バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.17)

                    乾いた地を進み行く信仰
 



モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」・・・・モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。・・・・主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、・・・・水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。・・・・イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とそのしもべモーセを信じた。
                                                                                【出エジプト記14章13~16,21~31節】
 
「乾いた地」の完成
 今回のストーリーに記されている「事実」の中で、一番私が興味を引く点は、本来は海底であったフィールドが、一瞬にして「乾いた地」になったこと、即ちそれが「水分」が全く無い、乾燥した「地」でるという点です。英語版新共同訳では「dry land」、つまり乾燥し切ったフィールドが、一瞬にして完成されたのです。それは文字通り、「ぬかるんだもの」ではなく、土埃が立つほどの道(陸路)でした。
 
 何故このような事が、一瞬にして起こり得るのでしょうか?証明する(科学的に立証する)ことの出来ない、神の大いなる「力」が介入している(現されている)ことは確かです。
 
 さて、この「乾いた地」というキーワードから、➀私たちが日々正しく見るべき方向性と、②今日私たちが、如何なる「道のり」を信じて、日々歩んで行くべきか、この二点を中心に聖霊様から、教え示して戴きましょう。
 
自分の歩む「道」の状態を知る
 第一に学ぶべき奥義、それは私たちが霊的に歩んでいる「道」が、如何なる状態の道であるのか?これを聖霊様が常に、私たちに問い質している点です。すると私たちは「勿論、それは真理に至る唯一の道、主イエス・キリストという道です!」と、即答することでしょうが、実際は「この世」に生きている以上、「この世」という水たまりのある、「ぬかるんだ道」を歩いているのではないでしょうか!
 
 覚えて戴きたいことは、神が一瞬にして造成した「乾いた地」は、舗装されたアスファルト道路の如き、歩き易い「道」では無かったことです。海底の一部が、そのままの状態で「乾いたフィールド」になった訳ですから、ゴツゴツした岩石や石ころが、至る所に散在していたのです。
 
 しかしイスラエルの民は、神の「ご命令」通りに、その「乾いた地」を黙々と歩み続けました。しかも誰一人として、「海水」に濡れる者が無かったこと、この「事実」が重要となります。
 
 聖霊様は私たちに対して、いつも問いかけます。「あなたが歩んでいるその道は、どのような状態のものですか?水たまりのある世の道ですか?それとも神の定めた乾いた地ですか?」と。そうです!私たちが進み行くべき「道」とは、アブラハムの如くに、「乾いた地(砂漠のフィールド)」のみを進み行き、聖霊様が与えて下さる「命の水」のみを求めて、枯れた地(乾いた地)にあっても掘り下げて行く、そのような信仰の道です。
 
主の「救い」を見る
 モーセを含めてイスラエルの民は、三次元的「肉の眼」をもって、自分たちの行く手をさえぎる、巨大な「紅海」のフィールドを見て、たちどころに失望しました。何故なら「もう進めない!」と判断したからです。しかし、モーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」(13節)と、自分の信仰を打ち叩きながら、イスラエルの民に対して、正しく見るべき方向性を指し示しました。実は、モーセの語ったこの言葉の中に、第二の奥義が見出されます。聖霊様はモーセのこの信仰宣言を、大いに喜びました。そして、モーセの信仰に応える形で、今回の大いなる奇跡を起こされました。
 
 さて私たちは、主なる神の「救い」を、どのようなイメージで把握していますか?「病い」に苦しむ者にとって、それは完全な「癒し」のイメージでしょう。また霊的に、「この世」のことに縛られている者にとっては、完全なる「解放(自由)」のイメージでしょう。覚えて戴きたいことは、モーセが告白した「主の救いを見る」とは、文字通り「上(天)」を見上げる行為ですから、その「救い」のイメージは、「天」から「地」に降る(降り注ぐ)イメージになります。
 
 しかしイスラエルの民の中で、神に「不平」を吐いた者たちは、「天」ではなく、「エジプト(この世)」という地を、振り返って見た訳ですから、それは神に対する「反逆」となります。そのような不信仰の彼らに対して、モーセだけが神の「救い」を求めて、「上(天)」を見上げました。その結果「紅海」の中央に、神の大いなる「乾いた大路」が用意されたのです。
 
 聖霊様は再度、私たちに問い質されます。「神の救いは、何処から来るのですか?」と。今回の場合は、何の変哲も無い「乾いた地」の中に、神の「救い」が用意されました。モーセは信仰的に、神の「救い」を受け留め、彼らに対して瞬時に命令を下しました。「今こそ、主なる神の道を歩みなさい!これこそが神の救いである。この乾いた地を進み行く時、そして踏み行く時、あなた方は主なる神の大いなる臨在が、この乾いた地の上に豊かにあることを、必ず確認することになる。だから、決して後ろ(エジプト)を振り返ってはならない!」と。その結果、主なる神がイスラエルの民の「全て」を、本来歩む(見る)べき正しい方向へと、霊的に軌道修正されました。
 
「まるで」の信仰


信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。
                                                                                                           【ヘブル書11章29節】
 
 この御言葉の中にある「まるで・・・・」という表現は、実際にはそうではないのですが、あたかもそうであるかのように、行動する(受け留める)という意味で私たちは把握します。ところが「肉の眼」においては、「乾いた地」と認識していても、「霊の眼」においては、それは依然として「死」を招くフィールドです。
 
 そういう状況の中にあっても、彼らの全てが乾いた地、つまり「陸地」を歩く時と同じ信仰レベルにまで、霊的に整えられていたことが分かります。そして、不信仰に満ちた「不平(呟き)」の言葉を、何一つ洩らすことが出来ない程、彼らは黙々と歩み続け、神の用意された「救い(大路)」の上を、平安の内に前進したのです。
 
 そうです!私たちも、たとえ目前の状況が、「不可能」に思える(見える)ものであったとしても、目に見えざる「神の事実」として受け留める限り、私たちの信仰の歩みの一つ一つを、確かなものとされる神が、私たちに「救い」を用意されないことがありましょう!このことを、是非信じ続けて下さい!そうすれば、反キリストの台頭の時にも、確かな「信仰の足」が備えられた、神の「兵士」として仕立てられるのです。
 
 昨日も今日も、明日も変わることなく、「救い」を賜って下さる父なる神が、真の「救い主」イエス・キリストを通して、私たちを完全に「贖われた民」として、シオンへ招き寄せて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する