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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.8)

                             旅立ちの準備
 



この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声を挙げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかも知れません。ところが実際は、彼らは更に優った故郷、即ち天の故郷を熱望していたのです。
                                                                                                    【ヘブル書11章13~16節】
 
 「信仰」を抱いて死んだ人々
 今回の御言葉の中に、素晴らしい信仰の告白が記されています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」(13節)私たちは、この13節の表現から、結局のところ「死んだ人生か・・・・!」などと、少々残念に思えることはあっても、決してそれを信仰的に勝利ある人生として、把握することには無理があります。
 
 私たちの信仰概念では、「約束された方は真実な方であるが故に、必ず受け取ります(戴くことが出来ます)!」と、これがノーマルな信仰の告白です。「約束」とは、実行されて初めて、約束を明言してくれた方が、真実な者であると確認できる概念です。
 
 ところが今回の御言葉は、それとは逆の表現となっています。何故なら彼らは「約束さたれもの」を、実際には手に入れていないからです。この御言葉の中に記された「この人たち」とは、アブラハムばかりでなく、アベル、エノク、ノア、アブラハムの妻サラを含む五人のことです。彼らは例えば、アベルの場合について言えば、「死んだ」というより殺されました。
 
 アブラハムとサラの場合は、確かに約束の子「イサク」を授かりました。しかし現実は、そのイサクを神に「全焼の生贄」として捧げる、信仰のテスト(試練)を受けたり、イサクを通して多くの子孫が、増え拡がるというシーンを見ることなく死にました。
 
「旅立ち」の準備
 私たちは霊的に見て、もうそろそろ、ある旅立ちの準備をむする時期に入っていることを、ご存知でしょうか?目に見える、この三次元的枠組みの世界(世の地)から、一歩足を踏み出し、奥深い霊の次元の世界に至る旅路のことです。その奥深い霊の領域は、インスタント料理方式に、数分で到達できるものではなく、毎日積み重ねながら、イエス・キリストと共に行く、果てしなき旅路です。
 
 私たちがいつまでも、目に見える次元に心が奪われている限り、ロトの妻の如くに、結局は「この世」の塩柱になってしまいます。これは聖霊様が、日々私たちに与える警告です。私たちが「この世」のもたらす、目に見える一時的な「繁栄」に明け暮れ、目に見えるもののみを、更に求めるなどの、世的な信仰レベルにあるのであれば、それは主イエス・キリストが、いよいよ来臨される時に、花婿の近付く「足音」を聞き逃し、イエス・キリストを出迎える時にも、間に合わないことになります。
 
 そういう意味で私たちは、「この世」に向けて旅を続ける、愚かな民ではありません。そして私たちが、常に願い求める純粋な霊の次元は、「この世」の中には決して、見出せるものではありません。
 
「旅」の目的地は何処か?
 主なる神が命じられた、「約束の地」を目指して旅立った、アブラハムとサラの最終目的地は、一体何処であったのか?この点について私たちは、正しく知る必要があります。確かに彼らは、カナンの地に辿り着くことが出来ました。そしてある程度の「祝福」を、「この世」の中にあって授かりました。しかし彼らは、未だ見ていませんでした。
 
 真のキリスト者は、「この世」がもたらす、目に見える「新しいもの」に、こだわることをしません。何故なら彼らは、目に見えざる父なる神との、奥深い「親しき交わり」からもたらされる、麗しい「命の水」に飢え渇き続け、それを飲み続けているからです。
 
 ですからアブラハムとサラも、三次元的祝福を受け継ぐことではなく、霊の次元、つまり「天国(御国)」の領域に入ることを欲し、そのための旅立ちの準備を、開始したのではないでしょうか!あなたは更に奥深い霊の領域に入り、「御国」へと旅立つ、その霊的準備が出来ていますか?
 
 聖霊様は私たちに対して、緊急的に促しています。「もう時は近いのです!アブラハムとサラの如くに、真の神が居ます天の領域へと旅立つ、霊的備えを早急に為しなさい!」と。即ち「上」よりの信仰によって、私たちは生きること、又死ぬことが確立されていくのです。私たちが「死ぬ」こと自体を、「終わり」と捉える傾向にありますが、それは新しい旅立ちの準備でもあるのです。
 
 ですから私たちが、真実に願い求めるもの、それは「上(天)」よりの信仰をもって、更なる奥深い神の霊の次元に向けて踏み出し、いずれ来るであろう、「この世」での死の時のことをも考えながら、益々神の領域に入って行くことが肝心です。そうすれば「死ぬ」ことを、恐れなくなるのではないでしょうか!
 
 イエス・キリストは、ご自分の「死」の先にあるものを、常に求めて生きました。即ち父なる神が、ご自分を「この世」に遣わされた時以上に、遥かに優った偉大なる資格を与え、御国において「王の王」としての王冠を授けて下さる!そのために「救い主」として、最後の「贖いの場」を、十字架上にて死ぬという、この聖なる旅をストップしてはならないことを、イエス・キリストは十分に知っていたのです。
 
 それ故に聖霊様も、イエス・キリストに対して常に励まします。「そうだ、イエスよ!あなたの旅の最終目的地は、十字架上で死ぬことである。しかし、その先にあるものは、天の領域に入ることの出来る、復活の御業の初穂である!」と。
 
 私たちの「旅」の全てのゴールは、父なる神が居ます「臨在の場(至聖所)」です。私たちは、いよいよ旅立ちの時が迫っている中で、どう行動すべきでしょうか?賢い乙女は即、出立(旅立ち)のための「備え」を開始します。ところが愚かな乙女は、相も変わらず「この世」のことに明け暮れ、主人(イエス・キリスト)の来臨の、「その時」を見逃すことになるのです。そういう意味で、三次元的に目に見えるものを、自分の信仰の歩みの前に置く者は、ロトの妻の如くに結局は身を滅ぼします。
 
 しかし目に見えざる、神の奥深い領域に入ることの出来る、大いなる霊的資格を与えて下さった、救い主イエス・キリストを、自分の信仰の歩みの前に置く者は、イエス・キリストと共に、御国の至聖所へと旅立って行くのです。ヘブルの著者は、結論として述べています。「彼らは更に優った故郷、即ち天の故郷を熱望して」(16節)旅立ったと。
 
 さー、私たちも「聖なる旅」に向けて出かけましょう!私たちの目に見えるものは、一時的なものです。しかし私たちは、朽ちざる「霊の体」を戴いている訳ですから、私たちは大胆に主なる神が居ます、御国の至聖所へと旅立つのです!天の領域は、あなたにも豊かに開かれて(用意されて)います。
 
 あなたの旅路が豊かに守らられ、主イエス・キリストの恵みと、聖霊様の正しい霊的ガイダンスにより、あなたの信仰の歩みが加速することを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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