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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.36)

          イエスの打ち傷によって癒される




 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・・彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打たれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。
                                                                                                        【イザヤ書53章3~5節】
 
「痛み」から逃れられない人生
 今回のイザヤ書の記述の中にある、「彼」とは誰のことでしょうか?私たちキリスト者の殆どが、「彼とはイエス・キリストのことです!」と断言できます。そして紀元前に書かれたイザヤ書は、預言書の一つですから、この「預言」が成就したと言えます。それと同時に覚えて戴きたいことは、この「預言」は今も尚継続しており、信じる者にとって「有効である!」という点です。つまり「彼の打たれた打ち傷」は、今も尚「癒し」の力が伴っているのです!
 
 私たちは、母の「胎」から生まれた時から、今日に至るまで、様々な「痛み」や「打ち傷」等の、辛い体験を強いられています。私たちの人生は、如何に「注意」を払って過ごしても、何らかの「痛み」を経験する、即ち「痛み」から逃れることが出来ない人生です。このことを覚えながら、今回の「預言」に秘められた、偉大なる神の奥義について、聖霊様から教えられて参りましょう。
 
キリストの「復活」という事実
 さて歴史上の出来事に関して、「If(もし・・・・だったら)」という一つの命題(問いかけ)を、あなたに投げかけてみたいと思います。それは「もしイエス・キリストが、復活していなかったのなら、今はどんな世界になっているのか?」という命題です。例えば、私たちの住む長浜市の場合でしたら、「長浜」市ではなく「今浜」市と、現在も呼ばれていたかも知れません。また「日赤長浜病院」ではなく、「○○医療財団今浜病院」だったかも知れません。
 
 このように考えて来ますと、イエス・キリストの「復活」という、一つの歴史的事実が無ければ、欧米で為される「イースター(復活祭)」も存在しないし、キリスト教も単なる少数民族の、一宗教に過ぎない可能性があります。と言うことは、今日の中東情勢の最大の難問、イスラム教とユダヤ教の対立も無いことでしょう。それ程にイエス・キリストの「復活」という事実は、歴史の奔流の中で多くの人々に、何らかの影響を与えてきました。
 
全ての「痛み」を担う方
 前述の如く人が経験する「痛み」は、実は生まれた時から始まっています。そして毎日が「痛み」を伴う、そんな人生を過ごしている訳です。「痛み」という感情は、期待(当然ですが・・・・)もしていない、予想もしていない、外部からの一方的な圧力によって、肉体の一部が損傷することで生じるものです。或いは見えない圧力、例えば他者からの「言葉」や「態度」によっても、何らかの精神的損傷を被るなど、これも「痛み」の一つです。
 
 ある面で「痛み」は、私たちの人生のパートナーの如くに、付き従ってくるものですが、これは暫くして癒された時に解放されます。ところが如何せん、長期に渡る「痛み」に関しては、まるで鎖につながれた奴隷の如くに、いずれは発狂する程の状態に追い込まれます。そして物理的「痛み」には、たとえ癒されても、必ず「傷跡」が残ります。それと同様に精神的苦痛にも、精神や記憶領域において、何らかの心の「傷跡」が残ります。それ故それらの「傷跡」は、必ずと言ってよい程、その人が前進していく際に、何らかの「不安」や「恐れ」を引き起こす、つまりトラウマとなって現れ出ます。
 
 では、この見えざる「傷跡」は、如何にしたら癒されるのでしょうか?仮に私たちが被る、人生の「痛み」の全てを、身代わりに受けて下さる方が、実際いらっしゃるとしたら、果して私たちは、如何なる行動(要求)に移るのでしょうか?弟子たちの場合、彼らは復活したイエス・キリストに、全面的に従順した人生、しかも彼らの場合は、自分の「命」を惜しまず、死(殉教)を覚悟で師の生き様を全うする、そんな人生を選択しました。
 
 このように、イエス・キリストが復活されたという「事実」を、純粋に信じた弟子たちは、イエス・キリストが受けた「痛み」を、同じように自分も授かりたい!という、熱情の師弟愛によって、全ての行動が突き動かされています。しかし福音書に描かれている、イエス・キリストの数々の受難(拷問→鞭打ち刑→リンチ→十字架刑等)を、実際に再現したとしたら、如何なる者も耐えられずに、途中で死に果てると言われています。
 
 それらの「痛み」を全て耐え忍び、受難したイエス・キリストは、裁判においても一切弁明すること無く、黙ったまま「屠り場(ゴルゴダの丘)」に向かいました。そして「十字架」に磔(はりつけ)にされて、最後に「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは何をしているのか、分からないからです。・・・・父よ、全てをあなたに委ねます。今、あなたの御心が成就しました!」と祈って、息を引き取れれたのです。
 
 「成就した」とは、別の言葉で「完了(終了)した」という意味です。では何が完了(終了)し、それは如何なる意味を持つのでしょうか?それは全ての「痛み」が、イエス・キリストの十字架の「贖い」、即ち「子羊」の犠牲の血潮の注ぎにより、もはや苦痛を伴うこと無く完全に癒される!ということです。
 
キリストの「打ち傷」によって癒される
 イエス・キリストが受けた「打ち傷」は、あなたの過去の傷から現在に至るまで、全てを完全に癒す力を持っています。それは人間関係上の精神的痛み(心の傷)から、物理的圧力や肉体的傷害等、それら全てをイエス・キリストは、ご自分のものとして先に担って下さったばかりでなく、元の健全な状態へと、完全に治癒して下さいます。そうです!イエス・キリストの「癒し」の力は、ご自分の「命」をもって、捧げ尽くした十字架上での勝利宣言、即ち「既に終了(成就)した!」から始まっているのです!
 
 またイエス・キリストの「復活」の事実は、私たちが依然として傷を負った状態、つまり元のままにはしておきません。もはや傷跡が見えない程にまで、完全なる新生(再創造)の状態へと完成して下さいます。確かに私たちの人生には、様々な「痛み」による精神的疾患が、嫌と言うほど付きまといます。しかしイエス・キリストの「復活」の御業は、それら全てを帳消しにする程の、完全な「癒し」をもって、私たちの人生を解放して下さいます。
 
 そうです!「痛み」の後に、それを乗り越えることが出来た、真の「喜び」が訪れるのです。あなたの「命」を贖うべく、ご自分の「命」を引き換えにして、十字架上で神の「救い」を完成された、御子イエス・キリストの「癒し」の恵みは、今も尚継続して溢れ流れています。それ故、私たちに必要な信仰姿勢は、癒し主イエス・キリストに、人生の全てを委ねる!ということです。
 
 私たちは常に、次のように告白しましょう!「イエス・キリストの御名によって、十字架の救いの御業を感謝します。あなたの復活の御業を信じます。どうぞ私の痛みと苦しみの全てを、あなたにお委ねします!」と。すると告白した瞬間から、「痛み」と「傷」から、完全に解放された人生が、神の約束として始まります。これは「もし・・・・」の人生ではなく、イエス・キリストの打ち傷により、「必ず成就する!」という人生です。
 
 イエス・キリストの「復活」の御業は、過去の出来事ではなく、今まさに信じる「あなた(私)」の信仰告白により、全ての「痛み」を癒す、日々の出来事になります!あなたが、瞬間(毎回)告白するだけで、大いなる神の「奇跡」が次々と現れ出ることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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