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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.18)

               あなたの父母を敬いなさい!




私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。・・・・あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。                                                                    【出エジプト記20章5~6,12節】


 ご存知のように「あなたの父母を敬いなさい!」、この神の「掟」は、「十戒」の五番目の「言葉(文言)」です。今日の日本における、差し迫った危機的状況の一つに、「老人が老人を介護する」という、一昔とは違った「現実」があります。そのような日本に暮らす私たちですが、だからと言って今回の「掟」が、私たちに対して何らかの「アクション(行動)」や、具体的に「介護」などの行為を、自分の「両親」に対して行うように、直接命じている言葉ではありません。



 「十戒」は、イスラエル全家に対して付与されたものですが、それと同時に私たち「キリストの家族」にも、霊的に与えられている神の「ご命令」です。そして、その一つ一つの「ご命令」は、単なる人間的な「道徳律(倫理基準)」を、教え示しているものではありません。私たち「キリストの家族」にとって「父と母を敬うこと」、これは父なる神の第三の「掟」に相当します。ちなみに第一の「掟」は、「子羊(イエス・キリスト)を一匹用意し、その血潮を家族全員に至るまで注ぐ(塗る)こと」、そして第二の「掟」は、「あなたに与えられている初子を、ことごとく神に捧げること」です。


「そうすれば」の意味合い


子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
                                                                                      【エペソ書6章1~4節】


 使徒パウロは、「十戒」の文言を読み解く中で、第五の「戒め」の言葉に着眼しました。ご存知のように、「命令形」の言い回し(言葉)の中には、例えば「勉強しなさい!さもなければ・・・・」の言葉に見受けられるように、ある「命令」を対象者に伝達した時、同時に付け加える「言い回し」の殆どが、「否定形」をベースにした結果論です。それに対して、「~しなさい!そうすれば・・・・」の言い回し、これは「肯定的」な印象(望み)を受けた人々が抱くものです。


 実は、「十戒」の文言に付加された「文言」の中で、「あなたの父母を敬え!」、この五番目の「戒め」だけが、「そうすれば」という肯定的表現になっているのです。パウロは使徒であるのと同時に、本当に優秀な神学者である!、このことを思わされる解釈が、エペソ書6章に記述されています。パウロは「子」と「親」の関係が、如何にしたら神が本来定めておられる「約束」、即ち麗しい神の「家族」の祝福にあずかれるのか?このことを念頭に置きながら、聖霊に導かれエペソ書を記述した訳です。「キリストの家族」にとって、この第三の「掟」は、先ず第一に父なる神の「御思い」は、一体どういうものであるのか?つまり父なる神が、「最初の人(アダム)」を創造した時から、今日に至るまで、私たちと如何なる「関係」を持とうと、一生懸命に「イエス・キリスト(救いの君)」を与えて下さっているのか?この点を私たちが正しく知り、「真の父」との間の関係が、何よりも霊的に修復される必要があること、このために定められています。


 さて、あなたは実の「父親」に対して、「子」として如何なるイメージを抱いていらっしゃいますか?ある人にとってそれは、天皇家の「父君」の如く、いつも柔和で、優しく微笑むお父さん!などの、良きイメージが浮かぶかも知れません。しかし殆どの人にとって、「コラー!(ゴツン)」と怒鳴られるなど、「カミナリオヤジ」のイメージかも知れません。実は、この肉親の「父」のイメージが、父なる神に対しても同様に描くなど、いわゆる霊的な重複イメージが、神と私たちの関係を引き離しているのです。しかし、私たちは「父なる神」に対するイメージを、今回の御言葉によって修復される、つまり霊的に再確認する必要があることを、聖霊様は促しておられます。


 「私は熱情の神である。」(5節)の御言葉にある、「熱情の神」としてのイメージは、具体的に分かり易く表現するならば、「私は、あなたを妬むくらいに(他のものに心が奪われることを、非常に心配するほど)、深く深く愛している!」、或いは「激しく燃えるような、熱き思い(心)をもって、あなたを抱擁し、あなたのことを片時も見捨てること、また見放すことが全く無いほどに愛している!」、そのような神となります。それ故このイメージが、本来私たち「キリストの家族」が描くべき、「父」に対する正しいイメージです。


「否む」と「敬う」の違い
 「私を否む者には、」(5節)の中にある、「否む」というキーワードは、非常に重要なことを私たちに教え示しています。「否む」の反意語、それは「認める」、「その存在を有り難く思う」、「(好意などを)感謝して受け留める」ことです。実は父と母を「敬う」こと、この「敬う」を意味する、霊的語源となる概念が、「否む」ことではなく、父と母の熱情の愛に応える形で、「そうです!父上と母上の愛があるからこそ、この私(子)が存在するのですね!」などと、素直に認めながら「子」として生きることです。


 しかし、次のケースを経験した人々にとって、果して両親を「敬う」ことが出来るのでしょうか?父はいつも大酒飲みで、帰って来たら必ず母を殴る、そればかりか外で遊興三昧の身勝手な生活を送るため、子たちはいつもお腹をすかしていた・・・・。もし、私たちが「この世」の次元で、上記に対する「解決法(敬い方)」を見出そうとしますと、それはサタンを喜ばす、愚かな肉の次元に陥る危険性があります。


 父なる神(父)が、イスラエルの全家(子)に対して、神からの聖なる「十の戒め」を授けた時、彼らの霊的姿勢(態度)は、決して上記のケースとは逆のタイプ、つまり愛に溢れ、必ず食物を買ってきて、共に食事しながら話を聞いてくれるお父さんを、求める子ではありませんでした。どちらかと言えば、「祝福してくれて当たり前だろー!親なんだから・・・・」などと主張する、傲慢極まる子だったのです。彼らは、父なる神がエジプトからイスラエルの全家を、様々な奇跡をもって贖い出して下さったにも関わらず、神の「恵み」を忘れ、自らの手で目に見える「偶像神」を造り、その偶像を礼拝したのです。しかし父なる神は、そのような彼らに対して、決して「怒り」を覚えずに、「父と母を敬いなさい!」と命じられました。


 続けて父なる神は、「そうすれば、子孫が幸福な人生を歩むことが出来、私が用意する約束の土地において、生き長らえることが出来る!」という、霊的な「オマケ」まで用意して下さっているのです。何故「父と母を敬う」ことで、神の祝福にあずかることが可能になるのでしょうか?尊敬出来ない「父と母」であるなら、なおさら「敬う」ことも不可能ですから、神の祝福に至ることが出来ないのでは?・・・・と、逆に前進すら出来ないことになります。しかし、父なる神は私たちに対して、不可能なことを強いる方では、決してありません!「敬う」とは、人間的レベルで「尊敬する」などの、道徳的な行為を指しているのではなく、(その存在を)「否む」のか、それとも神の「恵み」の中で、父と母に対する様々な「思い」の全てを、父なる神に明け渡すこと、これが霊的に「敬う」領域に通じる、分岐点となる正しい「言葉(考え方)」です。


互いに「敬う」こと
 主イエス・キリストが、私たちの「贖いの子羊」として、その貴い「血潮」を私たちに託し、私たちが信仰をもってその「血潮」を、神に指し示す時に、父なる神の「救い」が、私たちの人生に成就するのです。ならば、仮に尊敬できない「父と母」であっても、その存在(有様)の「全て」を、神の「恵み」の中に認め(明け渡し)ましょう!つまり、如何なる「親」であっても、その存在は神の「恵み」によって生かされ、「父と母」の存在があって初めて、「あなた」も存在している!という「事実」を、父なる神に感謝しようではありませんか!そうすれば、父なる神の「救い」は、「あなた(初穂)」ばかりでなく、「親」の代にまでさかのぼって完成されるのです。それ故、私たちは信仰を働かせて、「父と母」の祝福を祈り、イエス・キリストの「血潮」を、彼らの「存在」に注ぎましょう!


 父なる神は、いつも「あなた」のことを認め、その存在を喜ばしいものとして、受け留めて下さっています。この父なる神の「熱情の愛」が、「敬う」ことの語源(正しい意味)です。ならば、私たちも「キリストの家族」として、互いに相手のことを「敬う」、つまりその存在を認め、神の「恵み」の中で、祝福されることを祈りましょう。繰り返し申し上げますが、「敬う」ことは決して、単なる「行動(行い)」に至ることではありません。父なる神の「御心(願い)」としては、それは「祈り(執り成し)」かも知れません。主イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも「熱情の愛」をもって、私たちのことを愛して下さいます。このことを決して忘れることなく、私たちは「親」として「子」として、或いは「信仰の友」として、互いに「敬う」ことの出来る、「神の子」に造り変えられることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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