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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.8)

             あなたのイサクを捧げなさい!



御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物として捧げた。・・・・・・・・主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」
                                                                                                        【創世記22章12〜18節】


 父なる神を通して、「あなたの息子イサクを捧げなさい。」と命じられた時、アブラハムは当初、父なる神の「御心」が全く理解できませんでした。即ち、彼は「子羊」を祭壇上で屠り、全焼の生贄として捧げることは、常なる行為(行事)として理解していたのですが、今回の神の「ご命令」に関しては、いつものような祭式ではなく、新しい「方法」をもって、初子(イサク)を神の御前に献上する程度の儀式としか、理解していなかったのではないでしょうか!ところが父なる神は、この「命令」の後に「焼き尽くす捧げ物として捧げなさい。」(2節)と、具体的に「詳細」を指示された時、彼は体中が震え上がる程、驚愕し始めたのです。そして心の中で、「神よ、あなたの約束としては、イシュマエルではなく、私の息子イサクを通して、我が一族(血統)を祝福の源とする!と言われたではないですか?」などと、物凄い葛藤の中で苦しみ悶えました。


 しかし、神に対する告白(応答)としては、「主よ、分かりました。あなたは必ず、(このことも)何とかして下さいます。何故なら、私たち夫婦は老いた身であったにも関わらず、あなたはイサクを与えて下さいました。ですから、私は今回のご命令にも、全て聞き従います!」と宣言したのです。モリヤの山に到着すると、「子羊」を用意していない、父の様子を不思議に思った息子(イサク)は、「父さん、どうするつもりですか?」と、盛んに質問を投げかけて来ました。


 イサクは、幼少の頃より父に連れられて、「全焼祭」の全プロセスを見ながら育ち、又ある時から手伝いもするようになっていたからです。しかし、いつもと違って黙ったまま、深く沈み込む父の後ろ姿を見て、イサクは「父さん、主が父さんに命じられているのであれば、どうかこの私を捧げて下さい!私は、父さんの信じている真の主、全能の神に従います。」と言いながら、祭壇上に身を横たえました。アブラハムは思わず、息子の元に駆け寄り「分かった息子よ、すまない!」と、泣きながら答えます。そして、懐に隠していた「手刀」を取り、震える両手をもって、イサクの腹部目がけて、「手刀」を振り降ろそうとした、まさに「その時」・・・・・・・・。


「初子」を捧げること
 このストーリーの中に記されている、アブラハムに命じられた神の「命の言葉」は、私たちが「キリストの家族」の一員として、父なる神の「家族」に迎え入れられ、「この世」においても、父なる神の「ご命令(家訓)」を、忠実に守り行うことにより、大いなる「御国」の財産を受け継ぐことが出来るための、霊的指針を指し示しています。つまり父なる神は、イエス・キリスト(長子)を通して、私たちを豊かに祝福するべく、イエス・キリストの「救い」の事業(プロジェクト)を、私たち一人一人に託することで、「完成の時」を目指して、ご自分の「計画」を進めているのです。その為には、私たちがどう行動してゆくべきか?つまりイエス・キリストの「家訓」の中で、最も重要な指針(方向性)が、今回の「ご命令」なのです。


 神が私たちにも、「初子を捧げなさい!」と命じられる時、それは霊的な意味を含んでいます。私たちにとって、自分の中にある「イサク(初子)」を捧げる時、それは霊的な意味として、一体「何」を捧げるべきでしょうか?母親にとって、一番最初に産んだ「子」という存在は、それは初めての出産を経て、「この世」に産まれ出た赤子ですから、多くの苦労をかけて大事(慎重)に育てた子、つまり「貴い(大事な)存在」なのです。ですから母親にとって(勿論父親にとっても)、「初子」を手放すことは、非常に心苦しいものになる訳です。


 例えば長子(初子)が、親元を離れて巣立っていく時、親にとっての「辛さ」「寂しさ」は、如何ばかりのものでしょう!ましてやアブラハムにとって、「イサク」を神に捧げることは、決して巣立っていく次元のものではなく、最愛の息子を神の御元に返上するという、言わば「死」を意味します。この時、アブラハムは「心」の中で、例えば「これは私に対する、神からの試練である!私が神の約束の言葉に対して、愚かにも判断を間違えて、勝手に妻の意見を聞き入れ、ハガルとの間にイシュマエルを設けた、その報いが、この命令だ!しかし、この子が死んでしまったら、もう終わりだ!」などと複雑な「思い」の中で苦しみ、そして耐え難き「葛藤」の中にもありました。


 すると聖霊様が、彼の「霊」に語りかけました。「否!あなたの心を全て、父なる神に示しなさい!全ての良きものは、必ず天から与えられるのです。」と。「命」にしても、「賜物」や「召し」、「選び」「救い」というものは、自分から産み出す(造る)ことの出来ない、高級な(価値ある)ものです。例えば「命」というものは、何にも代えがたい「大事なもの」です。そして私たちは、あたかもそれらのものを、自分のものと思う(錯覚する)時がある訳です。それ故、私たちは目の前にある、一番「大事なもの」を捧げる(手放す、差し出す)際に、非常に葛藤を覚えるもの、つまり「主よ、これだけは未だ、待ってもらえませんか?」などと言い訳し、つい尻込みする(後退する)など、いわゆる三次元の世界に、私たちは生きているのです。


 しかし、聖霊様はアブラハム同様、私たちに対しても「全ては父なる神が、あなたの命を世に産み出した時から、あなたの全ては父なる神の御手(ご計画)の中にあり、あなたが何処に行くにも帰るにも、また大事なものを手放す時にも、それを取り戻す時にも、それら全てが神のご計画の中で、進められている(許されている)のです!」と励まして下さいます。私たちは、すぐ「取られたら(無くなったら)、どうしよう・・・・?」などの否定的な発想をします。


「信仰の扉」開ける時
 仮にアブラハムが、「肉の力」を行使したとしたら、「イサク」を神に捧げることは、恐らく不可能だったことでしょう。その後、アブラハムの「霊」の中に、聖霊様が「一つの思い」を与えました。「父なる神が、不作のフィールド(老体)である、あなた方夫婦の中に、新たなる命を産み出し、イサクとして成長させて下さったという、父なる神のご計画が始まった、この事実は、そのイサクを神に捧げたからと言って、神のご計画がストップする訳ではありません!仮に父なる神が、イサクを取られたとしても、それは父なる神のご計画の中にあっては、再びそのイサクを、あなた方に付与することは、神の当然の義務(責任ある行為)です!」と。


 「あなたのイサクを、神に捧げなさい!」という命令は、私たち「キリストの家族」に対する、約束を伴った神の「ご命令(家訓)」、つまり「信仰の扉」を開けるか否か?、そのテストとも言えます。この「信仰の扉」を開けて、私たちが神に対して「全てを委ねます!」と告白する時に、神の大いなる「ご計画」が、あなたの人生を豊かに支配し、かつ導いて行くことになります。あなたの中にある「大事なもの」、つまり「これが無くなったら、私の今までの苦労が、全て台無しになるもの」、それを「自分のもの」として、必死に固守するのではなく、神の「ご計画」の中で、聖霊様の「助け」を戴きながら、それを全て「明け渡す(委ねる、捧げ尽くす)」のです!父なる神は、アブラハムが「信仰の扉」を開け、「初子」を捧げ尽くすことを決断し、そして神に表明し実行に移った時に、父なる神は「待て!アブラハムよ。あなたの心は、全て私の前に示された。心配する必要は無い。私が、代わりの捧げもの(雄羊)を用意しよう!」と、彼の「信仰」を大いに喜ばれたのです。


 私たちが、目の前に起きる出来事だけを見て、三次元的に捉えるのではなく、例えば私たちに対する、神の「取扱い」というものは、私たちが耐えられないような、酷な状況に導かれるものではなく、むしろ私たちが更に、イエス・キリストの大事な家族の一員として、神の豊かな祝福にあずかることの出来る、麗しい「御国」の次元の中で進められているのです!それ故私たちは、主イエス・キリストと共に「信仰の扉」を開けて、全てを神に委ねつつ、神の「ご命令」に聞き従って参りましょう。私たちの主イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも、私たちの「家長」として、責任ある働きを為されています。あなたが、主イエス・キリストの「御声」に聞き従う時に、あなたに対する神の「ご計画」の全てが、始まり完成されることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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