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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.30)

                             三つの願い
 



二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、私たちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、私は知っています。・・・・あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。私はあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、私の一族に誠意を示す、と今、主の前で私に誓って下さい。そして、確かな証拠を下さい。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なる全ての者たちをも生かし、私たちの命を死から救って下さい。」 
                                                                                                     【ヨシュア記2章8~13節】
 
ラハブの優れた「才能」
 ヨシュア記2章に示されている、ラハブの「信仰」の特性は、非常に並外れた才をもって、事(緊急事態)に対処しながら、神の敷いた正しい信仰の道に、彼女が忠実に従ったという点です。
 
 その中において、彼女の優れた二つの特徴(才能)が示されています。第一の特徴は、情報収集に長けていること、それも人の語る低次元の「噂話」の類のものではなく、一国の外務大臣に匹敵する程のものでした。第二の特徴、それは今回のストーリーの中で、一番大事な霊的特性ですが、「商い」における信用取引に関して、決断力と実行性が優れているという点です。
 
 ビジネス(商売)において、「甲」と「乙」という、売り手と買い手の二つの対象が、例えば何かを売る時に、そのもの(商品)が実際に価値あるものであり、売り手の人格が信用するに足る程の真実性がある!と、買い手が判断する時の概念(基準)、それを「信用(credit)」と言います。
 
 この「信用(credit)」という言葉を、今回の記事(新共同訳聖書)では「誠意」、新改訳聖書では「真意」と表現していますが、どちらも同じ意味です。本当にそれが、偽りのないものであることを提示すること、これがビジネスの基本です。そして双方が納得し合った時に初めて、売買「契約」を交わすことになります。
 
 ラハブは自分のビジネスにおいて、この「契約」を交わすことに、非常に優れた交渉術を持っていたことが伺えます。おそらく彼女は、様々な外国人の有力者たちから、名も無き一民族(ヘブライ人)が、エジプトの支配下(奴隷状態)から脱出(独立)し、カナン地方に向けて北進している!などの、具体的な情報を聞いた時、「これは只事ではない!とんでもない事が起きている。今までの世界史を、引っくり返す程の事態が迫っている!」と、瞬時に悟りました。そして「そう言えば、元々ここ(カナン)は、彼らの住んでいた所だわ!」と思いながら、次の行動を模索していたのではないでしょうか。
 
「信仰」とは二つの行動


信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 
                                                                                                              【ヘブル書11章1節】
 
 「信用」も、ある種の「信仰」が無ければ、その決断(行動)には至りません。この御言葉に記されている如くに、「信仰」とは第一に、➀望んでいる事柄を確信することであり、第二に②見えない事実を確認すること、この二つの行動のことです。第一の行動は、私たちにとって中々難しいことです。私たちは「主よ、まだ戴いてませんが、それでも確信し続けるのですか?」などと、辛坊できない性分だからです。
 
 ではラハブの場合、彼女は「何」を望んで、どのように確信に至ったのでしょうか?つまりラハブ(甲)は、二人の斥候(乙)に「何」を提供し、そして「何」を得たのか?という点です。更に第二の行動に関して言えば、世の人々は三次元的情報を、ベース(頼み)に事を運んでいる故、見えない事実に関しては、殆ど無視(信用しないこと)します。
 
 しかし私たちキリスト者は、見えざる神を信じ、見えざる事実(十字架の贖いと復活の信仰)によって、神の「救い」を戴いていることを確信し、かつ確認し続けています。とりわけ、贖いの子羊(イエス・キリスト)の流す、「赤(血潮)のマーク」に関しては、常に確認しているのではないでしょうか!
 
 そうです!私たちはイエス・キリストを、自分の「救い主」として受け入れ、信じた時から聖霊に満たされ、常に「我が救い主、我が愛すべき方、我が慕うべき方、あなたこそ救いの巌ですから、どうぞこの私を、正しい道へと導いて下さい!」と告白することの出来る、聖なる関係の中に、私たちはあずかっているのです。
 
 「それを聞いた時・・・・誠意を示したのですから」(11~12節)と、ここで彼女は二人の斥候に対して、彼女の「信仰」を提供(提示)しました。そして何と彼女は、見知らぬ二人に対して「あなた方が、ここに来た時点で、既に真実の神が、あなた方を導いたことを、確認させて戴きました!」という、驚くべき証言を同時に提示したのです。
 
 何故彼女は、そこまで彼らを信じることが出来たのでしょうか?ラハブは、二人の斥候の「目」の中にある、見えざる神の事実を見出し、それが真実である!と確信に至ったからです。ある面で、ラハブのこの告白(提示)は、「命」と「命」の取引という、この世の商売には殆ど見られない、特殊な信用取引です。つまり「自分の命を、あなた方の信じる神に捧げますから、自分たちの命の保証を戴きたい!」という取引です。
 
 ところで私たちは、相手の語る「言葉」が真実であるのか、それとも偽りであるのかを、如何にして見分けるのでしょうか?とりわけ、それが商売の場合、例えば「お客さん、今日は大サービス!おまけしとくよ。」と言われたら、殆どの人が「あ、ラッキー!」と思い込み、余分に買物するなど、「もの」の真偽を確認することをしません。
 
三つの「願い」
 自分の「命」を引き換えに、「信仰」を提示した直後に、ラハブは三つの「願い」を、二人の斥候に申し出ました。第一の願いは、「あなたたちも、私の一族に誠意を示す、と今、主の前で私に誓って下さい」(12節)でした。この時点で彼女は、ヘブライ人の信じる「神」を、「主(Lord)」と呼ぶことで、自分が「しもべ(臣下)」の如き身分であることの、「誠意(従順)」を見せていること、これは素晴らしい信仰表明です。
 
 第二の願いは、「確かな証拠」を戴くことでした。これは「言葉」だけの約束ではなく、実際に「契約」の証拠(sign)」となるものを、相手に要求する際の、信用取引上の基本行動です。
 
 そして三つ目の願いが、「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なる全ての者たちをも生かし、私たちの命を死から救って下さい」(13節)というへり下った姿勢で、家族(一族)の「救い」を申し出たことです。つまり、真の主なる神の「救い」が無ければ、自分たちの前途は「死」しかありえず、それ故に私たちの「命」の保証を戴きたい!という切なる申し出を、彼女は全身全霊をもって願い出たのです。
 
 このようにラハブは、自分の「命」の代償を表明した結果、ダビデ王の先祖に連なる、特別の位置にあずかることが出来た、言わば信仰の母と呼ばれるに匹敵する程の人物です。
  
 私たちキリスト者と、救い主イエス・キリストとの関係は、聖なる契約に基づくものです。そして私たちが救われたことは、神の一方的な恵み(恩寵)によるものです。では私たちは神に対して、「何」を提示したらよいのでしょうか?この時聖霊様は、すかさず助言します。「あなたのありのままを、主なる神に捧げなさい!」と。


  あなたが最後の最後まで、イエス・キリストが提示して下さった、正しい勝利の凱旋へと至る信仰の道を、ラハブと同じように歩み続け、主イエス・キリストに対する、「真の愛(誠意)」を携えながら、主なる神の御許へと、日々前進できる者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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