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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.9)

                史上最大の犠牲を捧げる信仰
 



神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
                                                                                                          【創世記22章9~10節】
 
信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
                                                                                                    【ヘブル書11章17~19節】
 
 「天上の遺産」を受け継ぐ
 何故、父なる神はアブラハムに対して、彼ら夫婦に与えた「最大のギフト」であるイサクを、「生贄として捧げなさい!」と命じられたのでしょうか?とても矛盾に満ちた命令のように思えます。しかし、父なる神の為されることには、その「全て」に意味があり、その「ご計画」には真理があるのです。今回の霊的試験は、アブラハムのみに与えたものではなく、実は私たちキリスト者にも、同様に与えられているのです!
 
 ところで、私たちキリスト者に与えられる天上の遺産(財産)とは、如何なるものでしょうか?これはアブラハムも受け継ぐことが、約束の保証としてとして戴いたものです。それは「元(源流)」を辿れば、「アダム(エバ)」に始まります。彼らは確かに、「罪」を犯した第一人者でした。しかし、それと同時に彼らは、「エデンの園」を追われた身にも関わらず、父なる神から、大いなる約束の御言葉(遺言の如きもの)を、直々に戴いたのです。それは私たちキリスト者にも、脈々と続いている神の「ご命令」です。
 
 覚えて戴きたい「事実」は、私たちは父なる神の「ご命令」を、聞くことの出来る「霊の耳」を持ち、父なる神が「必ず与える!」と約束して下さった「事実(もの)」を、たとえ今は目に見えなくとも、その「ご命令」を信じて実行するのであれば、必ず明確に三次元の肉眼でも、確認することの出来る程のものを、受け継ぐ特権が与えられているのです。
 
 ところが如何せん、私たちの「霊の眼」は、アダム(エバ)の犯した「罪」故に、霊的なフィルター(肉の覆い)がかかっているのです。その霊的フィルター故に、私たちの「霊の眼」は、父なる神が無尽蔵に与えて下さっている、天上の遺産を確認できないのです。
 
 このような「罪」に満ちた、失敗だらけのアダム(私たちも含む)に対して、父なる神は、素晴らしい「お言葉」を賜ったのです。「私はあなたを、罪を犯したからと言って、見放すことも見捨てることもしない。そして、この世の中で孤児とはしない!私は常にあなたを愛している。」と。父なる神は、続けてアダムに命じます。「それ故あなたは、私がいつもあなたと共に居ることを知り、それを信じて、そのことに対する、あなたの愛を(心)を示しておくれ!」と。
 
 そうです!この「ご命令」の実行こそが、アダム以降に始まった、子羊を捧げる礼拝となったのです。このアダムに始まった霊的遺産は、ユダヤ人ばかりでなく、今に生きる私たちキリスト者に至るまで、歴史の中で脈々と受け継がれているものです!
 
 父なる神が、どれ程の愛をもって、私たちに「御心」を示しているのか?それを私たちが、イエス・キリストの「十字架」を、霊的に見る時に確認できるのではないでしょうか?いつも「聖なる衣」を着せて戴く、父なる神の「恵み」にあずかっていることを、聖霊様を通して霊的に見せられた者は、たちどころにイエス・キリストの、聖なる「十字架」の御前に跪き、「主よ、申し訳ありませんでした。私は、あなたのことを忘れていました。しかし主よ、あなたは再び私に対して、聖なる衣を見せて下さいました。」と、真心から「自分」を捧げ尽くすことが出来るのです。
 
最後の霊的試験
 では、アブラハムに課せられた最後のテスト、これは私たちキリスト者に対して、如何なる意味を持つのでしょうか?それを紐解く「鍵」が、アダムの遺産です。覚え戴きたい私たちの悪しき霊的特性、それは私たちが、霊的に忘れっぽい器である!ということです。常に「この世」に生きている以上は、確認すべきことを確認しないで、忘れることを得意とする、それが私たちの現実です。
 
 ご存知のように、アダム(エバ)が「罪」を犯した時から、それは始まっています。彼らは、神の御前から逃げ隠れしながら、実際に父なる神から問い質された時にも、忘れた振りを装ったのです。そのような、アブラハム(私たちも含む)の「罪(悪しき特性)」を承知の上で、父なる神はアブラハムを、霊的に正しく取扱いました。その最大の霊的取扱いが、今回の最後のテストでした。
 
 父なる神から「イサクを献げなさい!」と命じられた瞬間、彼は「もはや、私があれこれと、選択する道は残されていない!逃げ場が無くなった・・・・」などと思ったことでしょう。そのアブラハムが何故、このテストを受験する気になったのでしょうか?それは、私たちを含めてアブラハムが、父なる神の大いなる遺産を、受け継ぐに相応しい器であるか否かを、あえてアブラハムという、一人の信仰的先駆者というモデル(雛形)を通して、私たちにも示すためでした。
 
 この時アブラハムには、イサクという自分の分身の如き、愛してやまない独り息子を、父なる神に捧げるに当たり、何らかの「恐れ」を抱かなかったのでしょうか?三次元的事実としては、聖書には彼の心境が何も記されていませんが、当然「恐れ」はありました。しかし、それと同時に霊的事実として、聖霊様が弱いアブラハム(私たち)に働いて下さる!ということです。
 
 私たちが、どのように行動していったらよいのか、又どのように捧げたらよいのか分からないのですが、聖霊様が弱い私たちに、必ず臨んで下さるのです。そして聖霊様が、そのような弱い私たちに対して「聖なる衣、即ちイエス・キリスト(贖いの子羊)を見なさい!」と命じられる時、私たちはようやくアダムの遺産である、「イサク(子羊)」を祭壇上に捧げることが出来るのです。
 
 アブラハムは自分の「霊」の上にも、聖なる衣が着せられていることを、霊的に見て確認した時に、ようやく「分かりました、主よ!私は自分を見る限りは、何も出来ない者です。この死んだに等しき老いた夫婦から、新しい命(イサク)を創造して下さり、私たちに与えて下さいました。これは、あなた様が始められたことです。始められた方が、真実を現し証明して下さいました。ならば完成して下さる時にも、真実を更に優った事実として、再び現して下さることを信じます。それ故、私は手に刃を持ちます。あなた様が、この手に力を与えて下さることを信じます。」と告白し、刀をイサクの腹部に目がけて、振り下ろしたのです。
 
「神の事実」に目を向ける
 アブラハムは礼拝を捧げる度に、➀子羊の流した犠牲の血潮、そして②裂かれた体、その裂かれた体から得られる③血潮の染み付いた聖なる衣、という三点セットを、常に受け取っていました。私たちは肉の力で、「自分自身」の全てを、捧げ切ることは到底出来ません。だからこそ、父なる神が御子イエス・キリストを、私たちの身代わりとして殺した(屠った)という、この驚くべき「神の事実」に、私たちは信仰の目を向けるのです。
 
 私たちはイエス・キリストによる、復活の御業を覚えながら、イエス・キリストが歩まれた道のりを、私たちも同様に体験する時に、私たちは希望を持とうではありませんか!何故なら父なる神は私たちのことを、「庶子(イシュマエル)」ではなく、「実子(イサク)」として見て(取扱って)下さるからです。これが「神の事実」、即ち真実の愛です。
 
 イエス・キリストにある豊かな復活の御業と、私たちに対する父なる神の愛が、麗しく豊かなものであることを受け留め、私たちも神の「実子」として、父なる神に対して霊と真をもって、常に礼拝することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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