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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.14)

                 エジプトの富に優る神の報い
 



モーセが成人した頃のこと、彼は同朋のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして、一人のエジプト人が、同朋であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。・・・・主は言われた。「私は、エジプトに居る私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の故に叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それ故、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・・へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、私の元に届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。・・・・
                                                                                     【出エジプト記2章11節,3章7~9節】
 
 「エジプト」の力
 イスラエルの民は、かつて時の宰相であった、ヨセフを通して現された、主なる神の優れた「知恵」により、ゴシェンの地域において、大いなる民族的祝福(拡大)を享受しました。それはエジフト経済を圧巻する程の、巨大な力となります。ところが、ご存知のように「良き事」ばかりが、そう長くは続かないもので、必ず「隣人(エジプト人)」が妬み始めた訳です。そして遂には、経済的迫害を受けることになります。


 最初イスラエルの民は、主なる神の見えざる「祝福」を感謝し、神の「御心」のみに、霊の眼を注いで生活していました。経済的迫害にも関わらず、一時的に経済力が縮小しましたが、人口的には更に拡大していくものですから、ファラオは遂に、民族浄化(強制的な人口削減)政策を断行します。しかし、それでも依然として彼らの勢力が、殆ど減少することが無かったことで、今度は彼らに重労働を課すことで、成人男性の「体力」を奪い、最終的には男性人口を減らす政策に切り替えました。


 ところで、今日の日本経済について、私は余り知らなかったことですが、実に巨大な「マモン(金権主義)」の力が、歴史の中で次々と暗躍し、様々な階層に侵入しながら、日本人を支配していることに気付きました。彼らの「やり口」、つまり経済的食い荒らし方は、イナゴの如き醜い方法を採ります。実際に見たことはありませんが、イナゴが農作物を蝕む様子、それは驚くべき光景ではないでしょうか。イナゴは一瞬にして、全ての植物を食い尽くし、全てを枯れさせる訳ですから、イナゴの大群が去った後には、広大な畑と言えども、一瞬にして存在しなくなります。


 巨大な「マモン」の勢力は、イナゴやハゲタカの如くに、「お金」という餌をばら撒いて人々を駆り立て、そして集まった投資資金を、最終的にはことごとく奪い去ります。彼らは、「お金」に群がる人々を支配することが目的ではなく、「全て」を食い尽くした後、ただ立ち去る、それだけなのです。その結果、食い荒らされた側(例えば今の日本)は、一瞬の内に滅亡することになります。


モーセの選択した「生き様」
 モーセは、エジプト人によって様々に苦しめられる、同朋の「現実」を見ました。それ以後彼は、自分がエジフト皇太子という立場にあることと、現実にはヘブライ人(同朋)の立場(苦しみ)を比較しながら、次のように葛藤し始めます。「私は一体、どうすればよいのだろう?」と。


 そして「ある時」、あるエジフト人の現場監督が、一人の弱ったヘブライ人を、激しく鞭打っている様を見て、遂に立ち上がります。そして彼は、躊躇すること無く襲い掛かり、そのエジフト人監督を絞め殺しました。この時のモーセは、肉的な「怒り」から事を起こしました。誰からも見られること無く、エジフト人を始末したのですが、事件はエジフト治安機関に報告され、彼は「指名手配犯」として、エジプトから追われることになります。それ故、彼はエジプト皇太子の身分を捨て、「逃亡犯」としてエジプトから去りました。


 この時のへブライの民と同様に、今日の日本人の中には、毎日の暮らしに「不自由」を越えた、貧困に苦しんでいる人々がいることを、ご存知でしょうか?さて私たちキリスト者は、そのような時代の中にあって、今回のモーセの生き様、しかも霊的に砕かれた人生が長期に渡るという、彼独特の生き様を通して、主なる神の霊的取扱いを要する、人生の「時」の長さについて、正しく知る必要があるのではないでしょうか!


 時々、私たちも「いつになったら・・・・」、また「主よ、私はもう疲れました!」などと、「時」を嘆く日々を過ごすことがあります。それは、目に見える「現実(今の時)」に対する葛藤があるからです。しかし覚えて下さい!モーセは、自分が肉の「怒り」から、一人のエジフト人を殺すことが、その先(将来)においてどうなるか、それを全て予測した上で事を成しました。つまり、自分の今の「栄光(身分)」を投げ捨ててまで、一人のヘブライの民の「救い」を優先したのです。


 ここに主なる神が与えた、「上」よりの信仰をもって、モーセは見えざる神の道を、真摯に突き進んだことが伺えます。そうです!モーセは主イエス・キリストと同様の、父なる神が与えた「贖いの道」に従順すべく、あえて全ての栄光(身分)を捨てて、卑しい立場にまで遜る生き様を選択したのです。


 モーセの「生き様」、それはイエス・キリストの「救い」を現す、一つの雛形です。ヘブル語で「モーシェ」とは、「水(死)」の中から贖い出されることを意味します。格差社会が益々拡大する、この日本に於いて、私たち日本人キリスト者は、どうある(生きる)べきか?その方向性を指し示す生き方が、モーセの「生き様」に、見られるのではないでしょうか!


神の「報い」のみを求める
 モーセは、「世の君」と呼ばれることを拒み、同朋(へフライの民)の「苦しみ」を、自分の「苦しみ」として受け留め、あえて「逃亡者」としてレッテルを貼られる、「栄光」とはかけ離れた人生を選択しました。そして新たなる「召し」を、主なる神から授かることによって、エジプトの富に優るものを、遂に探し求め始めたのです。
 
信仰によって、モーセは成人した時、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストの故に受ける嘲りを、エジフトの財宝より優る富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
                                                                                                    【ヘブル書11章24~26節】
  
 覚えて戴きたいポイント、それはエジプトの「富(財宝)」に優るものを、果たして「嘲り」の中に見出されるのか?という点です。しかしモーセの「信仰」には、既にあるものを見出していたこが分かります。つまり彼は、エジプトの「富」に優るものが、自分の「生い立ち」や、「命名」された経緯などから、イエス・キリストと同様に、イスラエルの「救い(贖い)」のために生きること、その一点に見出されることを、聖霊様を通して知らされたのです。
  
 そうです!彼にとって神の「報い」こそが、生きる理由に他なりませんでした。ご存知のように、神の「報い」の殆どが、目に見えざる霊の次元に存在します。モーセの「信仰」は、エジプトの「富」を放棄したことで初めて、この目に見えざる、大いなる霊的「祝福(神の報い)」を、確実に受け取ることになります。
  
 私たちキリスト者もモーセ同様に、イエス・キリストの「救い」を現す、霊的「初穂」として召し出されています。それ故、目に見えざる真の神の、麗しい次元にあって生きていることを、必ず人々に証言するための訓練が、「今」与えられていることを、是非覚えて下さい!そして私たちには、神の「報い」として、イエス・キリストの「信仰」、イエス・キリストの「御名」、イエス・キリストの十字架による、「贖いの力」が与えられていのです!これに優る「報い」は、この世に存在しません。
 
 ですから私たちは、目に見える一瞬的で、はかない世の「富」にではなく、目に見えざる永遠の、神の大いなる「約束の地(カナン)」へと出立(脱出)する、イエス・キリストの「兵士」として、また「この世」で苦しむ人々に、偉大なる神の「報い」を、大胆に提供(分かち与えることの)できる、キリストの「証人」としての歩みが、聖霊様によって確立されるこを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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