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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.12)

              苦しみの後に、天の雨が降る



ヨセフの兄弟たちがやって来たという知らせがファラオの宮廷に伝わると、ファラオも家来たちも喜んだ。ファラオはヨセフに言った。「・・・・父上と家族をここに連れて来なさい。私は、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。・・・・」・・・・兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブの元へ帰ると、直ちに報告した。「ヨセフが未だ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。
                                                                                                        【創世記45章15〜28節】


一個人でなく「全家」に及ぶ神の祝福
 今回のストーリーの主役は、ヨセフでもその兄弟たちでもなく、一人の年老いた父ヤコブです。彼はカナンの地に一人だけ、家族の「長」として取り残されました。カナンの地は、未だ「飢饉」の只中にありました。恐らく、彼は一人取り残される中で、自分の人生を振り返りながら、過去において(現在もそうですが)起こった、様々な「不幸」や「苦しみ」を分析してみると、それら全ての災いが、ヨセフの「死」をきっかけに始まっているものと、悲嘆に暮れながら思ったことでしょう。そして最愛の息子(ベニヤミン)が、エジプトに「人質」として差し出された今の時は、まさに最大の「苦難」の時でもありました。このようにヨセフの「死」が、全ての「苦しみ」を引き起こした!と、錯覚していた父ヤコブの元に、今回の第二の「知らせ」が届いたのです。その「知らせ」は、息子たちの代理人(使者)からではなく、息子たちの「帰還」という形で知らされたものでした。


 ところで、私たちは「この世」という、霊的なエジプトに暮らしている訳ですが、当然「この世」の中において、様々な「苦しみ」と「災い」を経験することがあります。しかしそれと同時に、逆に「祝福」の恵みにあずかる場合も、多々あることを知って下さい!つまり父なる神が、私たちを「この世」に置く(遣わす)場合、一つの「目的」をもって導いて下さいます。その「目的(ご計画)」とは、たとえ私たちが「この世」にあっても、御子イエス・キリストを長子とする、「キリストの家族」の中に、全てのキリスト者が霊的に融合される時に、私たちの三次元的「考え」では、予想し得ない程の霊的「祝福」をもって、私たちを「救い」の源とすることです。ですから「エジプト」においても、父なる神はヤコブの全家を贖うべく、あえて「ヨセフ」をエジプトに遣わし(導き)、先に「苦しみ」の道を踏ませることで、後々に「祝福」を用意されたのです。


 ヨセフの「人生」にだけスポットライトを当てて、このストーリーを読み進めて行きますと、それは「ヨセフ」という、一個人における聖霊様の「霊的取扱い」と、「祝福」の法則しか浮かび上がりません。しかし聖書は、明確に神が為された「事実」を物語っています。その「事実」とは、神がヨセフの中にある肉の「計画」を破棄し、エジプトにおいて自分だけが得ていた「祝福」を、逆に聖霊の「導き」を通して、他の兄弟と和解する(赦し合う)という、予想もし得ない神の「方法(ご計画)」の中で、ご自身の大いなる「祝福」を、ヤコブの「全家」に及ぼしたことです。


エジプト王の「祝福」
 エジプト王パロは、自分の忠実な臣下ヨセフの一族に起こった、これら一連の「奇跡」の出来事を聞かされた時、普通の「王」であるならば、ヨセフの過去における不幸な「身上話」に同情し、逆に「ヤコブ家」を追放処分にする等の、厳しい裁定を下してもよかった所でしょうが、この時のパロは、ヨセフに働くヘブル民族の神が、まさしく真の神であり、全ての出来事の流れは、たとえ過去において「苦しみ」と、「悲しみ」の連続であったとしても、その真の神がエジプトを、飢饉から救い導き出しているように、ヨセフの父(ヤコブ)の一族をも、真の神が今まさに贖い出した、つまり預言の成就の証しである!と悟り、麗しい家族の融合を見せられる中で、共に喜び祝ったのです。


 続いてパロは、「このことを為した神は、まさしくあなたと共におられる、唯一真の神(ヤーウェ)である。私はあなたばかりでなく、あなたの血を分けた兄弟と、父君の全家を祝福したい!私も所有することの無かった、エジプトにおける最大のもの、最上の土地を与えよう。それ故ヨセフのお兄さん方、あなた方が今持っている、そのみすぼらしい家財道具と、家畜のすべてを処分しなさい!」と命じました。エジプトの「王」の命令に逆らうことは、即「死刑」であると知っていたヨセフは、兄たちに王の「命令」に直ちに従い、王の「祝福」にあずかるよう勧めました。その結果、彼らはエジプトから出発した時に、莫大な「財」を積んで、カナンに帰還することになったのです。


 パロの「祝福」は、霊的な側面から言えば、確かに「この世」から得る「富」の一つです。しかしそれは、聖霊様がエジプト王の心を動かし、「最上のもの(天の雨)」をもって、イスラエルの全家を満ち足らさせる、父なる神の「祝福」でもあるのです。私たちキリストに仕える民と、神に召し出された聖徒の中には、どんな貧しい(飢饉の)最中にあっても、神が不思議な方法をもって、日々の「糧(食糧)」を満たして下さった!という、「奇跡」を体験された方が大勢います。その「方法」は、ある時には同朋(キリスト者)からではなく、未信者(世の人々)の方々からの、「恵み(施し)」を通して為されることもあります。これも、今回のストーリー同様に、「この世」から得る「祝福」の一つです。しかし、このことを為さった方は、「全て」を働かせて益として下さる、神ご自身なのです!


私たちの「長子」となられる方


神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たち知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
                                                                                                      【ローマ書8章28〜30節】


 父なる神は何故、私たちの為に「全て」を相働かせて益として下さる、つまり私たちが「苦しみ」によって取扱われた後、必ず「天の雨」を降り注いで下さるのでしょうか?父ヤコブにとって、本来「家督」を相続すべき者とは、常識的に判断しても、長子の「ユダ」でありました。ところがヤコブにとって、一番「父親」として愛した人物は、「ヨセフ」でした。勿論、ヨセフに「家督」を与えることは、彼の考えには一切ありませんでした。そして、ヤコブは前述したように、その最愛の息子(ヤコブ)が死んだ!と聞かされた時以来、「全てが終わった。アブラハムとイサクから続く神の祝福は、もはや途絶えた!」ものと錯覚していました。ところが、息子たちが帰還した時に、今まで「不幸」と思っていた、彼の「思い(失望)」の全てが引っくり返されたのです。「何と、あの争いが耐えなかった私の息子たちが、共に親しく交わり、喜びと希望に満ちた、光輝く顔付きをしているではないか!」と。


 続いて、息子たちから聞かされた「知らせ」は、更にヤコブの「不信仰」を吹き飛ばしました。「お父さん!聞いて下さい。ベニヤミンは大丈夫です。それよりも、もっと驚くべき事実は、あなたが一番に愛していた、あの息子ヨセフが、今エジプトの行政長官として、生きているんですよ!」ヤコブは「その時」、とても信じられなかったのですが、暫くして悟りました。一度死んだものと思っていたヨセフを通して、父なる神の「ご計画」が、大いなる霊的次元の中で、今まさに完成されつつあることを。「前もって知っておられた者たち」(29節)を選び召し出して、霊的な長子として神が油を注ぎ、霊的な取扱いの中で練り聖めた者とは、少年の頃「夢(啓示)」を披露したその内容の如くに、ヨセフ(本人)であったことを、ヤコブは明確に悟ったのです。


 私たちは時折、「荒波(苦しみ)」や吹きまくる「強風(試練)」だけを見たり、また揺れ動く舟が、いつか沈みかけるのでは?と錯覚して、不信仰の海に溺れてしまいます。この時私たちは、父なる神が尚も「御手」をもって、私たちの「全て」を掴んでいて下さり、ご自身の働きの中で「益」として下さることに、全く気付いていません。むしろ「あー今の時は、神が(自分のことを)忘れているから、こうなったのだ(こんなに苦しむんだ)・・・・」などと、神の取扱いに疑問視します。しかし、父なる神が私たちのことを、「苦しみ」や「試練」の中で取扱われる、その最大の理由は「御子(イエス・キリスト)に似せる者にするため」です!つまり私たちが、御子を「長子」とする、神の「家族」の特権にあずかるためには、御子の「祝福」の中に身を委ね、御子の似姿に変えられていくという、「聖め」の御業も必要になります。


 私たちは「この世」にある限り、当然「この世」の流れの中で汚れることもあり、「この世」の法則の影響を受けることで、つい神の「ご計画」を見失う時があります。しかし神の「ご計画」は、私たちに「最上のもの」を常に与えるべく、御子イエス・キリストを、私たちの霊的「長子」とすることで完成されるのです!私たちが「長子」となるのではなく、イエス・キリストが十字架上で、「贖い」の子羊として捧げられたことにより、私たち「キリストの家族」の、永遠に変わらざる「長子(御国の皇太子)」となられたのです。


 ですから私たちは、「この世」にある富の全てを捨てて(執着しないで)、父なる神が用意して下さる、「天の富(雨)」に期待しようではありませんか!「苦しみ」の後に、必ず「天の雨」が降ることを信じて行きましょう!愛する私たちの「長子(イエス・キリスト)」は、昨日も今日も、いつまでも変わることなく、私たちのことをねんごろに愛し、私たちの為に今も尚、「最上のもの」を用意し、聖霊を通して神の「益」にあずからせるべく、私たちを直々に取扱って下さることを信じて下さい!主イエス・キリストの、豊かな「救い」のご計画が、聖霊を通して推し進められ、私たちの中に完成されることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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