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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.21)

                    自分の命を憎むとは?




一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
                                                                                             【ヨハネ福音書12章24~25節】


「命」をどう使うべきか?
 各自に与えられている「命」は、何のためにあるのでしょうか?「命」を愚かな方向で用いますと、例えば自爆テロに見られるような、「戦争」の道具になる可能性もあります。しかしイエス・キリストの場合は、自分の「命」を自分勝手に用いる次元ではなく、父なる神の「恵み」が無ければ、自分の「命」も存在し得ない!それ故に自分の「命」も、神の御手に委ねる(捧げる)時に、「新しい命」が天より着せられ、父なる神の「御心」の中に、分与されている「命」を用いて戴く!という、へり下った生き方を貫きました。


 さて私たちの場合は、どうでしょうか?現実の私たちは、「自分の命を憎みなさい!」と命じられたとしても、「いや、やはり自分の命は大事です。自分の命を愛することも、生きる務めではないですか?イェス様!自分の命が無ければ、人を救うことも出来ないじゃないですか?」などと、人間的理屈の中に生きる弱き者です。


 イエス・キリストはこの時、自分の「命」を十字架上で捧げる務めを、「麦」の種をもって説明されました。ご存知のように植物の「種」は、土の中に埋められ(蒔かれ)て初めて、生きた種としての効力を発揮します。まるでそれは、地に捨てられ、地に埋葬された、つまり死んだ状態に似通っています。


 しかし神の創造の御業により、太陽の日照力、水の潤い、土壌の気温という、三つの「恵み」がバランスよく一致した時に、今まで変化が無かったかのように見える、土の中から新芽が出て、少しずつ成長して行きます。そして、最終的にその一粒の麦の種は、100個以上の「新しい種(麦)」を結実させる、麦の穂(実りの姿)として完成に至ります。それと同様に、イエス・キリストは自分の「命」を、自分のために用いるのではなく、全ての人々が持つ悪しき種、つまり必ず「死」に至る「罪」を贖うべく、父なる神が用意して下さる「十字架」上に、一粒の麦の種として死ぬこと、この一点に自分の「命」を用いたのです。


 ところでサタンが、イエス・キリストの十字架による、「救い(贖い)の種」に対向して、「罪の種」を必死に撒き続けている!ことを、あなたはご存知でしょうか?そしてサタンによる「罪の種」と、イエス・キリストによる「復活の種」は、常に対立し合っていることも覚えて下さい。


自分の命を憎む
 今回イエス・キリストが説明された、福音の中にある「愛する」という動詞は、私たちがイメージするような次元の言葉ではありません。私たちの場合は、「~を愛する」と用いる時、それは「~を気に入る」、「~を好ましく思う」、「良きものとして欲する」などの、自分にとって都合の良いイメージを描きます。つまり私たちの中にある、「愛する」という概念の殆どが、自己中心的思いから発しています。


 私たちキリスト者は、自分の「命」が何処から来た(発した)のかを知っています。つまり私たちの「命」は、父なる神の「命の息(聖霊)」によって、この世に産み出されている!と。それ故に、「命」は自分のものではなく、いつか「神の時」来たりて、神のものとしてお返しする(用いて戴く)ことのみを、霊的に求める(愛する)のです。


 このように、私たちキリスト者の「愛する」という意識の中には、「自分のものであっても、常に神のものとしてお使い戴く!」などの聖なる「思い」へと、聖霊様によって造り変えられるなどの、神の「恵み」が導いているのです。ところがサタンの「罪の種」が、私たちの「意識」の根底の中に蒔かれますと、途端に「自分のもの(命)!」と主張し始め、最終的にはそれを失う(自分のためにのみ使う)ことになるのです。


 それとは対照的な言葉である、「~を憎む」という動詞は、人間的な「愛」の裏返しである「忌み嫌う」、「遠ざける」、「悪しき感情を抱く」など、極端に否定的なイメージの言葉として捉える傾向にあります。しかし、今回イエス・キリストが説く「自分の命を憎む」という概念になりますと、実際的に「どのように思い(考え)、どのように行動するのか?」が分からなくなるなどの言葉の矛盾を含む概念です。


 自分の「命」が、「この世」と合体化した時、それは自己中心的な方向に傾くことですから、必ず「愛する」ことにつながります。もし私たちキリスト者の中に、「この世」と合体した信仰で歩むのなら、それは与えられた「命」を、自分のものとすることですから、とんでもない勘違いです!むしろ、私たちはイエス・キリストと同様に、何処にあっても神の「恵み」の下に、へり下って生きるべきです。


 それ故私たちは、仮に世的な方向に傾いて歩いている場合に、自分の霊的姿勢に対して、「否!」と忌み嫌うなどの聖なる思いが、聖霊様を通して与えられる必要があります!私たちの「弱さ」の中に働かれる主イエス・キリストは、「この世」と合体化し易い私たちの「命」をも、主なる神の祭壇上に捧げられる、生きた聖なる生贄として仕立てるべく、私たちを至聖所へと招いて下さっています。私たちが益々神の「恵み」に覆われ、父なる神がイエス・キリストを通して与えて下さる、新しい「復活の命」と合体する、即ちイエス・キリストと一つとなることで、私たちには「新しい体」が授けられるのです!


 私たちが「この世」にあって、何故神の宮である「エクレシア」として、霊的に建て上げられているのでしょうか?弟子の中で、一番自己中心的な姿勢が強いペテロは、幾度となく失敗しました。しかしこのペテロをも、イエス・キリストは「真の愛」をもって、彼との間に正しい関係を確立され、彼を生ける「神の宮」を建て上げる、第一の使徒として任命しました!それ故彼は、イエス・キリストとは別の方向をもって、「逆さ十字架の刑」を全うしたのです。そうです!ペテロは最終的に「自分の命」を憎み、完全に神に捧げ尽くしたのです。


 私たちも「復活」という、新しい「神の命」が与えられています。そうです!私たちには、「自分の命」と主張する、私たちの「弱さ」を覆い尽くす程の「神の命」が、「霊」の只中に種蒔かれています。これはイエス・キリストが、「十字架」による死から蘇られた、「復活」の御業による不滅の命なのです。私たちが、この「神の命」を受け取る時に、必ず新しい「復活」の御業が、百倍の麦の収穫となって現れることを信じましょう!


 私たちには何一つ、「自分のもの」と主張できるものはありません。「全て」が、神の恵みにより生かされているのです。そうです!私たちは「神のもの」です。そして私たちは、キリストの花嫁です!「花嫁」として人生を、私たちにいつも提供して下さる、霊的仲人なる聖霊様に導かれながら、「実り」多き信仰の歩みが完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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