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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.23)

                              暗黒の覆い
 



主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じる程にしなさい。」モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることも出来なかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。・・・・しかし、主がまたファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。
                                                                                             【出エジプト記10章21~29節】

 
神による「暗黒」の力
 モーセは、いよいよイスラエル民族が、エジプトの「支配」から完全に分離(解放)され、脱出する「その時」が近付いていることを悟りました。しかし依然としてファラオが、頑なさを固持していることも、モーセは熟知していました。何故なら、エジプトの「国力」に未だ余力があると、ファラオ自身が驕り高ぶっていたからです。
 
 ところが今回の場合、主なる神は今までとは違った、非常に恐ろしい「災い」を、エジプトの民全体にもたらしたのです。エジプト全土を、三日間に渡って覆った「暗黒」の正体に関して、それは誰も解明できないものでした。ただ「事実」として浮かび上がってくること、それは彼らの「視力」を奪う物質であるという点です。そして何と驚くことに、この「暗黒」の覆いの結果、彼らは「何」一つ行動できない、つまり立ち上がったり、移動することができない程の、「暗黒の力」に縛られた訳です。
 
 この「暗黒」の物質を、例えば「空気」の如きものとして理解すると、ある「真理」が見えてきます。今回学ぶべき第一の奥義、それは人の「視力」を奪うことの出来る神の「力」についてです。人の「視力」とは文字通り、三次元的物質を見て判断する「認識力」のことです。
 
 この時、父なる神はサタンに対して、彼の持つ「暗黒の力」を、行使することを許可した訳ではありません。父なる神が、この時実際に命じられた相手、それは聖霊様です。聖霊様は、あらゆる自然現象をコントロールされる方です。これは私の推測ですが、聖霊様は「空気」に対して一言、ある命令を命じたのではないでしょうか。「直ちにあなたは、太陽の光を完全に遮断せよ!但しそれは、エジプトのエリアだけである。」と。
 
 ご存知のように「光」は、「空気」の中を通過するに当たり、七つの光に分散します。具体的に聖霊様はこの時、七つに分かれた各色の「光」に対して、「お前たち、これから三日間は、自分の色を反射する必要は無い。直ちにお前たちの、各働きを停止しなさい!」と命じました。
 
 その瞬間に、「全て」の物質を認識することの出来る、「光」の反射作用が、エジプト全土から失われ、文字通り「何」も見えなくなったのです。昼間ばかりか、夜の月明かり、そして星明かりに至るまで、「全て」が認識できなくなりました。覚えて戴きたいことは、私たち人間は、「光」の持つ七色の反射しか認識できない存在です。そうです!私たちの「肉眼」では、「紫外線」や「赤外線」などを見ることが出来ません。
 
 この「暗黒」の覆いが掛かったエジプトは、たちどころに宇宙空間と同様の「冷気」に包まれ、エジプトの民は急激な寒波によって、体全体を分厚い毛布で覆うなどして、三日間を過ごしたことが予想されます。その結果、当然彼らは強制的に、三日間の「断食」を強いられることになります。
 
 エジプト人は生まれた時から、地中海式気候の生活を営んでいますから、三日間の「断食」もさることながら、急激な気温低下によって、全員が活動出来なくなりました。21節の「それを手に感じる程にしなさい。」とは、人体の五感の触覚、つまり「肌」で感じ取るものです。
 
 ところで、主なる神はエジプト人の「視力」を、何故この時奪ったのでしょうか?それは「人」の持つ認知力の中で、この「視力」が一番最初で、かつ最大の影響力を、全ての活動に与えているからです。人は、自分の「力」を見ることが出来る間は、決して神の御前に、ヘリ下ることが無いことを、知っていたからこそ、主なる神は彼らの「視力」を奪ったのです。
 
 これは、私たちキリスト者の信仰生活の中にも、多々あるのではないでしょうか!例えば、「恵み」が多く降り注いでいる時は、神に「感謝」を捧げることが出来るのですが、急激に「世」の経済や、社会情勢が冷え込むなどして、実際生活に困窮状態が生じますと、すぐに私たちの「唇」から「主よ、どうしたらよいのですか?このまま行くと、私たちは干からびてしまいますが・・・・」などと、その信仰的活動がダウンしてしまうのです。
 
 「その時」に私たちが為すべきことは、「肉の眼」や「肉の耳」の判断などの、三次元的情報で捉えるのではなく、「主よ、あなたの只中に私たちは留まります。たとえ世の中が冷え込んだとしても、あなたの中に真の光があり、真の温もりがります!」と告白し、前進し続けることが大事です。そうです!主なる神は、様々な事柄の中に、私たちが「上(天)」より戴くものをもって、常に一歩一歩前進することを、切に望んでおられるのです。
 
「神の光」に守られる
 今回学ぶべき素晴らしい第二の奥義、それは幸いなことに、イスラエルの民の住む「ゴシェン」の地域には、この「暗黒」は全く及んでいなかったという点です。先回学びましたように、「ゴシェン」とは神による贖いのエリアです。ここには、神の「贖いの光」が差し込み、聖霊様による聖なる砦(守り)が、固く据えられていました。それ故に、如何なる「暗黒」も、「ゴシェン」を通過して行きました。
 
 三日の後、モーセはファラオの前に立つことになります。しかしファラオは、この時もモーセの申し出に対して、全面的に許可を与えること無く、むしろイスラエルの「真の礼拝」を否定する言葉を吐きました。即ち彼らが捧げる、全焼の生贄となる家畜を、エジプトの所有下に置くと宣言したのです。それが、エジプトの滅亡につながるとは露知らず・・・・。
 
 私たちキリストの民は、このような「暗黒」に覆われたとしても、真の光なる主イエス・キリストが、私たちと共にある限り、私たちは霊的な光を帯びる者として、暗き「世」にあっても、輝き続ける存在なのです!「この時」は聖霊様を通して、「三日間」という、「贖い」の猶予期間(恵みの時)がありました。しかし、これから来る「その時」には、滅びに至る「最後の扉」が用意されます。しかし私たちキリスト者は、全く恐れる必要がありません。私たちは「真の光」という、霊的武具に覆われたキリストの兵士として、最後の収穫(勝利)に携わって行くからです。
 
主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう。主は私の命の砦。私は誰の前におののくことがあろう。さいなむ者が迫り、私の肉を食い尽くそうとするが、私を苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない。私に向かって戦いを挑んで来ても、私には確信がある。一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。
                                                                                                               【詩篇27篇1~4節】
 
 この御言葉は、私たちキリスト者の信仰の「歩み」に、大いなる「励まし」と神の「力」を与える、預言的な神の言葉です。「世(ファラオ)」はこれから益々、私たちがキリストの「真の光」の中を歩むことを、様々に阻もうとして攻撃してきます。しかし私たちは「何」を恐れることがありましょう!私たちの前(先)には、主イエス・キリストが万軍の「王の王」として、先陣を切って下さるからです。
 
 主イエス・キリストのみが「勝利の主」であり、私たちを常に永遠の命から、永遠の命へと至らせることの出来る、真の「救い主」です。この方がおられる限り、私たちは堂々と進軍するだけでよいのです。どんな時にあっても、決して恐れないで下さい!前進することを控えてはなりません!
 
 主なる神がイスラエルの神として、また永遠に消えることの無い「真の光」として、主イエス・キリストの「来臨」の時まで、あなたを守り導い下さいますように。また、主イエス・キリストの「栄光」が、あなたを代々限り無く覆い続けて下さいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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