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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.13)

                           二つの出来事




そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日差しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に影を作ったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹き付けるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照り付けたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬほうがましです。」
                                                                                                              【ヨナ書4章5~8節】


「わがまま」なヨナの姿勢
 ヨナの主なる神に対する、わがままな幼児的態度(駄々っ子)は、実は私たちの信仰姿勢にも、頻繁に見られるものです。しかし主なる神は、ヨナに対して激しく叱責するのではなく、二つの出来事を通して、不思議な霊的回復の御業を、ヨナに施しました。しかもヨナの場合は、僅か二日間という短いスパンにおいて、目まぐるしい出来事を体験したのです。


 彼はイソップ物語にある、「太陽と北風」の如きストーリーの体験を、第一回目の出来事の中で受けます。私は最初、このストーリーを読んだ時、主なる神のことを「何と酷いことをされる方か!初めは恵み(飴)を与え、その飴を取り上げるかの如くに、次は苦痛を与えるとは・・・・」などと、懲らしめの神のイメージで捉えました。


 ところが、実は「第一の出来事」と、「第二の出来事」には、その全てに霊的相関関係があるなど、重要な奥義が語られているのです。これを私たちが学ぶ時に、「何と自分が愚か者で、わがままな幼子の如き者であるか!」を知ることになります。しかし私たちが、そのような霊的に未熟で、愚か者であったとしても、主なる神の「救い」は、絶対に変わることが無い!ということを、改めて体験することになります。


第一の「出来事」
 ヨナは、主なる神のニネベに対する、大いなる「救い」の働きに対して、その御業を讃えるどころか、むしろ「不満(愚痴)」を漏らし、「都(ニネベ)」の外に小屋を建て、その中に引き籠りました。「ふん、何だ。神様で勝手にしたらいいだろう。俺様なんか、いない方がいい。」などと思いながら。


 それに対して主なる神は、ヨナの不機嫌な態度(行動)を怒ることもなく、とうごまの木に命じました。「とうごまの木よ、ヨナの小屋を暑い日差しから守るべく、直ちに小屋を覆い尽くす程の葉で茂らせよ!」と。


 すると、たちまちの内にヨナの「小屋」は、とうごまの木の葉で覆い尽くされ、ヨナの「不満」を吹き飛ばす程の、快い日陰が完成したのです。ヨナは「あー、やれやれ。神は俺を見捨ててはいなかった。これで助かった。」と思いながら、第一目を終えました。この第一目の出来事は、ヨナ自身が気に入る(好む)出来事でした。実は、このような「求め(渇き)」は、誰もが望んでいることです。


 自分が描く「ビジョン」から、信仰上の「飢え渇き」に至るまで、「自分」にとって都合の良いことを願い求める故に、例えば「自分の気に入る出来事」が起きた場合には、私たちは「あー神様、感謝します!何と素晴らしいことを、私にもたらして下さったことか!」などと、「喜び」と「感謝」の声を上げます。


 ヨナが建てた「小屋」とは、霊的には自分の「肉の努力」の象徴です。この「肉の力」に対して、主なる神の祝福が歩調を合わせるかの如くに、良き出来事として続いて起きますと、あたかもそれが、主なる神の「御心」であるかのように、私たちは錯覚しますが、所詮ヨナは「小屋(肉の力)の中のヨナ」のままです。そして「とうごまの木」とは、ヨナ自身が望んだことに対する、神の現した一つの「しるし」を意味します。つまり、神の側から一方的に為した出来事ではなく、ヨナの「願い」に対する、神の「憐れみ」の一つに過ぎません。


第二の「出来事」
 ところが第一の出来事の後、主なる神は第二日目に、第一日目の時とは180度違った現象を起こしました。即ち、自分の好まざる出来事です。しかも太陽が昇る前の、朝早くにそれは起こりました。何と主なる神は、「一匹の虫」に命じて、この「とうごまの木」を枯らせてしまったのです。


 さてヨナは、この急な事態に直面して、どのような反応(行動)を取ったのでしょうか?恐らく最初は「あー何で、こんな事が起こるのか?」という、ごく自然な反応でしょう。しかし続いて「ふん!何だ主なる神は・・・・。俺様は決して謝らないからな!」などと思うや否や、今度は熱い東風が「小屋」の中へと、嫌が応にも吹き込んできました。


 遂にヨナは、「あー、こんな事になる位なら、死んだ方がましだ!」と、干からびた蛙の如き状態になりました。この彼の「喘ぎ」は、前回と同様のセリフです。つまり自分の思う(願う)通りに、「事」が進まなかった時に、私たちは神に対して、更に激しく怒る可能性があります。


 このように第二の出来事とは、自分の好まざるイベントのことです。実は、私たちの信仰の歩みには、主なる神の霊的取扱いにより、この時のヨナ同様に、何度も同じ「試みの時」が繰り返されることを、是非覚えて下さい!「その時」に、私たちの霊的反応の殆どが、「主よ、いつまででしょうか?いつになったら・・・・」などの、不平(呟き)を吐くことがありますが、これが神の取扱いである、自分の好まざるイベントです。


 そのような出来事は、まるで「砂漠の中で、干からびてしまうのでは・・・・?」と思う程、霊的に苛酷で辛い体験となります。そうです!昨日まで得ていた神の「祝福」が、一夜にして消えてしまう時、私たちは試されるのです。しかし私たちが、如何なる状況下にあっても、見えざる「神の事実」を確認するか否かが、「その時」に問われています。


 実は「一匹の虫」の動きから、焼けつくすような「東風」と、太陽の熱い「日差し」など、これらの全てが目に見えざる事実です。それ故に、如何なる「イベント」も、全ての事を働かせる方(主なる神)から発していることを、私たちが正しく確認できるのであれば、「不平(不満)」は無くなり、むしろ「主よ、私は間違っていました。この私が建てた小屋を、今捨てます(小屋から退出します)!もう一度あなたの御元へと、あなたが呼び集めて(召し出して)下さった、御心の道へと引き返させて下さい。私の全ての罪を贖って下さい!」と祈り求めることが、即座に出来るのではないでしょうか。


「神の事実」を確認する時
 「神の事実」のみを確認しようと、常に神の「御心」を求めて、へり下って正しく歩む者は、必ず三次元的な「時間の枠組み」から、解放されて生きるようになります。私たちが「今(現在)」、神の御救いを仰ぎ求めるのであれば、いくらでも今までの「過去」を清算できる程の、素晴らしい神の「祝福」を、主なる神は「将来(これから)」、必ず用意して下さる!と信じる、これが見えざる「神の事実」を確認する信仰です。


 私たちが生きるにしても、死ぬにしても、「全て」が神の聖霊によって、為し得ているのです!ヨナは自分の「肉」の思いから、「死んだ方がましだ!」と吐き捨てましたが、実際には死ぬことも出来ません。これが、私たちの「肉」の弱さです。パウロは明確に宣言します。「十字架のイエス・キリスト以外に、何もこの私に誇るところが無い!イエス・キリストに依らずして、生きることも死ぬことも無し得ない!」と。


 主なる神は、私たちが如何なる状態にあったとしても、様々な取扱い(試み)を与えることで、再び私たちが神の「救い」を、仰ぎ求めるように軌道修正されます!これ程までに、忍耐の限りを尽くして愛して下さる方は、唯一真の「父なる神」お一人です!


 あなたが、如何なる信仰のレベルにあっても、聖霊様はねんごろに見守って下さり、再び父なる神の「救い」を求めて、正しき道を歩む者へと聖めて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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