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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.12)

                 我らの国籍は天にある信仰
 



ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることが出来た。マナセの息子マキルの子供たちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みて下さり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上って下さいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みて下さいます。その時には、私の骨をここから携えて上って下さい。」ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼の亡骸に薬を塗り、防腐処置をして、棺に納めた。
                                                                                                        【創世記50章22~26節】
 
「信仰」の原点
 今回の御言葉は、私たちの「信仰」の歩みにおける、一つの「ゴール」を指し示していると言えます。ご存知のようにヨセフは、エジプトに「奴隷」として売られて以来、全く「故郷(カナン)」に帰ったことがありませんでした。つまり、彼の「人生」の殆ど九割位が、異国の地で暮らさざるを得ないという、辛い人生だったのです。彼はファラオに続く、エジプトの第二の資産家(身分)としての、繁栄(成功)を手にしたとは言え、彼の「霊」の中には、いつも一つの飢え渇きがありました。
 
 私たちの「霊」は生まれた時から、生まれた乳飲み子の如くに、あることを慕い求めて止みません。即ち、私たちは「命の水」を、無代価で提供して下さる方、主イエス・キリストを、こよなく慕い求めているのです!「主イエス・キリストと、いつも共に居たい!」、「主イエス・キリストの居ます所に、私も共に座したい!」などと願う、これが私たちの「信仰」の原点です。
 
 このように私たちの「霊」は、常に「命の水」を欲して止みません。そして私たちの「霊の耳」、「霊の眼」、「霊の唇」は絶えず、霊の故郷「カナン」を捜し求めています。これが無くなったら、私たちキリスト者が生きている理由が無くなります。そして、私たちが霊の源なる方、つまり主なる神の居ます「至聖所」を、飢え渇き求めなくなったとしたら、私たちの「信仰」は、もはや死んだ(枯れた)と言っても過言ではありません!
 
 ヨセフにはその地位と財力から、恐らくカナンの地に帰郷するチャンス(好機)の時が、いくらでもあったことでしょう。しかし主なる神は、ヨセフがカナンの地に戻ることを、良しとはされませんでした。主なる神は、このヨセフを通して、「この世」という、神が選ばれたエジプトへと、あえて導くことにより、彼ら(ヨセフの兄弟と親許)を祝福するべく、様々に鍛錬(霊的訓練)を科しながら、大いなる国民へと増やす(拡大する)こと、これが主なる神の「ご計画」だったからです。
 
 ・・・・そしてヨセフは、自分の「臨終の時」に当たり、神から驚くべき「啓示」を授かることになります。それは、自分が願い求めていたものよりも、遥かに優った上よりの「信仰」でした。
 
エジプトは「寄留地」に過ぎない!
 今回学ぶべき第一の奥義、それはヨセフの「信仰」に見られるものです。それは、この世を象徴するエジプトが、単なる寄留地に過ぎないと見なす信仰、これが一番大切であるという点です。私たちが本来、しっかりと立つべきポジション、それは神が居ます聖なるフィールドです。ところが如何せん、私たちは「この世」に生を受けている以上、エジプト的なものの影響を受けます。それでも「エジプト」は、ただの寄留地に過ぎません!
 
 ヨセフは「エジプト」という、巨大な権力を利用して、カナンの地に凱旋することも可能だったことでしょう。しかし彼は、「エジプト」よりも遥かに優った、天の故郷を待望して止まなかったのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、そして今回のヨセフ、彼ら全員に共通していることは、主なる神が(自分を)一度導かれた以上、絶対に「後ろ(この世)」を振り返っていない!ということです。
 
 また彼らは、主なる神が「イスラエルの民」を導かれている以上は、本来のポジション(カナン)へと、神が直接連れ上る時が来ること、それが生きている時か、死んだ後かは分からなくとも、只ひたすらに信じ続けたのです。同様に、私たちキリスト者が「今」の時代に、そして「日本」に住んで、日々生活しているのですが、それはあくまで「寄留の時」、そして「寄留地」に過ぎません!
 
 ヨセフは、いよいよ自分の「死(臨終)」の時に至って、自分の子孫が「エジプト」において、物凄い民族的「勢力」となる程の、神の「祝福」を受け継ぐことを、主なる神の「啓示」を通して知りました。しかし主なる神は、それと同時にイスラエルの民が、今後ずっと「エジプト」に、留まることを決して「良し」とはされず、いずれは「その時」至りて、本来のポジション(カナン)に帰還することを、預言的に教え示しました。
 
 結論になりますが、「その時には、私の骨をここから携えて上って下さい。」(25節)とカナンの地に戻ることを、常に待望していたヨセフの信仰について、私たちは更なる第二の奥義を、聖霊様から教え示される必要があります。25節の表現は一見、ヨセフの「遺骨」の全てを墓場から掘り出して、新たな「棺」、もしくは「骨壺」に納めて、カナンの地まで運ぶように、ヨセフが指示しているように解釈できます。しかし、原語的には「骨々(bones)」ではなく、文字通り「遺体(body)」のことです。
 
信仰によって、ヨセフは臨終の時、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨(body)について指示を与えました。
                                                                                                            【ヘブル書11章22節】
 
 ヨセフは、自分が肉体的に死んだとしても、自分の「遺体」を、そっくり「カナン」の地に移し、改めて故郷の地に埋葬してほしいことを、子孫に託しました。そうすることによって初めて、神の「ご計画」が完成されると信じたからです。26節において、エジプトの高官(貴族)の埋葬(遺体処置)方式が、詳しく記述されていますが、実はヨセフも同様の埋葬方式、即ちファラオと同様の、遺体の「ミイラ処置」が為されました。
 
「霊の体」の贖いの備え
 このように、「エジプト(この世)」からの旅立ち(出立の時)が、私たちキリスト者にも啓示される時、私たちは「信仰」の備えが必要となります。ところが、どうにも私たちの「足(信仰のステップ)」が、「この世」という地上にくっ付いていたならば、私たちの霊的「体(body)」は、「この世」で腐敗することになります。
 
 覚えて戴きたいことは、私たちの霊的「体(body)」は、肉眼では見ることが出来ません。しかし、イエス・キリストの「御体」の一部として、私たちが霊的に贖われていくのであれば、それは朽ちざる「体」として、イエス・キリストの「御体」と一体化した、即ち決して腐敗することの無い、完全な防腐処置が約束されるのです。それ故に「その時」来たらば、私たちは「この世」から、完全に出立するべきです。そうです!私たちが「信仰」をもって出立し、「カナン」に向かって、一歩一歩と進んで行く、その「備え」の時機が来ているのです。
 
 では具体的に、私たちは「何」を備えるのでしょうか?ご存知のように私たちの「肉体」は、いずれ死んだ後、腐れ果てます。しかし、この「肉体」の死と同時に、「霊の体」が完全に贖われるのですから、今生きている「この時」にも、実は「霊の体」が成長期にあります。それ故「出立の時」に、私たちの「霊の体」が、神の「御心」に完全に従うことの出来るその「年齢」に、果たして達しているかが重要となります。
 
 ですから「私の霊の体を、元の聖なる状態へと造り変えて下さい!霊の体の中に、この世の汚れが侵入することが無いように、命の水のみを求めて止まない、この天上から注がれる信仰が守られるよう、聖霊様どうぞ、この私の体の全てに、聖なる油を注いで覆って下さい。あなたの聖なる炎をもって、完全な聖い器としと保って下さい!」と、私たちはへり下って祈り求めましょう。そうすれば聖霊様は、忍耐の限りを尽くして、私たちの「体」を聖なる状態へと、即ち「朽ちざる体」として霊的に処置して下さいます。
 
 あなたの真の国籍は、「天」にありますか?それとも未だ「この世」に属することを願っていますか?私たちは「この世」にあっては、ただの「寄留者」に過ぎないこと!これを是非忘れないで下さい。そして私たちの「body」は、霊の故郷「天」にあるのです!
 
 イエス・キリストの豊かな「祝福」と「恵み」が、常にあなたの「霊の体」を覆い続けますように。そして、これから来る激動の時代の中にあっても、あなたが「エジプト」的なものから完全に贖われ、麗しい天の故郷「カナン」が、あなたの「信仰」を捉えて離さないように。また「カナン」の地において、あなたの「全て」の歩みが完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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