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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.7)

             迫り来る暗闇を破壊する真の光



主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じる程にしなさい。」モーセが手を天に向かって指し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、互いに見ることも、自分の居る場所から立ち上がることも出来なかったが、イスラエルの人々が住んでいる所ではどこでも光があった。
                                                                                             【出エジプト記10章21~23節】


 ご存知のように新聞やテレビ、そしてラジオ等から流れる「情報(ニュース)」の殆どが、暗闇の如き「世相」を反映しています。十年前にアメリカで起きていた事象が、かなり早いスピードで、日本において次々と起きています。特に人の「生命」を軽視する風潮が、様々な世代間の中で発生しているのではないでしょうか?


 それ程にまで「暗闇(暗黒)」の力が、益々「この世」を覆い尽くしていると言えます。私たちキリスト者は、このことに対して危機感を覚えて、主なる神の「御名」を祈り求めて、御子イエス・キリストという「真の光」が、更に「この世」を照らし出すことを求めましょう。


「暗闇」とは?
 今回のストーリーに描かれている現象は、神が直接モーセに託した出来事、つまり神の側に「暗闇」の勢力を、引導する権限があることを物語っています。幾多に渡る艱難にも関わらず、エジプトの民とファラオ(王)は、イスラエルの民を解放することを、頑なに拒否しました。それ故父なる神は最終的に、指導者モーセに命じました。「暗闇の勢力に命じて、三日間エジプト全土を覆い尽くせ!と命じなさい。」と。


 その時モーセは当惑しました。「え!暗闇とは、夜のことですか?」しかし父なる神は「否、夜のことではない!三日間、昼も夜もエジプトの地を、暗闇が支配することである!」と、きっぱり命じられました。しかもこの「暗闇」とは、「エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じる程にしなさい。」(21節)と記されている如くに、人間の知覚能力レベルにおいて、明確に認識(反応)できる、いわゆる「生きた存在(勢力)」を意味するものです。


 ところで、私たちは「空気」を、如何なる感覚で認識しているのでしょうか?つまり「空気」という存在は、どのような時に感知しているのでしょうか?それは例えば「水泳」をしたり、標高の高い山々に向けて、少しずつ登山した時などに、特にその「存在」の大きさに気付きます。その「空気」を感じる時と同様の感覚で、「暗闇」の存在に対して、モーセは命じることになる訳です。


 「暗闇」とは、如何なるものでしょうか?例えば濃い霧や猛吹雪の中、真夜中に車を運転した経験のある方は、ご存知のことでしょうが、それは暗闇に対して、一種の「恐怖」を覚えるものです。何故なら、いくら車のヘッドライトを点灯していても、「吹雪」や「濃霧」という存在のために、「先(見通し)」が判断できずに、アクセルペダルを強く踏めなくなるからです。まさしく今回の「暗闇」の勢力とは、普通の夜間の「闇」とは違って、「先(周辺)」を完全に覆い尽くす程、迫り来る「濃霧」の状態と同様の現象を伴って、エジプト全土を三日間覆い尽くします。そしてこの時は、いくら「灯火」をともしても、互いの「顔」を見ることが出来ない程の「闇の色彩(dark color)」に覆われました。つまり「暗黒の力」が、エジプトの民全員の「人格」から「命」を、「闇の色彩」で塗り尽くし、個々の「存在」を全く認識出来ない「力(勢い)」をもって、覆い尽くしたことが伺えます。


「暗闇(死)」を滅ぼす(破壊する)
 今日の「世界(地球)」も、この時程のスピード感ではありませんが、霊的には少しずつ「暗黒の霧」が立ち込める状況にあります。ところが私たちキリスト者は、モーセに導かれたイスラエルの民同様に、迫り来る「暗闇」に対する「恐怖」と「不安感」ではなく、逆に「その時」がまさしく近い!と、揺るぎ無き「希望」と「期待感」をもって、日々を過ごすことが出来ます。


 即ち「その時」とは、神の「ご計画」を通して為される、御子による「救いの時」と「贖いの時」、そして最終的な「完成の時」のことです。それは「真の光」なる方イエス・キリストが、「この地」に再臨される時、今まで多い尽くしていた「暗闇」の勢力が、たちどころに破壊されるという、「栄光」の訪れの時です。


 天地創造の際に父なる神は、「真の光よ、暗闇の中に今すぐ出て来なさい!」と命じられた、その素晴らしい御業は、まさしく新しい「天地」を完成する「再臨の時」に、私たちにもモーセの如くに、「暗闇の勢力」に対して、力強く宣言することの出来る「天の力」として、実は私たちの「信仰の唇」にも、聖霊を通して付与されているのです。あなたは、このことを信じますか?「暗闇の勢力」が激しく働く等、私たちが如何なる悪しき状況下にあっても、「主イエスよ、今この場に来て下さい!あなたが来て下されば、必ず贖われる民が興されますから。」と宣言する時に、イエス・キリストによる「復活の福音」が、あらゆる「暗闇」を一掃し、神の「栄光」が訪れるのです。


 私たちの「手」は、何のためにあるのでしょうか?この時のモーセの「手」の如くに、信仰によって「祈りの手」を挙げる時、私たちの「唇」に神の「命の言葉」が降り注がれ、力強い「復活の福音」が、次々とほとばしり出るのです。だからと言って私たちは、「暗闇」に対して闘いを挑むなど、人間的な「言葉」を吐く必要はありません。即ち「真の光イエス・キリストよ、今来て下さい!」と、イエス・キリストの「御名」を、信仰をもって呼び求めるだけで良いのです。


 ですから私たちには、「真の光」を呼び求める「信仰の言葉」が、聖霊の「賜物」として、必ず付与されることを覚えましょう!私たちは如何なる時代にあっても、如何なる「暗闇」が迫り来たとしても、信仰をもって「祈りの手」を挙げる時に、「正しき道」を照らし、全ての「暗闇」に支配された民を、再び取り戻すことの出来る、「真の光」を呼び求める復活の宣言が、次々とほとばしり出ることを信じ待ち望みましょう。


「不滅の命」を現す


主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう。主は私の命の砦。私は誰の前におののくことがあろう。
                                                                                                                     【詩篇27篇1節】


 この「詩」は作者(ダビデ)が、迫り来る「暗闇(敵)」を前にして、信仰の宣言を発したものです。彼は主なる神が、常に自分を「正しき道」に導く、「真の光」として働かれる限り、自分がたとえ「暗闇」の中にあっても、「主よ、来て下さい!私の救いをもたらす、あなたが来て下さる時、私は如何なる者をも恐れません。私の命が仮に尽きたとしても、あなたを仰ぎ見るその時に、完全に贖われますから。」と大胆に信仰の宣言を、語る(歌う)ことが出来たのです。


 イスラエルの民はエジプトの地にあっても、三日間に渡る「暗闇」の覆いから、完全に逃れることが出来ました。その理由は、イスラエル民は如何なる状況下にあっても、「真の光」をもたらす主の臨在のみを求めて、過越しの「子羊」の血潮を捧げ尽くしたからです。その結果彼らの信仰に、「上」よりの力を注いだ主なる神の「真の光」が、大いなる力となって出現し、玄関を一歩出たらエジプトの民同様の、「暗闇」が存在しているにも関わらず、互いの顔を見ることの出来る程の、主なる神の栄光の「訪れ」が、イスラエルの全家にもたらされたのです。


 即ち彼らの「家」の中には、「真の命」が存在しているのです。ダビデが詩篇27篇の中で表現する「命あるものの地で」(13節)とは、直訳すると「真の命」が、自分の手で触れる程のものの如くに、身近に存在している!という意味です。それは「まさに、そこにあるもの。昼間には、いつも光が存在している如くに、命の源が常に存在する」ことです。


 私たちの信じる「至聖所」の栄光とは、例えばシャンデリアが放つ、麗しいイルミネーションの如きものではありません。それは、信じる私たちの「霊」の内側から、常に「真の命」として身近に存在し、大いなる臨在の「光」として、既に輝き放たれているものです。それ故私たちは、「唇」で大胆に告白(宣言)するのです。「主イエス・キリストよ、早く来て下さい!この暗闇の世界を、完全に破壊する真の光として、また暗闇に生きる多くの民を贖う救いの光として、あなたが必要です。」と。


 私たちは、主イエス・キリストの「御名」により期待しましょう!「暗闇」の勢力が迫れば迫る程、それは「真の光」の出現の時が、近い!ということです。これから「世の中」は益々、暗黒の濃霧が立ち込め、暗く冷え切った時代となるでしょう。しかし、私たちキリスト者は「主イエス・キリストが真の救い主として、私たちの真の花婿として間もなく来る!」ことを信じて、「霊」は聖霊によって、更に熱く燃やされましょう!


 主イエス・キリストが「真の光」として、更にあなたの信仰生活に臨み、父なる神との「親しい交わり」が熱く熱く為されること、そして聖霊様が相働きて、「真の光」へと常にあなたを導き、「恵み」から「恵み」へと、あなたが為す全ての「業」が、神の「救い」として完成されることを、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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