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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.16)

                   世の水から這い出たもの
 



・・・・主は更にモーセに言われた。「アロンにこう言いなさい。杖を取って、河川、水路、池の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの国に這い上がらせよ。」アロンがエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がって来てエジプトの国を覆った。・・・・モーセはファラオを悩ました蛙のことで主に訴えた。主はモーセの願い通りにされ、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えた。・・・・
                                                                                         【出エジプト記7章25~8章11節】
 
「蛙」の意味すること
 今日のエジプト人は、「蛙」を食用として非常に好んで食べます。当時のナイル川に、如何なる種類の「蛙」が、棲息していたのか定かではありませんが、非常に多くの数が棲息していたのではないでしょうか。
 
 今回の記事を通して、私たちは先ず第一に、「蛙」の意味することを、霊的に正しく知る必要があります。何故なら、私たちの「霊」の中へと、見えざる「蛙」が、この時のナイル川の如くに、「この世」の中から大量に次々と這い出てきて、盛んに侵入する可能性があるからです。そして私たちは、これを正しく見る(捉える)ことの出来る、「霊の眼」を持つべきである!と、聖霊様は警告しています。
 
 ご存知のように「ナイル川」とは、霊的に「この世」を意味します。当時のエジプト人にとって、ナイル川の「蛙」も、神々の一つとして崇められました。何故「蛙」が、神として崇められたのでしょうか?それは「蛙」が、多くの卵を産む、即ち「多産」を象徴する生物だからです。蛙が「多産」、イコール「子孫繁栄」をもたらす生物として尊ばれたのでしょう。
 
 彼らが「神」と崇める、この「蛙」を、父なる神は災い象徴として、ナイル川から這い出させました。この出来事の中に、私たちが注目しなければならない、今日起きている霊的事象があるのです。つまり霊的に見ても、汚らわしい見えざる「蛙」が、世界中を席巻している!この事実に、私たちは気付くべきです。
 
 世界各地で、地球規模の異常現象が、次々と起きているにも関わらず、最先端の技術を誇る先進諸国の人々は、「情報」と「知識」を、瞬時に送受信できる、携帯端末(モバイル)を利用しながら生きています。何となく「これ」が無いと、日も夜も暮れない程、まるで「神」と崇めるかの如き、大事なものとして使用しています。
 
 「お金」がマモンの神であるのに対し、モバイル機器は、まさしく蛙の神と言っても過言ではないでしょう。これこそが、私たちの「霊」を蝕み、「魂」を様々にコントロールすることに、多くの人々が気付いていません。覚えて戴きたいことは、サタンは全ての、目に見える「事実」や「もの」の中に、如何にも麗しいものと映し、私たちに「安心」を与えるものとして、モバイル機器を持ち込んできます。


「蛙」を全て聖別しなさい!
 第二に私たちが知るべき奥義、それは「この世」から這い出たもの、その全てを霊的に排除していく務めが、私たちに求められています。霊的な「蛙」は、神の宮に入り込んで来る「災い」の一つです。今回の記事には、何も詳しく描かれていませんが、実はイスラエルの人々も、「蛙」の災いに悩まされていることが伺えます。つまり自分の生活圏内に、「蛙」の存在が認められるという、非常に苦しい状況にあったのではないでしょうか。
 
 エジプト人と「商い」をする、或いは彼らと共同作業(仕事)に従事するなど、決して「災い」の余波が、全く無かった訳ではありません。ですから、イスラエルの人々も長老を通じて、指導者のモーセとアロンに、その度に「苦情」や「抗議」を訴え出たのではないでしょうか。「一体どうしたら良いのか?」、「どうしたら改善できるのか?」などと。
 
 するとモーセは、彼らに対して次のように勧告します。「あなた方が、生ける真の神のみを礼拝し、上より与えられるものをもって、神の救いを仰ぎ求めさえすれば、災いは何一つあなた方に、もたらされることは無い!如何なる蛙と言えども、あなた方に触れることは無く、あなた方の家の中に入り込んで来ることも無く、食卓を汚すことなど一切無い。このことを堅く信じなさい!」と。
 
 父なる神にとって「蛙」は、ナイル川から這い出るもの、つまり霊的にも物理的にも、汚らわしいもの(聖なる状態に反するもの)として排除しました。この時に為された、主なる神の「排除」の方法は、決して「蛙」の存在を、この世から完全に消滅させたのではなく、単に「ナイル川」に帰還させない、つまり地上で死滅させたのです!
 
 その結果、「ナイル川」から這い出たものの最終状態が、エジプト人にとって更に耐え難き「災い」となる、腐敗臭をエジプト全土に、発生させるに至りました。この更なる「災い」の方が、彼らにとっては強烈なものであり、彼らは見えざる「災いの空気」に、数週間苦しむことになりました。
 
 ところで、この現象は私たちの霊的な、「信仰」の戦いにおいても見られるものです。やはり私たちが、「この世(ナイル川)」の中で生活する以上、何らかの「ナイル川」的な影響を受けています。その中で、仮に私たちの「霊」の中心部、即ち生ける神が住まう「至聖所」の中に、一匹の小さな「蛙」を持ち込みますと、その小さな「蛙」も巨大化して、遂には「神」となるのです。
 
 聖霊様は、「その時」に至る前に警告します。「あなたの霊の只中に、一匹たりと言えども、蛙を入れてはならない!もし見つけたなら、イエス・キリストの救いの御名をもって聖別し、御霊の剣により全て排除しなさい!」と。これは毎日為される、私たちの「霊」の戦いです。自分の「霊」の中に、蛙が侵入していないか否かを常に監視し、もし見つけたのであれば、直ちに廃絶(聖別)すること、これが私たちの為すべき、重要な日々の務めです。それ程に、私たち「アダムの末裔」は、聖霊様の「命の水」よりも、「この世」のナイル川の水を欲する霊的弱さがあること、これを常に覚えておくべきです。


「今」が救いの時!
 モーセの「予告」に対して、ファラオは「明日」という、愚かな選択をしました。しかし神の「救い」は、「明日」ではありません。「今」が恵みの時、救いの時なのです!
 
「上から来られる方は、全てのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、全てのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。・・・・御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることが無いばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
                                                                                               【ヨハネ福音書3章31~37節】

 
 そうです!私たちは「地(この世)」から這い出るものに、決して頼って生きることはせず、「上(天)」より戴く、聖霊様の「命の水」を、こよなく求めて参りましょう。私たちが「望み」を置くべきもの、それは永遠の至聖所より、私たちに必要なものの「全て」を、惜しみなく与えて下さる、御子イエス・キリストのみです!
 
 それ故私たちが、自分の「顔」を向けるべき方向、それは「地(ナイル川)」の蛙にではなく、「上」より豊かに注がれ、麗しいイエス・キリストの「御顔」です!イエス・キリストの「御顔」のみを、激しく仰ぎ求めて参りましょう!そうすれば、神の「救い」は、必ず訪れるのです!
 
 あなたが「霊の眼」をもって、「この世」の汚れた水の中で、霊的に縛られている人々を正しく捉え、そして御霊の剣によって、大胆に霊的な「蛙」を廃絶していく、その聖なる務めを全うすることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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