バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.19)

                霊的な分離が始まっている!
 



「・・・・見よ。主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなた(ファラオ)の家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。しかし・・・・イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことは無い。・・・・翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜は全て死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。・・・・それでも、ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかった。
                                                                                                   【出エジプト記9章1~7節】
 
「霊的疫病」の蔓延
  どの時代においても、世紀末には必ずと言ってよい程、「終末思想」が登場します。その中で私たちキリスト者も、そのような終末思想的な「教え」や、常軌を逸する「メッセージ」等に翻弄され、「道」を誤る可能性が十分にあるのではないでしょうか。
 
 今回の記事は、あたかも新種のインフルエンザが、世界中に蔓延する有様と同様に、霊的に新しい病い(疫病)が、今日次々と起きていることを物語っています。その理由は、神によって贖われるべき聖なる群れを、そのような霊的疫病の災いから隔離(分離)し、霊的に強固なキリスト者(抗体)を整えるためにあります。
 
 世の「終わり」には、イエス・キリストが福音書の中で述べられているように、「惑わし」と「不法」の教えが大量に氾濫します。ところが私たちが「あー、そんなものは大丈夫です。私たちは予防接種を受けています。・・・・私たちは聖霊派ですから、聖霊による素晴らしい教えによって、霊的に予防されています。絶対に、そのような教えに騙されることはありません!」等と思っていたら、とんでもない事態に陥ることを、今回の記事から私たちは謙虚に学ぶべきです。
 
 成功を手にし、信仰的に勝利の道を進み、何者をも恐れぬ大胆な生き様を貫いて、堂々と前進している時こそが、実は最大の危険な時です!ご存知のように、私たち人間は「バベルの時代」同様に、大きいもの(事象)を求めようとする、霊的弱さがあります。例えば、神による「大いなる奇跡」と聞いた瞬間に、私たちは「不可能と思えるような病気(足なえ)が、突然に歩き始めた!」などと、大いなる現象や大いなる数のリバイバルに、私たちの三次元的反応が、心奪われてしまうのではないでしょうか?ここに霊的落とし穴(危険箇所)があるのです。
 
 実は父なる神が、「良き麦の種」を蒔かれるのと同じように、サタンも私たちの霊的フィールド(神の畑)に、「悪しき種(毒麦)」を巧妙に隠し蒔いているのです。そのため大収穫の時には、実りを迎えた各々の穂が、果たして良き麦なのか毒麦なのか、全く見分けがつかない程に、精巧に似通った形(有様)で成長しているのです。
 
 それは例えば、リバイバルの先進国と言われきた「韓国」において、今頻繁に現れているもの、即ちプロテスタント教会を蝕みつつある、新種の異端の教えです。私たちが、彼らの「教え」に侵されないためには、聖霊様を通して更に、霊的「知恵」と「洞察」に長けた者として、信仰がレベルアップすることです。所詮彼らの「教え」は、人間的な「惑わし」と「不法」、即ち自己中心主義の教えを根本としていますから、あたかもそれが、正しい「教理」の如くに聞こえたとしても、決して人間的な「情(魂的なもの)」に、霊が動かされないことが大事です。
 
神による聖なる「区別(分離)」
  今回の記事に見られる、イスラエルの民に関して言えば、彼らの飼育する家畜には、絶対「疫病」が蔓延ることが無かった事実、これに注目して下さい!ところで今回「神の時」は、如何なる方法で介入されたのでしょうか?「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。」(4節)この時代において、エジプト全土の草原に放牧されている家畜の群れから、エジプト人の所有する家畜と、イスラエル人の所有する家畜に区別して、分離できる方法(手段)を、彼らが持ち併せていたとは、到底考えられません。
 
 幸いにもイスラエルの民は、ゴシェンの地においてのみ、牧畜を営んでおりましたから、エジプト人の飼う牛の群れに、絶対に加わることがありませんでした。そしてこの時も、モーセとアロンを通じて父なる神は、「神の時」を特別に教え示しています。それは必ず「明日起きる!」と。そのため父なる神ご自身が、特別な方法でイスラエルの民に対して、彼らの飼う家畜の全てを、「疫病」から守ることを証明されました。
 
 その特別な方法こそが「聖別」です。「聖別」という言葉を聞きますと、私たちは即「神は私のことを愛して下さっているから、私のことを大事な存在として優遇して下さる」などの、素晴らしい「取扱い(働き)」としてイメージします。即ち「ホーリネス(聖め)」的な神の働きです。それと同時に、私たちが忘れてならない「聖別」とは、文字通り「聖くするための区別(分離)」のことです。別の言葉で言い換えるならば、「聖絶」です。父なる神は、「聖め」の働きをされる際には、決して妥協を認めない方です。この時もイスラエルの民は、父なる神の「ご命令」に従いました。即ち「ゴシェンの地」を離れることなく、父なる神が指定した聖なるエリアに留まり続けました。
 
 さて終末の時代と言われる今日、私たちは果たして「何」をすべきでしょうか?「主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜は全て死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。」(5~6節)と記されていますが、彼らは「神の畑」であるゴシェンの地において、神の臨在される特別な場所を、各家庭の中に用意し、共に集まり「神の時」を、ひたすら待ち望みました。父なる神が、いつ何時来ても良いように、また私たちの花婿(イエス・キリスト)が、霊の扉をノックして下さった時に、いつでも歓迎できる状態にしておくように、「神の時」を待ち望み、聖霊様の「御声」のみに聞き従う、つまり簡単には自ら動かない!という行動です。
  
 私たちは仮に今、大変なことが起きても、普段通りの聖い生活を送ること、これが肝心な基本的行動です。そうです!私たちは「神の時」が、いつ来ても良いように、イエス・キリストの血潮によって、贖われ続けることを求めましょう!そして断る度に、「神の宮」に救いがあること、そしてイエス・キリストこそが、真の「救い主」であることを、世の失われ行く魂に対して、神の「恵み」をもって流し続けましょう!
 
 あなたが、イエス・キリストの麗しい花嫁として仕立てられ、たとえ十人中一人であったとしても、イエス・キリストの御許に馳せ参じ、真心をもって仕え続けることの出来る、聖別された神の器(キリストの花嫁)として用いられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する