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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.38)

         日本人よ、あなたは何処に行くのか?
 



ハレルヤ。私たちの神を誉め歌うのは、如何に喜ばしく、神への賛美は如何に美しく快いことか。主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めて下さる。打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んで下さる。
                                                                                 【詩篇147篇1~3節】
 
「失楽園」後のアダム(エバ)の使命
 聖書の御言葉の中には、壊れていた「エルサレム」を再建し、追いやられていた(散らされていた)人々を回復(集めて)して下さり、捕われていた人々には放免を!傷ついた人々には癒しを与える!など、素晴らしい表現が数多く記されています。このような神の「命の言葉」を信じることは、私たちにとって如何に大きな「恵み」であり、明確な生きる「目標(道筋)」を、その都度神が示して下さること自体が奇跡です!
 
 主なる神が「人」という唯一の存在、即ちご自分の「真の愛」を示すべく、直接御手をもって形造り、命の息をもって創造せしめた霊的被造物を、たとえ罪を犯した「欠陥物」であっても、何度も何度も作り直す「陶器師」の如くに、全人格的回復の道を示し祝福を与えること、これは私たちには理解できない「恩寵」です!
 
 そのような父なる神の、大いなる「創造の歴史」の中にあって、私たち「日本人」は何処から来て、何処に向かって生きているのでしょうか?人類の祖であるアダム(エバ)は、ご存知のように「罪」を犯した結果、エデンの園から追いやられ、彼らの子孫は世界各地に拡がりました。その中で日本人のルーツが、いつ頃発生し現在に至っているのか、諸説があり定かではありませんが、今に生きる私たち日本人にとって最大の懸案は、「果たして我々は、何処に向かうのやら?」などの不安(恐れ)が、常に増している時代に生きていることは確かです。
 
 今回考えてほしいことは、失楽園後のアダム(エバ)は、一体「何」を考え、どう生きて行ったか?という点です。覚えて戴きたい事実、それは主なる神は決して彼らに赦しを与えなかった訳ではなく、逆に彼らが自分の霊的失敗(罪)を忘れないように、そしてご自分が「罪の贖い(永遠の和解)」をも、同時に与えていることを示すべく、一匹の子羊の「死(生贄)」を通して、わざわざ「毛皮の衣」を仕立てて下さり、それを手土産の如くに彼らに着せて下さいました。「私はあなた方を見捨てることも無く、常にあなた方と共に居る。その証拠としてこの衣を与えよう。あなた方は常にこれを着て、私の前に全焼の生贄を捧げなさい。」という約束(契約)の御言葉を添えて。
 
 その結果彼らは、子々孫々に至るまで「我々は決して見捨てられた者ではない。神は常に我らと共にあり!」という教えを大切にし、即ち民族的(ユダヤ人としての)使命をもって生きることになります。彼らの民族的特長の中で、他の民族と際立って違う点は、常に「礼拝」の祭儀を行うこと(祭壇を築き、神に子羊の生贄を捧げること)です。即ち、彼らの生活全般の根幹を為す務め、それが「創造主なる神のみを崇め、神と共に生きる!」ことでした。それ故に、彼らの指導的役割を担う者は、常に祭司職(レビ)から選ばれていました。
 
失われたイスラエル10部族の歴史
 しかしユダヤ人の歴史において、BC1020年に彼らは始めて、他の民族と同様の政治(軍事)的役割を担う、自国の王を神に求めた結果、イスラエル王サウルが即位しました。ところがこの王朝は、僅か100年(サウル~ダビデ~ソロモンの三代)の歴史でした。その後BC928年に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。
 
 北王国はルベン、シメオン、ザブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシュルル、ナフタリ、エフライム、マナセの10部族により成立しますが、BC722年にアッシリアにより滅亡し、その後の10部族の行方(所在)は歴史から姿を消しました。それに対して南王国は、ユダとベニヤミンの2部族により成立しますが、BC586年にバビロン帝国の攻撃により滅亡し、その殆どが捕囚となりました。
 
 これから記すことは、あくまで推測の域ですが、失われたイスラエル10部族の一部が、長い年月を経てアジア大陸を東進し(彼らは日の出づる国こそが、約束の地であるという神の預言を信じて、当時の交易路のシルクロードを経て)、もしかしたら古代の日本に渡来した可能性もあります。
 
 例えばBC231年頃の中国の開封には、チベット系のユダヤ人が居た(居住していた)という碑文があり、あの有名な秦の始皇帝がBC213年に、「漢字」を統一言語とした際に、ユダヤ教文化の影響を受けたと考えられる「漢字」として、例えば「船(八人の乗った舟)」や「禁(二本の木を示す)」等があります。もしかしたら彼らの一部が、当時女祭司(卑弥呼)が統治するヤマト(倭国)に来訪し、そのまま定住した可能性は十分に考えられます。そういう意味で、私たち「日本人」のルーツは何処にあるのか?非常に興味深いものがあります。
 
DNA分析から探る日本人のルーツ
 さて「日本人」のDNAの殆どは、Y染色体DNAのD系統に属すると言われています。そして、このY染色体DNAのD系統は、世界的に見て日本人とチベット人に限られています。しかし、日本の先住民であった「縄文人」と、その後に大陸から渡り住んだ「渡来人(弥生人)」の大部分には、このD系統が全くないそうです。ではいつ、何処から、Y染色体DNAのD系統を持つ、謎の集団が日本に来たのでしょうか?
 
 歴史的可能性として、二つの仮説が考えられます。第一は大陸に居住していた、ある少数民族(例えばエフライム族の末裔)が、縄文・中期~弥生時代に渡来し、天皇一族の「始祖」となったのでは?という仮説。第二は4~5世紀頃に、大陸から渡って来た秦(はた)氏一族という仮説。彼らは高度な産業技術、例えば治水・土木・建築・養蚕・機織り等の技術を、先住民(縄文人)に教え広め、かつ自らも携わることで、経済的影響力を当時の政権の中に、着実に浸透させていったものと思われます。
 
 ちなみに秦氏一族は、チベット系のタングートの子孫であり、元来はマナセ族の末裔として、BC3世紀頃に中国の開封にて居住していた可能性があります。その後新羅時代の朝鮮半島へと流れ着いた彼らは、中国と朝鮮においては、余り優遇されていなかったこともあり、新天地(約束の地)を目指して南下し、日本に渡来したものと思われます。その後彼らは、渡来人の中でも最大の勢力を有する豪族となります。応神天皇の頃は数千~1万人の規模であったものが、欽明天皇の頃には3~4万人の大勢力となり、当時の人口の一割前後を占めるまでに拡大します。
 
 さて、ここから大胆な聖書的推測に入りますが、日本人の中にあるD系統遺伝子は、果たしてイスラエル部族の、「どこ(どの部族)」から流れてきているのでしょうか?実はイスラエル12部族の中で、「マナセ」と「エフライム」の二部族だけが、このD系統遺伝子を持つと言われます。残りの部族は殆どがセム系に当たり、F・G・H・I・J系統で一部E系統(ハム)を持っています。ちなみに現在の「日本人」には、C・D・Oの3系統しかありません。
 
 では「いつ?」、セム系のイスラエル部族の中に、D系統の「マナセ」と「エフライム」が発生したのでしょうか?本来マナセ(兄)とエフライム(弟)の父親であるヨセフは、彼の父(ヤコブ)、祖父(イサク)、そして曽祖父(アブラハム)と同系統にあります。その彼の息子たちも、同部族の母親を持っていれば、セム系の遺伝子であったはずです。しかし歴史的事実としては、ヨセフはエジプト人の「アセナト」と結婚し、アセナトこそが二人の息子の母親となります。この二人の国際結婚が、D系統の遺伝子の始まり(起源)ではないでしょうか!
 
民族的使命を持つ日本人キリスト者として
 仮に私たち「日本人」の中に、失われたイスラエル民族と同様の、文化及び人種的ルーツの根源があるのであれば、私たちは今後、何処へ向かうべきなのか?が、とても重要になります。私たち日本人キリスト者は、イエス・キリストを「救い主」として信じる日本民族です。イエス・キリストの「教え(福音)」は、ユダヤの「律法」と違って、とても単純なものです。「父なる神を愛するのと同様に、他の隣人をも愛しなさい!」と。
 
 この命令を純粋に実行したのが、当時「景教」の教えに、非常に影響を受けた聖徳太子の母でした。聖徳太子自身も幼少の頃より、母親の教えを通して、如何なる者をも差別すること無く、平等に接するよう育てられました。彼は「太子(皇太子)」という身分を越えて、当時蔑まれていた「ハンセン氏病」の患者の元に赴き、様々な治療を施すなどの、日本人初の「社会福祉活動事業」を立て上げます。
 
 彼の第一側近である秦河勝は、「景教」の信者(宗教的リーダー)でした。恐らくこの頃から、他者に対して「思いやり(慈悲の心)」をもって、事細かく配慮し合う生活文化が形成されたものと思われます。イスラエルの民は、本来「創造主」を祭る民として、神と民の「平安」を祈る(とりなす)集団でした。それ故に秦氏は、当時「天皇」の居ます都を京都に遷都した際に、「平安」の京(みやこ)として、「平安京」と命名したのではないでしょうか。
 
 では「秦氏」一族の、歴史的偉業(功績)の数々から、イスラエル的な文化の痕跡を探ってみましょう。先ず秦氏の居留した「太秦(ウズマサ)」という地名の由来は、古代ヘブル語の「イゼ・メセア(イエスそれはメシアなり)」から来ているもとのと思われます。次に、秦氏の最大の建築偉業物である①伊勢神宮の外宮には、アメノミナカヌシ(豊受大神)が祭られています。神道ではこのアメノミナカヌシと、クニノトコタチ、ウカノミタマを合わせて造化三神と言いますが、まさしくキリスト教の「三位一体」の考えが、神道の神々の名前の中に、色濃く反映されているのではないでしょうか。ちなみに伊勢神宮の内宮には、アマテラス(太陽神)が既に祭られていましたので、秦氏はあえて外宮に、見える偶像を崇拝するのではなく、見えざる唯一神(ヤーウェ)を祭る意味で、建立したものと思われます。
 
 次に秦氏が、全国的に建立していった②稲荷神社の「稲荷」の呼び方に、彼らの信仰思想が隠されています。「稲荷」は「イナリ」と呼び、ローマ字では「INARI」となります。キリスト教に詳しい方々は、「INRI」と言う文字をご存知のことでしょう。この文字はインリとも呼びますが、元々は「N」がラテン語の「ナザレウス」から来ていますので、実際には「INaRI(イナリ)」と呼ばれていたものと思われます。その当て字(隠語)が「稲荷」と考えられます。
 
 それ故に秦氏は、「稲荷」イコール「ナザレの主イエス・キリスト」を、唯一真の「救い主」として祭る(礼拝する)べく、全国各地に多くの「イナリ神社(礼拝所)」を、使徒パウロの如くに建立したのではないでしょうか!彼らが最初に建立した稲荷神社は、糸賀神社(和歌山県有田市)で、今でも王子信仰が盛んな地です。
 
 秦氏が建立したものとして、最後に挙げる③八幡神社の総本山の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)には、元々応神天皇が拝んでいた神が祭られていたと言われます。宇佐八幡宮には本殿が三つあり、三つの神が祭られていました。果たして「三つの神」が、何を意味するのか定かではありませんが、この「八幡(はちまん)」という呼び方は、元々「ヤハタ」と呼び、「ヤハ・ハタ(秦氏の神)」に由来します。つまり「ヤハ」とは、「ヤーウェ」のことであり、749年に宇佐八幡宮から初めて、「神輿(みこし)」が上京しますが、ダビデ王により「契約の箱」が、エルサレムに向けて都上りする様の伝承が、当時の平安王朝に何らかの影響を与えたのかも知れません。
 
 以上の歴史的痕跡の数々を踏まえて、主なる神の歴史的御業を、じっくり考えてみて下さい!私たちは「聖書」の教えを、神の「恵み」として今まで受けて来ました。しかしそれは、もしかしたら神の偉大なる「歴史」から見れば、前もって計画されたことであり、たとえ小さな器の如き者であっても、日本の民族的回復の一途を担う者として、「私(あなた)」が召し出されているのではないでしょうか!
 
 そういう意味で民族的使命が、私たち日本人キリスト者にも、まさしく今!問われています。主なる神が私たちを、「この世」から贖い出して、イエス・キリストの民として集められたのと同様に、未々多くの回復されるべき民、また散らされていた民が帰って来る「その時」が、目前に迫っています。日本の真実の歴史は、まだベールに覆われていますが、いつ彼らが帰還しても良いように、私たちは霊的に備える必要があります。
 
 そうです!私たちは、日本国家の「癒し」と「回復」を願い、絶えず日本民族の霊的回復をとりなすなど、祈りという重大な務めがあるのです。また日本民族が、何故霊的な「病い」を患うようにったのか?を正しく知り、歴史的「罪」の数々を心から悔い改め、本来の正しい生き方に立ち返るよう、祈り求めていくことが、今に生きる私たち日本人キリスト者に、切に問われているのではないでしょうか。
 
 私たちは、単なる「一教会」や「一教団」のリバイバルを願うのではなく、「日本民族が、いつかはイスラエル民族と同様に、再臨のイエス・キリストを待ち望む霊的な民(親戚)として、あなた方と同族であったのか!」と共に再会を喜び合う、そんな「神の時」を願い求めるべきです。そして私たちは将来に向けて、主なる神が必ず「回復の時」を、私たち日本民族にもたらして下さることを、信じて祈り進みましょう!
 
 あなたが一人の「日本人」として、更にこの国の霊的回復を信じて、日々霊と真による礼拝(祈り)を捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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