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神の時(No.14)

                        神の御怒りの本質




神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木で怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまりに死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
                                                                                                            【ヨナ書4章9~11節】


人の持つ「怒り」の本質
 私たちの「喜怒哀楽」という四つの感情の中で、一番多く現す(表す)感情は何でしょうか?その殆どが、恐らく「怒り」ではないでかと思われますが、私たち「人」の現す「怒り」と、父なる神の「怒り」とでは、その本質(性質)が違うことを先ず覚えて下さい。


 前回も述べましたが、父なる神の「御怒り」に対して、私たちは正しく理解しなければ、ヨナと同様の霊的「過ち(ミス)」を犯す可能性があります。彼は「ニネベ」に遣わされるに当たり、父なる神の「裁き」を、ソドム(ゴモラ)の如きもの、即ち神の「怒り」によってニネベが、滅ぼし尽されると把握しました。ですから彼は、自分が「ニネベ」に行ったところで、どうにもならない!と考え、タルシシュに行くことを決断しました。


 ところが父なる神の「裁き」は、私たちが抱く「考え」や「判断」など、そのような三次元的思考の中にはありません。今回の記事の中に、父なる神の「御怒り」の本質が、豊かに描き出されていますが、私たちが父なる神の「御怒り」の本質を、聖霊様を通して正しく知らされなければ、私たちは霊的に躓くことになります。


 9節に記された、神のヨナに対する「問い」は、ある面で私たち「人」の持つ、「怒り」の本質を区別することで、ご自身の「御怒り」の本質を現し示しています。父なる神の「問い」に対して、ヨナは即座に応答しました。「よくぞ神様、私の心を知っておられますね。何故この私に、このような酷い仕打ちをされるのですか?私は怒っているのですよ!」と、自分の「怒り」を洗いざらい告白しました。


 つまり彼は、「とうごまの木」が一夜にして枯れたという、三次元的な事実に対して怒っていることを、父なる神に述べた訳です。覚えて戴きたいことは、「とうごまの木」は彼が望んだことでも、彼自身が植えた(準備した、捜した)ことでもありません。彼が為したことは、一つの小さな「小屋」を建てたこと、この1点だけです。


 ところが、日が昇り暑くなってきたので、父なる神がわざわざ、「とうごまの木」に命じて、一つの「日影」を用意されたのですが、彼はそのことに対して、何ら「感謝」の言葉を述べていません。このように、ヨナの「怒り」の本質は、自己中心主義という名の「罪」から生じているものです。これを「自己義」と言います。


 これは例えば「主なる神が、この私を祝福して下さることは、私の信仰が正しいからで、当たり前のものである!」などと思う、霊的傲慢(慢心)にも表れるものです。私たちの持つこの「自己義」が、何らかの理由により阻害(邪魔)される時、私たちは即座に、自己中心から来る「怒り」を顕わにするのです。実は、この種の「怒り」によって、多くのカリスマ・リーダーたちが、霊的に堕落する傾向にあります。


父なる神の「御怒り」の本質
 父なる神が用意した「とうごまの木」とは、私たちを試したり、からかうために備えられたものでは決してありません。それはある事実に、私たちの「霊の眼」を向けさせるための、大事な神の「サイン」でもあります。そして、父なる神の「御怒り」のレベルは、私たちが一々小さなことにも怒る、そんな低レベルのものでもありません。


 では、父なる神の「御怒り」の本質は、何処から生じるものであり、どういうレベルに存在しているのでしょうか?最終的に父なる神は、ヨナに対して「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」(10~11節)と、ヨナの「怒り」を優しくたしなめています。


 この父なる神の言葉は、右も左も分からない赤子に対して語る、そんな優しきアドバイスの如きものです。つまりヨナが、「とうごまの木」の生命が、僅か「24時間」であったという、三次元的事実を惜しむのに対し、父なる神の場合は、ニネベの住民が神の救いを受け、永遠に長らえて生きることを、熱情の愛をもって忍耐しておられる(惜しむ)ことを、彼に正しく教え示すために、一夜のリバイバルと、一夜の枯れ死を対比させながら、「神の事実」を現し示したのです。


 父なる神が「怒り」を顕わにされる場合、それは今回の記事で説明するならば、ニネベの住民の「全て」が、サタンによる「罪」の奴隷として、永遠の滅びに至るという、この霊的事実に対して、絶対認める(許す)訳には行かない!という、「熱情の愛」から生じます。それ故、私たちが神の「御心」から離れ、サタンの「くびき」の下に仕えていくことも、同様に「怒り」のポイントとなる訳です。その理由は私たち「人」が唯一、神の「命の息」によって創造された、「愛して止まない作品(創造物)」だからです。


 そうです!父なる神は「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)と記述されているように、「一人の命」も、永遠の滅びに至ることを良しとはされません。また「救い」を実現するために、僅か「1秒」たりと言えども、ないがしろにはされません。


 このように、父なる神の「御怒り」の本質は、「神の義」に反する状態の、「全て」に対して憐れむことから生じ、この「憐れみ(熱情の愛)」が、サタンによって荒らされる場合に、激しい「御怒り」を顕わにされるのです。


「神の義」をもって生きる
 それ故に、私たちは問われているのです。キリスト者として、正しく「怒る」べきことが何なのか?そして逆に、人間的な「怒り」の誘惑には、決して負けてはならない!という二点です。私たちは一方的に、父なる神の「憐れみ」と「恵み」によって、キリストの下僕、キリストの家族、キリストの奴隷(自由人)として、選び召し出されています。


 それに対してサタンが為していることは、言い換えるならば、ヒットラーの如き「人間狩り」です。ニネベの住民の「霊」の中に巣くっていた悪霊のボス、それは「マモン(金権主義)」という名の偶像でした。経済的な「縛り」をもたらす、「マモンの霊」に仕える限り、私たちはキリスト者と言えども、キリストにある完全な自由人とは成り得ません。むしろ「金銭」の奴隷となります。私たちが神の「奴隷」と成るのか、それとも悪しき者(サタン)の「奴隷」と成るのか、それが今日の霊的闘いです。


 私たちが聖霊様により、マモンの霊的縄目から解放されて行く時、必ず私たちはヨナの如くに、彼ら(未だマモンの霊に縛られている人々)に対して、次のように宣言することになります。「皆さん、騙されてはなりません!間もなく繁栄は終わりを告げ、最終的な滅びが来ます。しかし永遠の救いに至る、唯一の道が開かれています。それはマモンではなく、私たちを全ての罪の縄目から解き放ち、永遠の命と新しい喜びを与え、素晴らしい自由人としての道を与えるべく、唯一の贖いの子羊イエス・キリストが、今も尚十字架上から、皆さんのために永遠の救いを用意して下さいます。ですから皆さんが、十字架上のイエス・キリストの御許に馳せ参じ、イエス・キリストの救いを仰ぎ求め、その御顔を慕い求めるのであれば、直ちに救われるのです!神の時を待ち望み、永遠の救いを求めて、十字架の下に行きましょう!」と。


 もし私たちが今、マモンの霊に導かれているのであれば、私たちは「自己義」からではなく、「神の義」によって、今の自分の霊的状態に対して怒りましょう!そして聖霊様による、「命の言葉」という霊的剣により、マモンの霊的縄目を断ち切りましょう!たとえこの世の「君」が、私たちを経済的に脅したとしても、私たちが仕えるべき(礼拝すべき)方は只一人、「王の王」であられる、贖いの子羊イエス・キリストだけです!


 私たちが手に持っている「義」は、自己義という名の罪の道具ではなく、神の国から戴く、麗しい「神の義」です!滅び行く「魂」に対して、私たちがイエス・キリストの「義(真の福音)」を語る時、必ず神の「救い」が現れ出るのです!「死(永遠の滅び)」を破壊された方が、私たちの「先(前)」を行かれる限り、私たちは何を恐れることがありましょうか!また何をひるむことがありましょうか!


 私たちに必要なもの、その「全て」をご存知の方が、私たちに圧倒的な「祝福」と、「勝利の凱旋」を必ず用意して下さいます。それ故に、父なる神の大いなる「贖いの時」が、「あなた」の信仰生活と全ての歩みの中に、イエス・キリストの「義」を通して、益々豊かに現されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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