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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.11)

                        「全て」を繕う方



 私たちは、自分の着ているお気に入りのスーツが、例えば破れ傷つけてしまうと、その衣服が高価であればある程、非常にショックを覚えます。何故なら私たち素人の手(技)では、その破損部分を修繕することが不可能であり、仮に自分の下手な技術で、その部分を糸で縫い合わせても、かえって「破れ」が目立って、とても恥ずかしい思いを抱くからです。ところがプロの「仕立て屋」の職人に、その破れたスーツを修繕してもらいますと、破損部分が一体何処であったのか、一見分かりにくい程の、熟練した「技」をもって仕上げます。それを見て私たちは、彼らの「技術」に改めて驚愕する次第です。


 では、私たちの「心」や「霊」の破れ(傷)などは、プロの仕立て屋が為すのと同様に、果たして繕うことが可能でしょうか?勿論、聖霊様がそのような霊的破れなどを、完全に修繕して下さる方であることは、私たちは信仰の歩みの中で体験的に、或いは知識として知っています。ところが現実の私たちは、例えば「過去」における様々なトラウマに関して、全く苦しまなくても良い程に、新しく創り変えられているとは言えません。私たちは時折、「過去」を思い出す存在です。そして例えば、「あー!過去の心の古傷が破れ、再び苦しみ(出血)が始まったのでは?」などの思い(不安)が、ふと寄切る時があります。


「苦しみ(心の破損)」からの取扱い


イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりも可愛がり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。・・・・・・・・ヨセフはまた言った。「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここにお遣わしになったのは、あなたたちではなく、神です。」
                                                                                             【創世記37章3節, 45章4〜8節】


 私たちは、自分の「人生」における良き経験、そして自分の「歩み」と「成長」に関ってくる、全ての物事の「進展」及び「祝福」などは、あたかもそれを自分が望んだもの、つまり自分で計画(思考)し、努力(習得)して収得した結果、自分のものになったかのように錯覚します。しかし例えば、自分が望んでいないような「不幸」に遭遇し、「心」がえぐられる程の「苦しみ」を体験した時には、逆にそれを「他者」や「環境」、そして「運命」などのせいにします。これが私たちの、常なる愚かな有様(現実の姿)です。それに対して聖霊様は、いつも私たちの「同伴者(助け主)」として、私たちの「全て」を取扱いながら、励ましを与えて下さっています。私たちは「キリストの家族」として、素晴らしい御国の「祝福」にあずかるべく、預言的な務めを為す過程で、最終的には一人一人の「器」を通して、神の偉大なる「ご計画」が進められることは、間違い無き「事実」なのですが、私たちの「人生」における、「今(途中段階)」を見る限り、様々な「試練」や「苦しみ」に悪戦苦闘しています。


 ヨセフの「歩み(人生)」は、私たち「キリストの家族」にとって、そのような「試練」や「苦しみ」に対する、聖霊様の常なる取扱い(導き)という、霊的雛型を示しています。ご存知のように、ヨセフの「人生」の殆どは、様々な「苦難」の連続でした。彼は父ヤコブから、一番に愛されていることを、兄たちの前で自慢するという、愚かな失敗を自分で為していますが、ヤコブから「晴れ着」を与えられることは、自分が望んでいたことではありませんでした。しかし彼は、兄たちからその「晴れ着」を奪わればかりでなく、裸にされ「奴隷」としてエジプトに売られます。つまり彼の「人生」は、最も居心地の良いポジションから、一番最下層の身分に落とされたのです。


 そして、奴隷になった彼の「人生」は、その後何年経っても報われることは無く、逆に裏切られる日々を獄中の中で過ごします。しかし、「神の時」至りて彼は、エジプトの王パロの前に立つことになり、パロの「悪夢」を預言的に説き明かし、聖霊の大いなる取扱いの結果、最下層にあったヨセフは遂に、パロの代理的行政官(総理大臣)という、最高の「位」に就任することになりました。そしてヨセフは、自分に与えられている、最高の「祝福」の権威(力)をもって、「飢饉」に苦しむヤコブ家の人々を、エジプトに召喚したのです。それは果たして、兄たちの「裏切り」行為に対する、肉なる「復讐心」から産み出されたものでしょうか?


 この時点のヨセフは、確かに父なる神との関係においては、霊的に修繕されていました。ところが、自分のかつての「家族」に対する、人間関係においては、何一つ改善されていませんでした。本来、「家族」というものは心を赦し合い、互いに傷を繕い合うなど、暖かく抱擁し合うことの出来る、最良のフィールドです。ですから、ヨセフにとって自分の「家族」とは、かつての「ヤコブ家」ではなく、妻と二人の息子だけでした。「復讐」の時が、いよいよ目前に迫る中で、彼には選択権が与えられました。「よし!ここで私は、今までの借りを返してもらおうではないか!」と。そして彼は、「ヤコブ家」にとって一番の弱点、つまり父ヤコブと兄たちにとって最愛の家族メンバー、ベニヤミン(実はヨセフにとっても、一番再会したい弟)を、「人質」としてエジプトに差し出すよう「勅令」を下したのです。


 この時に、ヨセフが如何なる心境にあったのか、聖書には何も記述されていませんが、実はこの出来事も、聖霊様のヨセフに対する取扱いの一つでした。ヨセフが最終的に、如何なる状況(地位)にあっても、神の「代理」として「全て」を繕う方、即ち助け主(聖霊)がおられることを、ヨセフに見せる(知らしめる)べく、ヨセフの「思い」の中に次々と、神の「ご計画(御心)」を注いだのです。覚えて戴きたいことは、聖霊様の「願い」は、常に破壊ではなく、また破り裂けた状態でもなく、キリスト者の「全て」を、イエス・キリストという霊的長子の元に、「キリストの家族」として一致し、仕え合う(融合する)ように仕立てることです。


「全て」を繕う偉大なるご計画
 ヨセフは、いよいよ自分の「復讐劇」の終幕が、遂に目前に映し出された時、「さーて、最後の手段はどうしようか?」などと、霊的に葛藤し始めます。自分の手には、行政官としてばかりでなく、司法長官(裁きの長)としての「権威」もあり、一気に事を片付けて、今まで恨んでいた兄たちに、刑罰を科すことも可能でした。ところが聖霊様は、彼の「最終決断」を破壊する、予想もし得ない出来事を起こしました。それは、あの憎たらしい兄たち全員が、自分の「命」と引き換えにまでして、末弟(ベニヤミン)を父に返すよう、乞い願いとりなしたのです。


 するとその瞬間、聖霊様かヨセフの「霊」の中に、ある「思い」を注ぎ込みました。「あなたがこの場に立ち、この国の長として権威を得たことは、全て今のこの時のためである!」と。つまり、「全て」が神の「ご計画」の中にあって、初めて「融合(一つ)」とされる!ことを、ヨセフはこの時悟ったのです。今まで自分の「人生」に関して、「どうして?」と思っていたことが、「全て」明らかにされた時、「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」(7節)と、隠していた自分の身分を明かしながら、告白することが出来ました。


 このヨセフの告白を、更に詳しく表現するならば、「全てのことを働かせ、このような事件へと至らしめた原因は、この私ではなく、お兄さん方でもなく、全て神が為したことから発しています。何故なら、このことは全て、家族の救いという、神の大いなる愛の中にあって初めて、私たちは今、こうして再会できました。だからお兄さん方、私はあなた方を責める権利も、仕返し(復讐)をする資格もありません!今、このことを為された、神の権威の下に立ち返り、私はヤコブ家に対する過去の恨み、そして憎しみの全てを、神の御心に従って赦します。私ではなく、神が私をお遣わしになった、その驚くべき御業に従いますので、お兄さん方!私の元に(再び)近寄って下さい。」となります。


 私たちは、かつて自分の「心」をえぐらるれ程に、破り裂けるなどの傷を与えた「人」の元には、中々近付くことが出来ません。どちらかと言えば、その人を避けたり(逃げたり)します。しかし聖霊様は、ヨセフに取扱われたのと、同じ霊的プロセスを通して、あなたを取扱われることを知って下さい!何故なら、「あなた」を通して神が用意しておられる、「家族」の救いという、偉大な「ご計画」があるからです。ここで使用されている、「救い(resque)」という言葉は、救助する(救い出す)という概念よりも、破り裂けた状況にあり、自分には為し得ないことを、「全て」真新しい状態へと仕立てる(完成する)、つまり「全て」を繕うことを意味しています。


 聖霊様は「全て」の破れを繕い、私たちが「思い」も寄らない方法(導き)をもって、今まで自分が苦しみ被ってきた、様々な「人生」における疑問、つまり霊的「傷」や苦い「経験」などを生かして、ある時に完全なる「解答(救い)」を与えて下さいます!「全て」を繕う方(聖霊)は、今まさに「あなた」の人生にも働いて、大いなる取扱いを為されています!主イエス・キリストの豊かな「救い」の御業が、聖霊の働きを通して完全に修繕され、新しい「あなた」の中に現れ出ることを、父なる神の「愛」の御名の故に、祝福してお祈りします。アーメン!


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