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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.13)

                              生きた集団



私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近付いた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中には霊は無かった。主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」私は命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
                                                                                               【エゼキエル書37章7~10節】


「霊」の無い人体
 エゼキエルが、主なる神の「預言」を大胆に宣言した時、確かに散らばる「枯れた骨」が次々と動き始め、一つの「骨格」の如き形状へと、集められ接合しました。すると次の段階として、その一つの「骨格」の上に、「筋」と「肉」と「血管」、そしてあらゆる「臓器」が組み合わされ、父なる神の創造の御業により結合しました。そして、最後に「皮膚」組織が、その「肉体」を完全に覆い尽くし、遂に神の「再創造」の働きが、完成したかのように思われました。


 しかしエゼキエルは、この時分っていました。その「人体」が、生物学的に「体温」があり、「血液」が流れていても、自らの意思で立ち上がることの出来ない状態にあることを。つまり神の「命の息」が、未だその「人体」には存在しない!・・・・と。「その中には霊は無かった。」(8節)の御言葉の中にある「霊」とは、言語的には「息」を意味する言葉です。そして「預言して霊に言いなさい。」(9節)の「霊」も、言語的に「風」を意味する言葉です。


 ちなみに「聖霊」を意味するギリシャ語も、「息」や「風」を意味する言葉として使用する場合もあります。と言うことは、父なる神がエゼキエルに命じた「命令」は、空気の流れを司る「風」の存在に対して、未だ立ち上がることの出来ない、霊的に死んだ「人体」の中に、「四方から一気に来たりて、この人体の中に命の息を吹き付けよ!」と命じている、そのようなイメージになります。


 私たちの「体」が、生きた状態にあるのか、それとも死んだ状態にあるのか、その違いは「息」の動き、つまり酸素を吸収し、二酸化炭素を吐き出すという、生物学的動作(機能)にあります。ご存知のように私たちの「人体」の、呼吸運動が終了したとき、それは「死」を意味します。それと同様に私たちの霊的な体、つまり「霊」が生きているのか、それとも死(臨終)の状態にあるのか、その鍵を担う最大のもの(源)が、神の「命の息」なのです!


 私たちの「霊」も、本来は父なる神の「霊(命の息)」に覆われた存在でした。しかし、サタンが蒔き散らした「罪の種」により、アダム(エバ)は神の「命の息」の覆いから離れて、自らの「意志」で全ての物事を決めるなどの、自己中心的な生き方を選択した結果、神の「命の息」は彼らの「霊」から去りました。それ故に彼らは、霊的に死んだ状態になったのです。それは今回のストーリーの描写の如くに、谷間に散らばる無数の、枯れた(荒れ果てた)「骨」の現象と同様です。


 その状態においては、何をしても生きる状態に戻ることが無く、最終的には途中で死に絶える、そんな干からびた状態に陥っているのが、私たち罪深き「人間」なのです。しかし、聖霊様は私たちに対して、激しい風の如くに神の「命の言葉」を命じます。「あなた方は再び、神の命の息によって覆われるべく、常に自分の霊の中に、命の息が四方から吹いて来い!と命じなさい。」と。


「命の息」が臨む時
 師(イエス・キリスト)を裏切り、四方八方に散り散りになった、あの弱小集団の弟子たちに、激しく臨んだ聖霊様の取扱いを、私たちは今一度、激しい飢え渇きをもって求めようではありませんか!それまでの彼らは、まさしく死んで干からびた、枯れた「骨」の如き集団でした。


 しかし主なる神は、イエス・キリストを「死のフィールド」から復活させた後、彼らに対して再び、次の「命の言葉」を託しました。「(しかし)あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」(使徒行伝1章8節)彼らは、このイエス・キリストの預言的「啓示」を、中途半端な信仰でありましたが、とにかく祈り続けました。


 その結果、五旬節の「その時」、彼ら全員に「上」よりの聖なる炎が、一方的に降臨し、神の「命の息」が四方から吹き付けたのです!すると、彼らは「その日」から生きた集団へと変革され、神の宮(エクレシア)が、荒れたフィールドの地の上に、力強く確立された(起き上がった)のです。そうです!まさしくエゼキエルに語られた神の預言が、新約時代に神の「恵み」として成就したのです。


 私たちは「その日(ペンテコステの記念日)」を、エクレシア(神の命の息に生きるため、呼び集められた集団)の誕生日として祝い、礼拝を特別に捧げていますが、皆さん、覚えて下さい!この時の現象は、決して「過去」だけの出来事ではなく、今の時も尚、大いなる神の「御力」により、生きた神の「み体」の中に、次々と霊的な出産(出現)として、現実に起きているのです!


 私たちのような、「罪」に満ちた存在であっても、御子(イエス・キリスト)という、「贖いの子羊」の流された、貴い血潮の「恵み」の故に、再び神の「命の息」が聖霊を通して、私たちの「霊」に吹いて来る(返って来る)時に、私たちもイエス・キリスト同様に、「復活」の恵みにあずかることが出来るのです!聖霊なる神は常に、空気の中を流れる「風」の如くに、私たちの周囲に存在して(働いて)おられます。


 ところが私たちは、時折「風」の存在無視する(気付かない)程、肉の思いに捕われていることがあります。つまり、自分が神の「命の息」に覆われなければ、本来は伏した(死んだ)状態にあることも忘れて、己の「力」で立つことが出来る!と錯覚しています。そして、霊的怠惰も常に起こります。そのような私たちに対して、イエス・キリストは今も尚、聖霊の「命の息」を吹きかけて下さり、次のように命じられます。「聖霊を(日々)受けなさい!神の命の息が、常にあなたの霊の中に宿るように、聖霊ご自身を、へり下って求め続けなさい!」と。


 私たちの「霊」が、完全に贖われる(復活する)ためには、神の「命の息」を受け(求め)続けることが肝心です。そしてそれは、あなたが自分の「霊」に対して、次のような信仰の宣言を吐かないことには、何も始まりません。「命の息よ、四方から吹いて来い!私の霊の中に、今吹いて来て、私の全てを覆い尽くしなさい!」と。


大いなる「生きた集団」
 聖霊様は常に私たちの「霊」を、完全に満たしたい!と欲しておられます。それは私たちの「全て」を、神の生きた体として再創造するためです。10節に記述されている「集団」とは、グループ(人々の集まり)を意味しているのではなく、一つの「体」のことで、あらゆる「敵」にも敗れることの無い神の兵士として、父なる神が形造って下さるものを意味します。神の「命の息」が、「霊」の中に吹きかけられた瞬間、あなたの「体」は、それまでミイラの如き、「死んだ状態」にあったのですが、突然に神の大いなる「武具」を装着した、立派(勇敢)な神の兵士として仕立てられるのです。


 神の「命の息」に覆われた、賢いキリストの花嫁(乙女)たち、彼女たちは聖霊に満たされながら、日々主イエス・キリストの「来臨の時」を求めて祈り続ける、そんな生きた神のエクレシアが、今必要とされています。その「鍵」となる存在が、やはり「聖霊様」です。祈り続け、賛美し続け、神の御前にへり下り続け、そして聖霊の「ご命令」に対して、ことごとく従うことの出来る、大いなる生きた集団を、父なる神はこの「日本」に用意して下さることを、是非信じて祈り続けましょう!


 聖霊なる方が、弱小集団の一人と思える「あなた」を、聖なる炎によって聖め、「命の息」を吹き付け造り変えて下さる時に、たちどころに大いなる神の兵士として、「あなた」は仕立てられて行くのです。今は目(三次元的)に見えなくとも、見えざる神のフィールド、つまり地中の奥深くにおいて、神の兵士が次々と、「命の息」によって形造られていることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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