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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.18)

                           七日目の信仰
 



エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることは出来なかった。その時、主はヨシュアに言われた。「見よ、私はエリコとその王と勇士たちを、あなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声を上げなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」・・・・角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声を上げた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
                                                                                                  【ヨシュア記6章1~5,20節】
 
 「六日間」と「七日目」の行動
 第一に覚えて戴きたいこと、それは「七日目」も重要となりますが、実はその前の「六日間」も、前哨戦として非常に大切になるということです。即ち「六日間」に行った、エリコの城壁の周りを、一日に一周すること(合計6周)と、七日目の行軍(七周)には、密接な相関関係にあることが分かります。
 
 今回のストーリーに見られる、イスラエルの民全体の「信仰」の行動は、私たちに対して強力なチャレンジを与えるものです。例えば、私たちは「いつになったら・・・・?」などの、長期に渡る「忍耐の時」を要する場合は、今回の「信仰」の法則は、まさしく実行すべき信仰行動です。私たちの信仰の「歩み(行動)」においても、エリコの「城壁」を目前にして、「あー、これでもう駄目だ!」などと、すぐにも否定的観念に襲われることがあります。
 
 そのような彼らに対して、ヨシュアを通して発せられた、主なる神の「ご命令」は、とんでもない内容でした。常識的に考えてみても、とても実行するには、「馬鹿正直」にならなければ、信じることの出来ないものだったからです。
 
 例えば、私たちの信仰上の「忍耐」に関して言えば、長期に渡って祈り続けること、これ程精神的に苦痛なものはありません。何故なら、私たちの三次元的「信心」では、祈ったらすぐ結果が出るのであれば、喜んで祈りの行動に移れるからです。ところが「毎日」、しかも果てし(ゴール)無き状態を、日々継続していくことには、誰しもが耐えられない訳です。
 
 しかし主なる神の「ご命令」には、必ず「その通りになる!」という、神のゴールが待っているのです!神は「この時」も、イスラエルの民全体を取り扱うべく、結論の命令として「そうすれば・・・・」という、約束の保証を付加して下さったのです。
 
「七日目」の奥義
 ところで、「天地創造」のプロセスにおいて、「六日間」と「七日目」という、非常に分かり易い区分けを、主なる神は為されました。聖書の中には、この「七日目」或いは「七度(回)」という数字概念は、多く記述されていますが、今回の場合においても、それはある大きな意味あい(奥義)があるのではないでしょうか!
 
 神が私たちに対して「七!」と宣言された場合、それは主なる神ご自身が、「全て」のことを相働かせて「益」として下さり、私たちの今まで(六日間)の「苦労」に優った、大いなる天上の「祝福」と「安息」を、一方的に注いで下さる、まさしく「主の日(神の時)」を意味します。
 
 覚えて戴きたいことは、私たちが主なる神の「安息の日(七日目)」に、霊的に入る際には、携え行くべき「信仰」があるという点です。つまり、私たちに与えられる「上(天)」よりの信仰には、私たちが信仰を働かせるという、霊的務めが課せられているのです。私たちが「信仰」を、肉の次元ではなく霊の次元で働かせる時に、神の絶対的「安息」と「守り」を、確実に手にすることが出来るのです。
 
 「エリコ」とは、人が造り出す一時的な「守り」を意味する、この世のシンボルです。しかし神の与える「安息」は、人知を遥かに優った次元に中において、必ず「神の時」として用意されるものであり、永遠の保証に至るものです。そうです!求める者には、無代価で流して下さる、「命の水」の如きものです。「その時」に私たちが働かせる「信仰」、それが今回の奇跡の行動に示されています。
 
「七日目」の信仰行動
 ところで、霊的に巨大な壁(問題)を目前にして、私たちは如何なる「信仰」の行動を、継続できるのでしょうか?その「城壁(問題)」が大きければ大きい程、私たちは「気(精神的支え)」が挫けてしまい、その場に座り込んでしまう、これが私たちの人間的な「弱さ」です。
 
 「その時」に三つの道が、私たちに選択として与えられます。第一の道、それは全てを諦めて、元来た道に帰るという選択です。第二の道、それはサタンが積極的に提供するものですが、「敵」と取引する(恭順する)ことで、争いを避ける選択です。そして第三の道、これが私たちキリスト者に求められる選択で、ひたすら神の「御心」を求めて祈り続けることです。イスラエルの民を、より神の「御心」の道(第三の選択)へと、更に取扱うべく発せられた「ご命令」、それが「六日間」と「七日目」という、具体的な信仰の行動(継続)でした。
 
 「六日間」と「七日目」の信仰の行動には、明らかな違いがありますが何故主なる神は、「六日間」の時と同じことを、「七日目」にも命じられなかったのでしょうか?三次元的な私たちの浅はかな「考え」では、「六日間」の行動よりも、「七日目」の行動の方が、大変そうに思えます。しかも「七日目」には七周行進し、ヘトヘトに疲れ切った状態にある、その直後に「鬨の声」を一斉に上げることは、至難の業です。ところが聖霊様は、「否、ここに真の意味がある!」と言われるのです。
 
 実は、「六日間」の信仰の行動が無ければ、「七日目」の行動に至らなかったこと、この点を覚えて下さい。彼らは六日間という毎日、横(城壁)を見るのではなく、神が示される「先(契約の箱)」のみを見続け、「主なる神は、私たちを敵地から守り導き、必ずカナンの地へと連れ上らして下さる!」と祈り(告白し)ながら、一周を行軍し終えたのです。その間イスラエルの民は、城壁の上を守るエリコの兵士たちから、さんざんに嘲笑された訳ですが・・・・。
 
 私たちが「無駄!」と思われることの中に、主なる神の「御心」が示され、私たちは霊的に気付かされることがあるのです。しかし(聖書には記述されていませんが)、彼らが進み行く時には、神の「静寂」が民全体を覆い、神の「守り」の中で彼らは、豊かに聖別されました。そうです!彼らは目に見えざる、神の「事実」のみを見続けることで、神の「守り」の中で取扱われ、そして「七日目」に、彼らは一丸となって七周の行軍に、積極的に出陣したのです。
 
 「六日間」の取扱いを受けた結果、遂に否定的な「思い」から解放され、「七日目」に信仰の行動を、七周継続した彼らは、一斉に「鬨の声」を宣言します。「大いなる神よ、私たちはあなたの御名を、高らかに賛美します!神よ、あなたこそが勝利の主です!」と。この「信仰」を働かせた後の、「鬨の声」に応える形で主なる神は、目に見える事実(エリコの城壁)を崩壊させ、そしてその破壊し尽くされた中に、今まで見えなかった、目に見えざる神の「大路」が見えたのです。
 
 そういう意味で私たちは、主なる神が与えて下さる「安息の日」に、聖霊(最高司令官)様が、私たちを神の兵士として、練り聖めて下さることを、常に信じ続けましょう!また私たちは霊と真をもって、万軍の主に「鬨の声」を上げながら、神の「命の言葉」を、確かな神の「事実(約束の保証)」として掴むまで、祈り続けて参りましょう!あなたが常に、神の「事実」を確認できる程まで、聖霊様の豊かな取扱いを受け、主なる神の「守り」の中で、日々前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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