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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.13)

             人を恐れず神の御心を畏れる信仰
 



ファラオは全国民に命じた。「産まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ。」レビの家の・・・・彼女(ヨゲベド)は身ごもり、男の子を産んだが、その子が可愛かったのを見て、三か月の間隠しておいた。・・・・
                                                                                           【出エジプト記1章22~2章3節】
 
 「恐れ」の原因(源)
 私たちが抱く「不安」や「恐れ」などは、神の霊の次元から見れば、取るに足らない次元にあります。その殆どが、私たちの「不信仰」から生じるもので、私たちが神の「御心」を、正しく知ることが出来れば、それらのものは、たちどころに消え失せる、それ程に神の麗しい次元の方が、高い位置にあるのです。
 
 そうです!私たちが「真の光」なる方、主イエス・キリストを呼び求める「祈り」こそが、全ての「恐れ」を、瞬時に消し去ることの出来る、大いなる信仰の宣言(告白)なのです。例えば、私たちが三次元的な「肉の眼」、「肉の耳」、「肉の唇」などを頼みとし、霊的に支配されている限り、「人(他者)」を恐れるのではないでしょうか!
 
 しかし、主なる神の偉大なる「御心」に触れた者は、たとえ目の前の「現実」がどうであれ、「死の影の谷を歩く時にも、我は災いを恐れず!」と告白したダビデのように、主なる神が常に「自分と共に居て下さり、見守っていて下さる!そして何と敵の前にあっても、祝宴を用意して下さる!」ことを、信じ続けることが出来るのです。
 
 さて、ヘブルの民はこの時、大いなる歴史的「試練(悲劇)」の只中にありました。いわゆる「民族浄化」政策が、一方的にファラオの命令によって、施行された訳です。この時驚くべきことに、王の勅令にも関わらず、助産師(女性)たちが、命令に従う「振り」だけを装って、実際にはヘブルの民の「赤子(男子)」を、ナイル川に放り込みませんでした。つまり、放り込んだ「フリ」を装い、あえて生かした訳です。
 
 第一回目の命令の効果が、全く無かったことから、ファラオは遂に怒り、直接赤子の「死体」を確認するよう、全ての兵士に命じました。このような時に、一人の女性ヨゲベドの胎に、新しい命「男子(モーセ)」が授かったのです(勿論彼女は、自分の胎の中に居る赤子が、男子とは知りませんが・・・・)。彼女は、どんなにか生まれてくる「子」が、女の子であるように!と願ったことでしょう。
 
 ヨゲベドの「信仰」
 そして「時」満ちて、赤子が誕生しました。助産師から「残念ですが、男子です!」と告げられた時、彼女は如何なる反応を示したのでしょうか?これが、今回私たちが学ぶべき神の奥義です。普通でしたら、「あー、この子の命は(この瞬間から)終わった!私の不幸は、この子と共に始まったー。」などと、人生最大の落胆(精神的ショック)を憶えたことでしょう。


 しかし、彼女の場合は違いました。何事も無かったかのように、ごく自然な(最大の幸せを示す時の)顔つきで、「まー、何と可愛らしい赤ちゃんだこと!」と、喜びの声を上げました。彼女はこの時、生まれたばかりの「赤子」の顔の中に、見えざる神の「何か」を見出したのではないでしょうか。


 ところで私たちキリスト者には、実はアダム(エバ)から、脈々と受け継がれている、霊的「遺伝」があることを、ご存知でしょうか?それは言葉を換えるなら、神の品性と呼んだ方が、分かり易いかも知れません。この神の品性が、「人」のみに受け継がれ現されることを、サタンは極端に忌み嫌います。


 「人」は生まれながらにして、きれいなものや品のあるもの、また美味しいものなどを見たり、実際に体験(吸収)することで、麗しく感じ取る感性を備えています。これは、主なる神が持っておられる品性と同じものです。そして、罪を犯す以前のアダム(エバ)には、主なる神の「御心」を知り、その聖なる「麗しさ」を瞬時に悟ることの出来る、霊的品性が備えられていました。しかし、ご存知のように彼らは、サタンの提供した「肉の美」を味わった結果、「罪」の支配が始まり、その霊的遺伝が不完全な状態に陥ったのです。
 
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
                                                                                                            【ヘブル書11章23節】


 新共同訳のこの訳し方では、主語が一体誰を指しているのか、余り分かりにくい表現です。一見モーセの「信仰」について、記述されているかのように錯覚しますが、原語的に正しく訳するならば、主語は「モーセ」ではなく、その「両親」、特に母親の「信仰」について、記述されていることが分かります。直訳では「モーセの両親は、産まれてから三か月の間、赤子を隠し通しました。それは全て、信仰によるものでした。彼らは、王の命令を恐れることよりも、赤子が余りにも美しいことを信仰的に確認し、その信仰の故に、主なる神のみを畏れた。」となります。


 私たちは次のような体験を、神の一方的な「恵み」により、たまに授かる(注がれる)ことがあります。それは、聖霊様が一方的に臨まれる際、主なる神がその人に対して霊的に見せます。それは「肉の眼」で見えるものではなく、「霊の眼」や「霊の耳」、そして「霊の唇」が瞬間的にキャッチし、思わず神の「偉大さ」や「麗しさ」を、讃えずにはいられない!という、霊的体験のことです。
 
 このように、神の霊の次元に触れた者は、必ず「信仰」が働き始めます。主なる神の臨在により、私たちの「霊の眼」が開かれ、そして神の次元を「霊の手」が掴むのです。そして「何と神は美しく偉大な方か!」と告白し、続いて「霊の唇」が神を賛美し始めます。これをヨゲベドは、生まれたばかりの「赤子」の中に見出したのです。即ち彼女は、赤子である「モーセ」の中に、主なる神の麗しく、壮大な「ご計画」を見出したのです!
 
 私たちはすぐに、三次元的な肉の判断から、「恐れ」や「心配」などを抱き、他者を様々にコントロールし、霊的に縛る悪癖があります。しかし彼女は、夫に対して明確に伝えました。「この子を決して、エジプト人の手に渡さないで下さい!」と。この母ヨゲベドの「信仰」とは、第一に助産師から戴いた、「死」を恐れない姿勢。第二に、主なる神の「御心」に全面的に従う生き方。そして第三に、我が子(モーセ)の中に、神の偉大なる創造の始まり(スタート)を見出した、つまり「霊の眼」を持っていた。この三点に尽きるのではないでしょうか。
 
 サタン益々、「この世(エジプト)」の美をもって、私たちを様々に誘惑してくることでしょう。しかし私たちが求めるべきもの、そして一番に私たちが畏れるべき方は、主なる神だけです!主なる神は、私たちが如何なる状態にあっとしても、「愛する我が子よ、あなたは私の愛してやまない実子である。だから私は、もっとあなたを愛すべく、私の美しい聖なる次元の中に(あなたは)入るように!私はあなたの為に、麗しい天の美を用意している。それ故あなたは、神の御子イエス・キリストを通して、私の元に常に帰って来るように!」と、招待して下さっています。
 
 あなたが「霊の眼」、「霊の耳」、「霊の唇」をもって、たとえ「肉の眼」で見えなくとも、神の「麗しさ」を掴み取って行く「信仰」が、あなたの人生の中に、既に用意されていること、そして「上」よりの油注ぎが、聖霊様を通して与えられ、あなたが確実に受け取っていくことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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