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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.10)

                    尽きることの無いパン




しばらくたって、その川も枯れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、・・・・エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、私に水を飲ませて下さい。」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壷の中に一握りの小麦粉と、瓶の中に僅かな油があるだけです。私は・・・・帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。何故なら、イスラエルの神、主はこう言われる。-主が地の面に雨を降らせる日まで、壷の粉は尽きること無く、瓶の油はなくならない-」やもめは行って、エリヤの言葉通りにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壷の粉は尽きること無く、瓶の油もなくならなかった。
                                                                                                      【Ⅰ列王記17章7~16節】


「レベルアップ」した霊的取扱い
 日々介入して下さる、父なる神の驚くべき奇跡により、エリヤは確かに烏の運ぶ「パン」と「肉」を食べ、そしてケリテ川に流れる「水」を飲むことで、飢饉の最中にあっても、生き延びることが出来ました。ところが長期に及ぶ日照りにより、そのケリテ川の「水流」も、いつしか乏しくなり、いよいよ枯渇する直前にまで、事態は進展します。


 それにも関わらずエリヤは、ひたすら神の「御心」のみを求めました。何故ならエリヤは、主なる神の「命の言葉」に聞き従う時に、如何なる事になって(起きて)も、必ず自分は生かされる、即ち自分の「命」の主権を握って下さる方が、全能の主である限り、自分は目の前の現実に左右されない!という、不動の信仰に固く立っていたからです。


 ・・・・そして遂に、ケリテ川の「水」が無くなり、それと同時に主なる神の「命の言葉」が、再びエリヤに臨んだのです。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」(9節)と。覚えて戴きたいことは、私たちに対する、主なる神の様々な霊的取扱いは、必ずレベルアップしていくものです。つまり私たちは、ある一定のポジションに留まるのではなく、必ず次のステップを目指して、更なる取扱い(奥深い領域)が、聖霊様を通して用意されるのです。


 エリヤも、新たなるレベルアップが求められ、聖霊様によりサレプタへと導かれました。彼はケリテ川のほとりにて、三次元的な目に見える形での、「肉の糧」を得る信仰は、既に取扱われ得ることが出来ました。ところが、父なる神の更なる取扱いというものは、私たちの目に見える領域にではなく、神の見えざる奥深い領域にある故、霊の次元での取扱いを与えるべく、エリヤは次の霊的段階へと導かれたのです。確かに9節の御言葉は、私たちのような信仰レベルの者でも、「サレプタの地で暮らすとなると、神の言われるやもめとは、ある程度の裕福な身分の者であろう・・・・」などと、自分自身を安心させる憶測で、神の御言葉に人間的な期待感を抱いて、その場から出立することでしょう。


「霊の糧」を求める
  そしてサレプタに着いた時、確かに一人のやもめが、エリヤの前に出現しました。エリヤは、すかさず彼女に対して「水を少々飲ませて下さらないだろうか?」と切り出したのです。すると彼女は、見ず知らずの旅の者(エリヤ)に対して、快くその「願い」に応えました。「その時」、突拍子も無い神の「啓示(上よりのご命令)」が、またもやエリヤの「霊」に激しく臨み、その言葉が彼の口から出ました。「ついでにパンも一切れ、手に持って来て下さらないだろうか?」と。


 彼女を含めて私たちの場合も、初対面の他人から、このような「せりふ」を言われたら、恐らく面食らうことでしょう。「な、なんと、あつかましい人か!」などと。しかし、不思議な展開が次に起こります。エリヤの更なる「申し出」が、彼女の耳に入って来た時、実は聖霊様が彼女の信仰にも、エリヤ同様の更なる霊的取扱いを与えました。そして彼女は、きっぱり応じました。「あなたの神、主は生きておられます。」(12節)と。エリヤの「霊」に臨んだ、主なる神の「命の言葉」に対する彼女の応答は、彼女がそれまで抱いてきた「失望感」と、これからの人生に対する「喪失感」、即ち「もはや死あるのみ!」という、絶望の淵を完全に押し流す程の信仰宣言でした。


 彼女は、自分の本意からではない、信仰の「言葉」を補足するかのように、続いて「現実(彼女の本意)」を語ります。「しかし現実は、何も無いのです。最後に残った僅かな小麦粉でパンを作り、それを一人息子と一緒に食べ、後は死ぬのを待つだけです。」と。ところがエリヤは、尚もしつこく神の「ご命令」を伝えます。「しかしそれでも、私のために小さなパン菓子を作って、まず私に持って来なさい!」と。


 私たちが、信仰的にレベルアップされる時、それは必ず霊的に奥深い領域にある、「霊の糧」を求める方向へと導かれます。「霊の糧」とは、神が「上」より与えて下さる「命の言葉」と、枯れる(尽きる)ことの無い「命の水」のことです。ところが三次元的な「肉の糧」を、私たちが日々飢え渇き求めるのに対し、この「霊の糧」というものは、毎日(毎瞬)求めているものとは、とても言い切れません。


 しかし、父なる神のレベルアップした取扱いは、私たちが日々求める三次元的なものを、あえて隠したりする(取り上げる)ことで、再び私たちが神の居ます、霊的次元へと立ち返るべく、霊的に復活する方向に導かれるのです!即ち、私たちは物理的な死ばかりでなく、霊的な死に至っていることを、聖霊様の更なる取扱いを通して気付かされる時、私たちは「霊の糧」を求め始め、父なる神の復活の御業が、霊的にも拡大して行くのです。そうです!父なる神は「日々の糧」を与えて下さるのと同様に、聖霊様を通して「霊の糧」をも、私たちの信仰の成長のために、「上」より降り注いで下さっているのです!


「復活の福音」


イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」・・・・そこで彼ら(弟子たち)は言った。「・・・・それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。私たちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい。」と言うと、イエスは言われた。「私が命のパンである。私の元に来る者は決して飢えることが無く、私を信じる者は決して渇くことが無い。しかし、前にも言ったように、あなた方は私を見ているのに、信じない。」
                                         【ヨハネ福音書6章26~36節】


 イエス・キリストの弟子たちは、この記事の直前に五千人の給食という、神の偉大なる奇跡を目にしたばかりでなく、実際に彼らも神の「給食」の恵みを受け、満腹感を得ていた訳です。にも関わらず彼らは、相変わらず「現実」という名の物理的要求を、イエス・キリストに願い出ました。


 しかし、この時のイエス・キリストは、彼らに対して不思議な回答をしています。「あなた方は、この世の特権を得るために働くよう、召し出されているのではない!父なる神の、偉大なる救いのご計画に携わり、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。・・・・私が命のパンである。私の元に来る者は、決して飢えることが無く、私を信じる者は、決して渇くことが無い!」と。そうです!イエス・キリストこそが、私たちが日々、霊的に食すべき「命のパン」であり、「永遠の命」に至る、まことの「霊の糧」である、これを忘れてはなりません!


 エリヤに、再び神の「命の言葉」が臨んだ如くに、聖霊様の「力」を通して、尽きることの無い「命のパン」、即ちイエス・キリストを霊的に食する時に、私たちの「霊の眼」は開かれ、物理的な糧ではなく、霊的な糧を更に求めていくという、レベルアップした信仰が、「上」より注がれるのです。私たちは、目に見える三次元的な問題(壁)にぶち当たった時に、必ず霊的に試される(取扱われる)ことになります。


 ご存知のように、サレプタのやもめとその息子は、最後の食事を食べたら、それで食糧は尽きます。そのような最悪の状況下に、エリヤを導いた聖霊様は、最後の食事を彼女たちにではなく、先ずエリヤに食するように命じました。そして残った少々のパン菓子を、彼女たちで分けるようにと(果たして、残るかどうかも分かりませんが)。事の結末は、彼女たちの「死」しか残りません。


 聖霊様がエリヤを含めて、彼女たちに要求したもの、それは神の「命の言葉」を、更に激しく飢え渇き求めていく、レベルアップした「信仰」、つまり神に対する直ぐな姿勢でした。私たちは、「これが無くなったら、・・・・なるのでは?」などの、不完成形のイメージが常に浮かびます。しかし、父なる神の「御心」の中にあっては、ご自分の「命の言葉」をもって発した以上は、「全て」を完成する(成就する、実現する)方向で導いていますから、エリヤの「命」と、やもめ一家の「生活」の保障は、全く心配する次元にはありませんでした。


 エリヤの更なる「要求」に対して、彼女は初め躊躇したはずです。しかし、その通りに実行します。すると聖霊様は、エリヤの預言を通して、驚くべき主なる神の「ご計画」を、彼女一家に用意していました。「主が地の面に雨を降らせる日まで、壷の粉は尽きること無く、瓶の油はなくならない」(14節)決して尽きることの無い「命の言葉」と、決して枯れることの無い「命の水」は、全て聖霊様の働きを通して、信じるあなたの元にも必ず用意されるのです!


 真の「命の糧」を、日々与えて下さる方に、私たちが霊と真をもって信仰を表明する時に、聖霊様は必ず「永遠の命」に至る、イエス・キリストの御元へと導いて下さいます。父なる神の「命の言葉」を、あなたが如何なる状況下にあっても、更に飢え渇き求めていく時、聖霊様が更にあなたを、霊的にレベルアップさせ、イエス・キリストという真の「命の糧」、尽きることの無い「命のパン」を食することで、神の大いなる「収穫の働き」に、携わる者へと成長させて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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