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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.16)

                 初子をことごとく捧げなさい!




主はモーセに仰せになった。「全ての初子を聖別して私に捧げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものは全て、人であれ家畜であれ、私のものである。・・・・主があなたと先祖に誓われた通り、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられる時、初めに胎を開くものは全て、主に捧げなければならない。・・・・あなたの初子の内、男の子の場合は全て、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねる時は、こう答えなさい。『主は力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それ故私は、初めに胎を開く雄を全て主に犠牲として捧げ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」
                                                                                    【出エジプト記13章1〜2,11〜16節】


サタンの「働きかけ」とは?
 主なる神がイスラエルの全家に対して、命じられた第一の命令は、「子羊を一匹取り、その血潮を鴨居に塗りなさい!そして、この儀式を代々に渡って子孫に引き継ぎ、意味(意義)をも伝承して行きなさい!」という内容のものでした。そして、その後父なる神は確実に、イスラエルの全家を購われました。しかしエジプトの「君(ファラオ)」と「住民」、そして家畜の全ての「初子」は、決して贖われること無く、ことごとく死に絶えました。このような恐ろしい出来事(災い)の後に、父なる神は改めて第二の「掟」を、イスラエルの全家と、今に生きる私たちキリスト者に対して、重要な「命令」として授けているのです。


 この世の君サタンは、アダム(エバ)の「罪」故に、私たちの「霊」の中に内在する、「血肉」に働きかけてきます。例えば、自分の力で何かを為そうとする思い、自分で全てのことを計画し、それを完成しようとする思いに、サタンは巧妙に誘いかけながら、私たちを「悪しき方向」へと、様々に導いていることをご存知でしょうか? かつてサタンは、全能の神に仕える第一の天使(暁の明星)、つまり天使の中で最高の位にありました。しかしサタンは、ある時から「神と同等の者(立場)になるべく、神と取り引きをしてみようじゃないか!」という、悪しき「思い(欲)」に傾き、実際に神に反逆しました。


 ところで出エジプト記13章には、神の聖なる「救い」を意味する、「贖う」というキーワードが多く記述されています。しかしサタンは、神の「贖う」という行為と、相対立する悪しき行為へと誘う、つまり私たちの「血肉」を大いに駆り立てるべく、私たちに「取り引き」を持ちかけます。例えば、「あなたが、いくら父なる神に求めたところで、一体何が起ころうか!それよりも、もっとあなたが頑張ればよいのでは・・・・?」などと、私たちの「自己」の中に囁きかけます。勿論聖霊様も、私たちの「霊」と「良心」に働きかけて、私たちの「思い」を遥かに優った次元の中で、私たちに必要な「慰め」と「励まし」をもって、私たちに優しく語りかけて下さいます。しかし私たちの思いの中に、「絶望」「不信仰」「悲愴感」などが生じる時には、何となく甘い感じ (耳障りの良い調子)で、語りかけてくる「声」もある訳ですが、それは決して聖霊様ではなく、サタンから来るものです。このようにサタンの「働きかけ」は、全てがサタン自身の利益追求のためにある、言わば「商い」そのものです。


イエス・キリストとサタンの「闘い」
 このサタンの「商い」という、私たちに対する悪しき行為(働きかけ)に対して、父なる神は「唯一の子羊(イエス・キリスト)」をもって、常に私たちに指し示すものがあります。先回学びましたように、主イエス・キリストは如何なる者も、真似することが出来ない方法、つまりご自分の「命」を十字架上に捧げるという、貴い「贖い」の御業をもって、全ての人々を「滅び(悪しき道)」から救いました。主イエス・キリストこそが、私たちの「贖い主」であり、この世がもたらす全ての悪しき「災い」と、サタンの悪しき「商い(取り引き)」から、私たちを贖い出すことの出来る、唯一の「真の神(救い主)」です!


 それ故にサタンは、今も尚イエス・キリストと闘っています。それは神にとって、愛して止まない「あなた」をめぐる闘いです。サタンは、「イエスよ、この者は確かにお前を信じ、贖われたように見える神の民かも知れない。しかし私は、ヨブに試みたのと同様に、チャンスがあればいつでも、私の奴隷とすべく試してみるからな!お前が、いくら血潮を注いだところで、私の商い(取り引き)によって、いつでも自分の物と出来るから・・・・」などと、罵倒しながら挑戦してきます。


 それに対して聖霊様は、「否!サタンよ。この者には唯一真の子羊、イエス・キリストの贖いの血潮が、今も注がれている。それ故お前が、いくらほざいたところで、何も起こりはしない!この者は父なる神の贖いにより、お前が奪うことも、お前のものとすることも出来ないのだ。」と、サタンの前に立ちはだかります。このイエス・キリストvsサタンという、「あなた」をめぐる闘いのイメージの中で、あなたが常に覚えておくべき点は、あなたの「罪」を贖う唯一の方法、それは御子イエス・キリストの、十字架による「贖いの死」だけである!という、「あなた」をめぐる一番重要な「事実」です。


 「贖う」というへブル語のキーワードには、四つの意味があります。それは①身代わりとして立てる、②損害賠償金を支払う、③買い戻す、④救う(救い出す)ことです。①の意味は、私たちの「罪」ばかりでなく、私たちの人生に起きる全ての「問題」を、身代わりとして引き受け、サタンの「奴隷」ではなく、キリストにある「自由人」として仕立てるべく、私たちを既に買い戻したという、「結果」を表す概念です。私たちは本来、「罪」を犯した者であるが故に、サタンの「奴隷」に過ぎない存在です。しかし父なる神にとって、私たちがご自分の「愛」の対象(貴い器)であるが故に、わざわざ御子(イエス・キリスト)を、「贖いの生贄」として十字架上で屠ることによって、サタンから買い戻されたのです。私たちは、この「事実」に対して信仰を働かせ、へり下って受け留めることで、自動的に神の「救い」を授かるのです。


「初子」を捧げること
 神の第二の「掟」である、「初子を捧げること」は、母親にとって一番厳しい言葉(命令)です。何故父なる神は、「初子(長子)」のみを要求するのでしょうか?「初子」を授かった母親にとって、「初子」を育て上げることは、非常に未知の領域の体験であり、並大抵の「苦労」ではありません。母親にとって、それは「生きるか死ぬか!」と思われる程、大変な「労力」を要するものであり、初めての子育てになる訳です。


 「愛」と「苦労」という、手塩にかけた「我が子(初子)」を、「何故主は、わざわざ要求されるのですか?」などと、疑問が生じるのも無理はありません。「捧げなさい!」という言葉(命令)の持つイメージは、非常に厳しいものとして私たちは捉えます。それが、自分にとって一番大事な「宝」、つまり自分の大切なものという意識が、強く働いているからです。しかし聖霊様は、私たちに「捧げなさい!」と命じられる際に、実は捧げる理由があることを示されます。つまり第一の「掟」同様に、この第二の「掟」に関しても、その正しい「理由(意味付け)」を、子孫(私たち)に伝承することが、付帯的項目として定められているのです。


 仮に、私たちがある人に対して、一番大事にしている「宝」を譲る場合、その「価値」に見合う金額として、「代金」をその人から受け取るのであれば、これは「商い(取り引き)」として成立するので、十分に納得して譲り渡すことが出来ます。しかしその「宝」を、無代価で譲り渡すことは、到底出来ないことでしょう。「罪」を犯す以前の、「本来の人」が抱いていた「思い」というものは、「私は主のものである!私が生きているのも、全て父なる神の命の息が、私の中に息づいているからである。それ故に私たちは、生かされているこの喜びの全てを、主に捧げよう!」という、自然な意識でした。ところが「罪」を犯した時点から、「私は私である!」という自意識が強く芽生えてきました。この「私」という意識が生じたことにより、「私が自分で為したこと、作ったものの全ては、私のものである!」という、「所有意識(欲)」も同時に生じたのです。


 この「自分(私)」という思い(意識)が、私たちの「霊」の中で強く働きますと、神の「贖い」の御業が中々現れ出ません。何故なら、私たちは自分の中にある「罪」故に、「贖い」よりも「商い」をもって、様々に取り引きするからです。つまり私たちは、「捧げる」ことに見合う、私たちの側からの「要求」を、神に申し立てる存在です。「捧げるというであれば、更に神の祝福を与えて下さい!」などと。サタンは私たちが、この種の「要求(取り引き)」を、神に対して申し上げることを、盛んに勧めてきます。しかし聖霊様は、「取り引きではない!贖いの御業は、父なる神がいつもあなたに対して為される、一方的な恵み(恩寵)ですよ。本来あなたは、罪ある滅び行くべき存在でした。しかし父なる神にとって、あなたをご自分の貴い器として、子羊の死(贖いの生贄)をもって、サタンから直々に買い戻されたのです。これにより、あなたは永久に神のもの、つまり神の子(共同相続人)の資格が授けられているのです!」と、私たちにイエス・キリストの「贖い」を示されます。


 このように、「初子を捧げなさい!」と命じられた時、私たちの「霊」の中で、「私(私のもの)」という自意識が強く働き始めます。エジプトから贖い導き出された父なる神は、子羊の「死」という「贖い」の御業を示されることで、エジプト全土にもたらした、「初子」の死という最後の「災い」を、イスラエルの全家に対しては、決して及ぼされませんでした。この大いなる神の「贖い」の事実により、実は私たち「キリストの家族」にも、第二の「掟」を与えることで、イエス・キリストを調子とする、神の子(神のもの)の生き方を教え示しているのです。その「理由」は、私たちの「子供」から、普段に為している「仕事」や「家事」、そして今後の人生において為すであろう、自分の「手の業」と「計画」など、それら全ては神の「ご計画」に属することを、私たちが正しく理解するためです。つまり「全て」は神の御手(主権)にあるのであって、決して「私のものである!」などの、三次元レベルに属するものではありません。


 私たちは頭の髪の毛「一本」も、増やすことが出来ません。私たちの「呼吸リズム」から、血液の「脈拍数」など、生体バランスの全てを管理する(守り導く)方は、主なる神お一人です。それ故に、「私のもの」と言い切れるものは、何一つありません。「子供」は特にそうですが、「天」から授けられなければ、決して与えられるものではありません。その「与えられたもの」をもって、神の御前に出ること、これが「初子をことごとく捧げる」ことです。「初子」とは神から最初に戴くもの、つまり「初もの」です。私たちが、「自分のもの」と言い張って、神の御前に出ることを躊躇するのではなく、「初子は神からの授かりものです。それ故に神のものとして、再びあなたにお委ねします!」と、「私のもの」という意識も、聖なる子羊が置かれた祭壇上に、素直に捧げ尽くす時に初めて、イエス・キリストの「贖い」の御業が働き始め、あなたの「救い」が現れ出るのです!


 「信仰」も、「天」から授けられる神の「賜物」であって、決して「あなたのもの」ではありません。「贖いの子羊」、主イエス・キリストの「信仰」が、あなたに豊かに注がれているのです。それ故あなたは、イエス・キリストの「御腕」に抱かれている、神の「貴い羊」という信仰イメージをもって、ただ御前に明け渡しながら進み行くのです!イエス・キリストの「贖い」の御業は、あなたが「全て」をことこどく明け渡す、つまりあなたの中にある「自分」という意識、「私のもの」と言い張る自意識、それら全ての霊的な「初子」を、イエス・キリストの「十字架」による、「贖いの死」と共に「捧げ尽くす」時から、あなたの人生に働き始めるのです。


 イスラエルの全家に及ぼされた神の「祝福」は、私たち「キリストの家族」にも必ず訪れます!そのためには、贖い主イエス・キリストに、「信仰」を働かせるのです。主イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがありません!あなたの「過去」と「現在」、そして「将来」に渡ってあなたを贖い出すべく、神の「救い」の完成の時が、先に用意されていることを信じて下さい!あなたが「自分」で事を為す時、それは必ず「失敗(徒労)」に終わります。それよりも「自分」の全てを、ことこどく神に明け渡しましょう!そうすれば、あなたは霊的に身軽になって、主イエス・キリストの「ご計画」の中で贖われて行きます!あなたが、神の「救い」と「ご計画」にあずかり、本来あなたに用意されている、約束の人生が現れ出る(完成される)ことを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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