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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.10)

                霊の眼をもって祝福する信仰
 



父イサクは彼(ヤコブ)に言った。「私の子よ、近寄って私に口づけをしなさい。」ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いを嗅いで、祝福して言った。「ああ、私の子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とブドウ酒を、お前に与えて下さるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は、祝福されるように。」
 
父イサクは(エサウに)言った。「ああ、地の産み出す豊かなものから遠く離れた所、この後お前はそこに住む。天の露からも遠く隔てられて。お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反逆を企て、自分の首からくびきを振り落す。」
                                                                                           【創世記27章26~29,39~40節】
 
神の「祝福」を受け取る際に
 父イサクから祝福の「祈り」を受けるに際し、二人の息子は、それぞれに「願い」をもって臨んだことでしょう。特にヤコブの場合は、母(リベカ)の信仰的アドバイスにより、常に一つのことを自覚していました。「自分が、父イサクの信仰上の継承者(跡取り)である。いずれ時来たらば、主なる神から召し出される。その時には必ず、父から約束の祝福を受け取るであろう!」と。


 兄(エサウ)と弟(ヤコブ)という、二人の持つ信仰姿勢から、実は私たちの中にも、二人の信仰姿勢を併せ持つということを、霊的に正しく知る必要があります。ところで父(イサク)の信仰は、アブラハムと比較してみると、余り誉められたものではありません。彼は「肉の眼」で見る限りは、父親として「エサウ」の方が、ヤコブよりも優れているように見え、非常に期待していたと思われます。
 
 ところが、この時に至って彼の肉眼は、「光」を失う程の視力でした。自分にとって、期待の後継者エサウを確認する方法は、「肉の眼」によってではなく、彼の老いた手の触覚と、僅かに匂って来る嗅覚だけでした。今回私たちが学ぶべき重要な霊的奥義、それは神の祝福を受け取る場合の、私たちの取るべき姿勢、そして信仰の行動とは、如何なるものであるか?という点です。
 
二人の信仰姿勢
  ご存知のように「信仰」には、神が命じられた「言葉(御心)」を、素直に受け取ることが要求されます。それ故、「信仰」にとって一番重要となる姿勢を、私たちは「素直さ」であると把握しがちです。覚えて戴きたいことは、今回のヤコブの姿勢に関しては、余り良いイメージが描けない程、逆に「嫌らしい」姿勢の如くに、映るのではないでしょうか?産まれた時から、兄(エサウ)の足のかかとを掴む程、「我の優った、とんでもない赤子」に見えたからです。
 
 ところが父なる神は、母(リべカ)の信仰に応答して、「この子が、神の祝福(父イサクの祝福のことではなく)を受け継ぐに相応しい!」と示したのです。私たちは「え!ヤコブは兄エサウを騙して、神の祝福を奪い取った、とんでもない性格(姿勢)です。そのような者が、神の祝福を受け取るに相応しい姿勢ですか?」と、殆どの者が疑問視するのではないでしょうか。
 
 ここで覚えて戴きたい点は、「信仰」の行動には自発的なものが、必ず要求されるということです。例えばタナボタ(棚からぼた餅)式、つまり受動的に神の祝福を受け取る方法によって、与えられるものではないこと、この原則が何よりも問われてくるのです。そうです!天の御国は、激しく奪い取る者が、それを得ることが出来るのです。ヤコブは明確に、この「信仰」の行動の賜物を持っていました。
 
 確かに聖書には、ヤコブのことを「奪う者」、「騙す者」、「押しのける者」として紹介していますが、彼は決して肉的に「策(計略)」を講じたりするなどの、「不正」を用いた訳ではありません。彼は純粋に、母(リベカ)の信仰的アドバイスに従って、神に対する飢え渇きの行動を、忠実に果たしただけです。それは二人姉妹のマリヤの如くに、神の豊かな「油注ぎ」を見た瞬間に、「主よ、私は今、受け取ります!」と、急いで御前に馳せ参じる「信仰」の行動です。
 
 ところがエサウの場合は、この一番大事な行動を忘れています。父(イサク)から祝福を得ることは、確かに神の祝福の一つですが、真の主父なる神が「いつイサクに油注ぎを与えるのか?」という、信仰の確認(霊の眼をもって見る)を為していません。つまり神ご自身を追い求めることに関して、人間的な妥協を放棄してまでも、ストレートに行動することを、エサウは忘れているのではないでしょうか!このように神の祝福を奪い取ることは、他人のものを奪うことではなく、盲人バルテマイの如くに、他人のことを気にかけずに、ストレートに神ご自身を追い求めることなのです!
 
 このように、主なる神に認められた、ヤコブの信仰姿勢の第二のポイント、それは常に神を追い求めることです。それは「今日」だけ追い求めたり、「明日」になったら追い求めることではありません。エサウは、決して不信仰な者ではありません。一応、父イサクの元を訪れては、神の祝福を戴くことを願ったことでしょう。しかし「この時」だけは、イサクの元を訪れることを忘れる程のもの、つまり彼の飢え渇きを別のものへと惹きつける、我慢ならない程の「匂い」に導かれたのです。その結果、彼は一番大事な神の「油注ぎ」を、今まさに受け取るチャンスを、弟(ヤコブ)に提供してしまったのです。
 
父イサクの信仰姿勢
  イサクは、父親の肉なる「思い」としては、兄(エサウ)の方に期待を寄せました。しかし、イサクはヤコブに対しても、平等の愛をもって接しました。そして彼は最終的に、どちらが主なる神の祝福を受け継ぐに相応しいのかを、「肉の眼」では決断しませんでした。何故ならイサクの「肉眼」の力が、この時には既に奪われていたからです。仮にイサクの「肉の眼」に、視力が正常であったならば、当然自分の妻リベカの「策」に、騙されることはなかったでしょう。
 
 ではイサクは、「肉の眼」の力を失ったことで、果たして本当に騙されたのでしょうか?彼の「霊の眼」は、神の力に満ち溢れていたはずです。イサクの「霊の眼」は、エサウが「この世」のことに心を奪われていること、そしてヤコブの場合は、絶えず神の祝福を奪う(先に戴く)チャンスを伺っていることに、気付いていたのではないでしょうか!そのことを熟知した上で、二人の息子を呼んで、祝福の祈りを授けたのです。
 
 最初に祈りを求めに来た者が、エサウなのかヤコブなのか、彼には全く分からなかったのですが、聖霊様が彼に示したのです。「この者が誰であるかが問題ではない。今まさしく、最初に神の御前に馳せ参じた者が、神の祝福を受け継ぐに相応しい信仰である。主なる神の御言葉を、今あなたを通して、この者に注ぐから、私の言う通りに祈りなさい!」と。
 
信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
                                                                                                            【ヘブル書11章20節】
 
 この御言葉の中で「将来のことについても」と、ヘブル書の筆者は強調するかの如くに記していますが、ここに私たちが学ぶべき、重要な奥義が示されています。彼は「肉の眼」によって見る次元では、今のヤコブは霊的に「不作」と映り、エサウの方が「豊作」のように映りました。しかし、目に見えざる「将来」においては、彼の「霊の眼」で見る限り、主なる神の豊かな祝福が、二人の息子に注がれることを信じ切ったイサクは、イエス・キリストの信仰の「雛形」と言えます。とかく私たちの肉的な信仰では、肉の次元にのみ、目が注がれる傾向にあります。しかし主なる神が「事」を起こせば、必ず「御心」通りに成就するのです。
 
 そういう意味で、私たちが神の祝福を、誰かに執り成して祈る際には、「肉の眼」において見る限り、たとえ今(現実)は「不作」と映ったとしても、「神の霊の次元において、あなたは祝福された者です!必ず癒される者です!イエス・キリストの十字架の救いを、常に仰ぎ見る者として、必ず新しく造り変えられます!」と、「霊の眼」をもって祝福し続ける、これが私たちキリスト者に問われている、正しい信仰姿勢です。
 
 あなたが「この世」のことに、心と霊を奪われることなく、常にイエス・キリストを、激しく追い求める者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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