バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.12)

       あなたは如何なる義をもって怒るのか?




ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいました時、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いを降そうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、私の命を取って下さい。生きているよりも死ぬほうがましです。」主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
                                                                                                              【ヨナ書4章1~4節】


「人の怒り」の根源
 今回のストーリーに見られる、ヨナの神に対する主張(理屈)は、何となく最高裁判事に対して、必死に「不服」を申し立てているかの如きものです。しかし実際は、ヨナが主なる神に対して訴えた、怒りの「祈り」です。それ程にまで、ヨナは激しく怒っている訳ですが、何故怒っているのでしょうか?本当でしたら、ヨナが余り苦労しなくても、神の大いなる「リバイバル」が始まった訳ですから、怒るよりも「喜び」の態度(姿勢)の方が、自然に出来るはずです。


 ヨナは、翌朝「眠り」から目覚めた時、今までのニネベの霊的雰囲気が、180度変化していることに気付きました。「その時」、普段のヨナでしたら「おー主よ、あなたは何と偉大なる方でしょう。あなたは本当に、素晴らしい御業を為されました。私が遣わされたことには、やはり意味がありました。それ故ニネベの住民と共に、真の礼拝を捧げます!」などと喜ぶべきでした。ところが、ヨナにとって今回の「神の事実」は、「不快(unhappy)」な出来事に思えたのです。つまり彼にとっては、決して喜ばしいものとは映りませんでした。そして最終的に、彼は「憤り」を覚えた訳です。


 さて、私たちが今回のストーリーから学ぶべき第一の奥義、それは私たちが怒る時、その「由来(根源)」、つまり「何処」から怒りが生じているのか?それを知る必要があります。ご存知のように、私たちは「時々」ではなく、「頻繁」に怒っています。人類史上、最初に殺人を犯したカインも、「怒り」に導かれて弟(アベル)を殺しました。


 このように、私たちが怒るその「根源(出所)」の全てが、アダム(エバ)の犯した「罪」から発生しています。それに対して神の「御怒り」は、私たちの「怒り」とは根本的に異なります。旧約聖書を読む限り、何となく「父なる神は、いつも怒っておられる。」と錯覚しがちですが、決してそうではありません。実際に主なる神は、「怒り」よりも「忍耐」を優先される方です。神の「怒り」の殆どは、私たちの愚かな「歩み」、つまり「罪」に導かれ易い、悪しき生き方に対して為されるものです。


「神の御怒り」の根源
 神の「御怒り」は、私たちが神の聖なる秩序(支配、状態)に反する時に生じてくるものです。私たちと「父なる神」の関係は、「愛」に基づくものです。それも神の側からの、一方的な「愛」です。つまり私たちが愛したから、神も私たちを愛して下さるという、「~されたから、・・・・する」などの、取引き的な関係ではありません。主なる神は、私たちがたとえ「愚か」で、「罪に満ちた状態」にあったとしても、一方的に今も尚愛して下さり、「天の恵み」を注いで下さいます。


 この時、私たちは「一方的に愛して下さるのであれば、怒るのはお門違いでは?」などと安易に考えがちですが、主なる神にとって一番重要なことは、私たちが「罪」に染まった者であったとしても、主なる神の「聖なる愛」の中に、感謝をもって留まるのであれば、父なる神の「御怒り」が、私たちに及ぼされることはありません!


 ところがサタンの場合は、この主なる神の「聖なる秩序」から離れ、永久に神に背を向けた状態を選択しました。このサタンによる事件が、父なる神の「御怒り」の根源(出発点)です。実は私たち「人」の中にも、神の「聖なる秩序」に反する、つまり神の「愛」から離れて生きようとすることを、返って好む悪しき性質があります。そして、私たちの「怒り」の根源にも、サタンの悪しき性質と同様の、自分(自己)中心の生き方から、生じてくるものが殆どです。


 例えば、各自の持つ「自己義(人の義)」は、必ず自分自身の「正当性」を主張したり、優先したりする時に生じる「魂の反応」であり、この反応の一つが「怒り」です。つまり、ヨナが神に対して表明した姿勢は、「自分は、最初の一日目から真面目に働いたのに、何故神は・・・・してくれなかったのか!」などと、その「全て」が取引き的な関係になっています。


 しかし覚えて下さい。「魂的なもの」ではなく、全ての「霊的なもの」は、「天(上)」より一方的に与えられるものです。それに対して「下」から生じるもの、これが「肉(魂)的なもの」です。ヨナの「怒り」の表明(祈り)は、当然私たちが頻繁に為している、私たちの信仰姿勢にも見られるものです。実はヨナの時もそうですが、主なる神は私たちの「怒り」に対して、決して「御怒り」を現されないこと、これを私たちは学ぶ必要があります。


ヨナの三つの「怒り(人の義)」
 さて、ヨナの「怒り」の中身について、私たちも(ヨナと同じ罪の性質の身分として)謙虚に学ぶべきです。何故なら私たちも、ヨナ同様に「人の義」を、神に対して簡単(不遜)に主張する弱き「器」だからです。ヨナの「怒り」の第一のポイント、それは「ああ、主よ、私がまだ国にいました時、言った通りではありませんか。」(2節)の言葉に見られます。つまり彼は、自分の表明(理屈)の前提条件として、「人の持つ怒りは、自分が自己義をもって裁き(理屈)を下すことで、ようやく収まる」ことを、このように述べた訳です。


 この時のヨナは、「あなたの怒りも、恐らく私の怒りと同じで、ニネベの住民を裁くことですね。とにかくあなたの裁きは、とてもじゃないですが、収まるはずはないので、いずれ下されるのでしょう・・・・」というイメージで、神の「御怒り」を自分流に解釈したこと、これがヨナの第一の「理屈(人の義)」でした。


 彼の「怒り」の第二のポイント、それは「だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。」(2節)という、最たる「屁理屈」です。自分が「ニネベ」から逃げた「自己義」が、決して間違いではなかった!と、如何に自分の「正当性」を主張していても、本当は「ニネベが怖くて、不可能である!」という、自分の「弱さ」を隠しているところに、まるで駄々を捏ねた甘えん坊の如き、彼の「屁理屈」が見られます。


 彼の「怒り」の第三のポイント、それは「私には、こうなることが分かっていました。」という弁明です。この表明が、仮に彼の預言的信仰から生じる、正しき祈り(告白)であれば素晴らしい訳ですが、続いて表明した「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いを降そうとしても思い直される方です。」という言葉は、実際にはヨナの屁理屈からつい漏らした、究極の皮肉的言い回しです。


 つまり言い換えれば、「自分が(二日目、三日目と)居なくても、ニネベが救われるのだったら、一々私を呼ばなくてもよかったでしょう!」となります。この表明は、自分の思う(願う、計画している)通りに、「事」が進まなかったことに対する、彼の神に対する「不満(不服的な態度)」を現しているものです。例えば私たちの「祈り」にも、主なる神を「操作」しようとする、自分中心の祈りになっている時がありませんか?「主よ、私は・・・・なると信じます。今まで私は、断食の祈りを何回も捧げました。だからあなたが、必ず働いて下さると信じます。」などと。


 覚えて戴きたいことは、この時のヨナが忘れていたことですが、神が為される「全て」の出来事の発生(由来)は、「本人(ヨナ)」が、派遣する器として優れているからと言った理由ではなく、ヨナが派遣される以前、非常に彼の霊的な面において、神に対する「不信仰」が多く見られたからです。例えば私たち日本人キリスト者が、次のように抱く信仰「もう日本は駄目ではないだろうか!何をやってもこの国は変わらない。どんなに祈っても、この国の民は悔い改めない・・・・」などと。


「神の義」に立ち返る
 しかし父なる神が、そのような不信仰にあるヨナを、あえてニネベに派遣した理由は、ヨナを通して、今に生きる私たちに対しても、「一個人(私、あなた)」ではなく、全て「神」がアルファなる方として、「事」を働かせ始められる方であることを、再認識するためです。


 しかしその時、私たちが自己の内側から生まれる、「人の義」をもって神の「ご計画」を始めますと、オメガなる(完成へと導く)方ではなく、サタンの導く巧妙な「肉の業」によって、「事」を完成しようとしますと、遂には神の「御心」から離れて、「自分こそが救い主!」であると公言する、反キリストにひれ伏す可能性があることを、私たちは是非覚えておくべきです。


 自己中心から生じた、「人の義」をもって怒るヨナに対して、父なる神は決して叱ることも、非難することもなく、只一言「あなたは如何なる義をもって怒るのか?」と諭しました。むしろ「私の言葉をストレートに宣べ伝えた、あなたを通して、大いなる救いの御業を現しただけだ。このことを先ず、最優先に考えてごらん。」と、主なる神は父親の如くに、愛する「我が子」ヨナに対して、教え示したかったのではないでしょうか。


 再度強調しますが神の「御怒り」は、私たちが神に対して、背を向けることに対するものであって、私たちが再び神の「御顔」を求めて、今度は「この世」や「サタン」に対して背を向ける、つまり主なる神の側に立つ時に、「全て」が神の義として収まることを覚えて下さい!


 私たちが、たとえ「つむじ」を曲げて、人の「怒り」をもって、「不平」や「不満」を主張したとしても、この時のヨナの如くに、サタンの側に就くことを選択せず、常に神に対して、自分の「屁理屈」を申し立てる限り、聖霊様は最終的に「あなた」を、父なる神の「聖なる秩序」の中で霊的に取扱い、正しく導いて下さいます。


 私たちは、この時のヨナ以上に「不信仰」で、「屁理屈」ばかり申し立てる者かも知れません。しかし、このような「私(あなた)」を、主なる神はあえて「良し!」とされ、暖かく受け入れて下さり、この不可能と思える「日本」の中にあっても、「あなた」を神の聖なる「のろし(炎)」として取扱って下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する