではなく、単なる生活(仕事)道具の類でした。私たちの信仰の戦いにおいては、常にこの①目に見えるものを先ず考え(備え)るのか、それとも②目に見えざるものを待ち望むのか?という、二つの選択肢があります。
 
 ご存知のように私たちの「肉の眼」は、「現実(三次元的事実)」に直面した時、非常に弱い(弱過ぎる)面があります。その「現実」が例えば、「先」を保証するものであれば、安心して通過できます。しかし逆に「現実」が、一時的な保証どころか、「空」になればなる程、不安に駆られ否定的に捉える傾向にあります。ところが「霊の眼」で、目に見えざる「神の事実」を見る者は、たとえ「空」であっても、「必ず満たして下さる方、即ち聖霊様がいらっしゃる!」ことを、幾多に渡る試練の中で経験しているので、全く動じることがありません。
 
 では第二の奥義である、見えざる神の「武器」とは如何なるもので、それは何を意味するでしょうか?具体的には「角笛」と、「空の水瓶」のことです。この二つの道具には、如何なる意味があるのでしょうか?先ず第一の意味、それは二つとも「昼間(目に見える時間帯)」においては、一切無意味なものである!という点です。第二に、この二つの「道具」を、それぞれ両手に持ち抱え、忍び足で丘を下っていくことは、非常に忍耐と慎重さを要する行動である!という点です。何故なら、左手に持つ「空の瓶」は、落とした時点で音を出し、敵の歩哨に見つかるからです。
 
 ギデオンと300人の部隊が、敵陣の手前で密かに配置し終えた時、ギデオンは次の命令を全員に伝えました。「私の角笛と同時に、各自が角笛を吹き鳴らしたら、主のため、ギデオンのために、剣を!と鬨の声を上げよ。」と。覚えて戴きたいことは、角笛を吹いたら「突撃!」と叫ぶことではなかったという点です。そして彼らは、忠実に「命令」を実行しました。
 
 彼らは一斉に、角笛を吹き鳴らすや否や、持っていた「空の瓶」を地に叩きつけ、中から「松明」を取り出して「炎」を灯しました。敵陣の中央から、横並びに「瓶」を叩き割る音と炎のリレーが、一瞬の内に出現するものですから、敵は暗闇の中で混乱し始め、眠気眼の状態の中で、同士討ちが至る所で始まりました。
 
 主なる神が彼らに命じた「戦い方」は、角笛を鳴らし空の瓶を叩き割るという、単純な行動を実践しただけです。ギデオンの部隊が、何一つ「武器」を持っていなかったにも関わらず、彼らの信仰の行動の結果、神の戦いが遂に始まったのです。敵兵の殆どが、ギデオンの部隊から発するサウンドと、「炎」のリレーの動きを見て(耳にして)、巨大な「大麦のパン」が暴れ回っている!と錯覚したのです。そうです!「夢」が現実に起こった!と。
 
 怖ろしいほどに主なる神の、目に見えざる次元の「戦い方」は、他の如何なる優れた「軍略(兵法)」と比較しても、これに優る戦い方はありません。とかく私たちは、目に見える「現実」を根拠にして、様々な「戦い方」を練り上げます。しかし、その殆どが「徒労」に終わります。
 
鬨の声を叫べ
 私たちの唇に、上よりの「信仰」を注いで下さる方、聖霊様は「角笛を吹き鳴らせ!」と命じて下さいます。すると続いて、空の如き器のような私たちを、主なる神は霊的に打ち砕き、霊的サウンドを発する器へと、即ち霊と真による礼拝を捧げる、真の礼拝者へと完成して下さいます。そうです!「賛美(礼拝)」こそが、真の勝利を産み出す原動力です。
 
 ですから私たちは、たとえ目の前の「現実」が、不可能と思える状況に見えたとしても、「血肉の武器」を準備するのではなく、「主よ、現実は無理です。私は両手を挙げて、神に呼ばわります。私は空の器に過ぎません。この私を打ち砕いて下さい。あなたの用い易い器へと、造り変えて下さい。私が持つ霊的武器、それはあなたの御名を呼ばわる、信仰の唇です。」と、「鬨の声」を高らかに叫びましょう!
 
 今こそ私たちは、信仰の行動を起こす時です。私たちが「肉の眼」を閉じ、両手を神に向かって挙げる時に、神の戦いが見えてきます。右手には「角笛」、そして左手には「空の瓶」を持ち、いざ進み出る時に、聖霊様が「聖い炎」を灯し続ける器へと、必ず仕立てて下さることを、是非信じて下さい。
 
 私たちが、目に見えざる神の領域へと、信仰を持って前進して行く時に、神が相働きて「益」として下さり、私たちの行動の全てを聖別し、豊かなものとして下さいます。その後に必ず、神の大いなる「勝利」と「祝福」を得させて下さいます。
 
 私たちが目に見える次元に頼ること、それは全て「偶像礼拝」です。私たちが絶えず、主なる神の「御顔」のみを慕い求め、神の「命の言葉」のみを欲する、賢い乙女(キリストの花嫁)として、更に成長して行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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