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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.33)

                            雨のち晴れ
 
神はノアと彼の息子たちに言われた。「私は、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。・・・・私があなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものが、ことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたち並びにあなたたちと共に居る全ての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。即ち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。・・・・雲の中に虹が現れると、私はそれを見て、神と地上の全ての生き物、全て肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、私と地上の全ての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
                                                                                                            【創世記9章8~17節】
 
二つの「時」のサイクル
 今回の記事に示される神の「恵み」は、私たちが代々に渡って覚えておくべき、主なる神の不変の「しるし」のことです。そして、ノアの「大洪水」から学ぶべきことで、私たちが第一に覚えて戴きたい奥義は、大洪水以前の地球の気象現象は、如何なるものであったのか?という点です。
 
 聖書には、この点に関して何も記述がありません。父なる神の天地創造のプロセスから推測する限り、それは明確に二つに区分されていたのではないでしょうか!おそらく地球上には大きな二つの気候があり、➀雨が降り続く気候、そして逆に②晴れが続く気候という、二つの区分けがあったものと思われます。つまり乾いた地を潤すために、長期間「雨季」が続き、その後に暫く「乾季」が続くという、二つの気象バランスの上に、地球の空気層全体が流動(対流)していたのです。
 
 ですから一年の時のサイクルが、人の住む地域においても、二つのシーズンに分かれているという、「人」にとって分かり易い気候の暦がありました。例えば私たちの「人生」においても、このような分かり易い、二つのシーズンがあるとしたら、ある程度の予測を立てながら、「平安(安息)」の内に生活できるのではないでしょうか!「雨季」はしばらく我慢しても、次に来る「乾季」には、収穫の希望が待っている!と。ところが、私たちの現実の生活はどうでしょうか?殆どの方が「先(将来)」を読むことの出来ない、不安定な混沌とした時のリズムの中で、「不安」と「恐怖」におののきながら生活しています。
 
天の「覆い」が裂ける時
 神の「恵み」を無視して、自己中心的な生き方を貫くなど、「罪」に満ち溢れたこの時代の中にあって、ノアだけが只一人、神の「恵み」を片時も忘れること無く、乾いた大地を行き廻りながらも、常に祭壇上に子羊を捧げるという、正しい生き方を全うしました。それ故に「神の時」が地に満ちた時、神はノアの家族だけを選び召し出し、「大洪水」に備えるべく、「方舟」を造船するように指示し、彼らはそれを純粋に信じて、忠実に遂行したのです。
 
 父なる神が、「天の覆い(天上の秩序)」をオープンした結果、それまで保たれていいた天上の気象バランス(宇宙空間・オゾン層・空気層の三層構造)が崩壊し始めます。すると、オゾン層が破壊されるや否や、宇宙空間の冷気がなだれ込み、ストレートに空気層へと降下した結果、乾季を支配していた高気圧とぶつかり、次々と巨大な低気圧が発生し始めたのです。
 
 このように、この「天の覆い」は、ノアの「大洪水」以前は、常に神の「秩序」の中で、全ての「守り(バランス)」が保たれていました。しかしこの時から、全ての気象バランスが不安定になりました。その結果、今までにない気象現象(巨大な気候変動)が出現し、地球が狂ったかのように、大粒の「雨」が降り始めました。暫くすると、次に大地が揺り動かされる程の「雷鳴」が轟く中、大粒の「雹(氷の塊)」が、「雨」と同時に降って来たのです。
 
 しかもこの状態が、何日もずっと継続された訳ですから、天は遂に「光(太陽光)」を失ったかのように見えました。巨大な暗雲が全地を支配し、「光」が全く差し込まなくなった結果、地に暮らす人々は恐怖におののき始めます。自分たちが、創造主の「怒り」を買った結果、(このように)裁かれているのだ!と。それに対して、外界の狂気の世界から守られた、ノアとその家族たちは、どれ程「方舟」の中で、必死にとりなしの祈りを捧げたことでしょう。「父よ、再び(地の上に)光を!」と。
 
雨のち晴れ
 前述したように私たちが、「安らぎ」と「希望」を得られる時というものは、夜の「暗闇」の後に、「光」ある朝が必ず来る(訪れる)という、二つの時のサイクルの中で、毎日を生活しているからです。アダムも「罪」を犯した存在でしたが、「たとえ今は苦しくとも、必ず神の憐れみが、この地に降り注ぐ!」ことを、子羊の生贄を祭壇上に捧げることを通して、常に確認していました。即ち「全焼の生贄」を捧げるべく、先ずは謙虚に神の御前に出て、次に「罪」の赦しを乞い求める時、主なる神は必ず御顔を向け下さり、「天」より素晴らしい光を、自分に放って下さることを。
 
 そのこと故に、彼は「安息」の生贄を、感謝の心から捧げたのです。そうです!このようにアダムやノアは、主なる神の「恵み」を片時も忘れることなく、日々生かされている喜びを、純粋に神に表明しました。ところが、私たちも時々ありますが、「この世」のことにかまけて、神の「恵み」を忘れるのです。神の「恵み」を忘れること、これは恐ろしい「罪」の一つです。そして自分の「息」に頼り、自分の「力」をもって行動すること、これが私たちの最大の「罪」であることを、私たちは常に再確認すべきです。
 
 さて今日の「日本」は、ノアの時代と何ら変わり無き、「罪」に満ち溢れた状況の中にある訳ですが、果たして「希望」があるのでしょうか?そして「安息」を見出すことが出来るのでしょうか?しかし主なる神は、私たちキリスト者に対して、ノアに語られた如くに励ましの言葉を、聖霊様を通して投げかけています。「二度と私は、大洪水の如き裁きは行わない!」と。
 
 ノアの家族は、揺れ動く「方舟」の中にあって、嵐(大暴風雨)が過ぎ去って雨が止み、暫くすると暗雲が次第に消え去ると、やがて雲の合間から「光」が差し込んできた時に、ようやく主なる神が「裁き」を終結し、再びご自身の「恵み」を、地上に回復(復活)し始めたことを悟りました。
 
 もはや「希望」というものが、全く無くなったと思っていた彼らの上に、父なる神が「天の覆い」をもって、再び覆って下さったことを確認したノアは、どれ程「感謝」の心に満ち溢れ、新たな「希望」を与えられたことでしょう。「主よ、あなたは呪われた大地を新しく創造し、このような私たちを通して、新たなるご計画を始められたのですね。私たちの犯した罪は、とても自分で負い切れるものではありませんが、今このように生かされていること、これにはあなたの正しい理由があることを、私たち家族は全員信じます!」と。
 
 主なる神の最後の「裁き(審判)」の時には、真の光であられる方、主イエス・キリストが再臨されます!「その時」には、私たちに真の「安息(休み)」が訪れ、新しい「天」と「地」が、私たち(イエス・キリストの花嫁)のために、必ず用意されるのです!
 
 私たちは「虹」を見た時に、何故感動する(心動かされる)のでしょうか?勿論その「美」もさることながら、それが「雨」が上がったことの、サイン(しるし)であるからです。「虹」とは霊的に、「人」が神の「恵み」を、決して忘れることが無きよう、その都度用意される神の「しるし」です。

  「今」の時代に、私たちが生かされている理由、それはノアと同様に、私たちキリスト者(霊の初穂)を通して、神の「救い」が完成されるためです!来る神の最後の「裁き」の時には、誰も生き残ることは出来ません!「あなた(救いの舟)」を通して、神の「救い」の恵みが豊かに現されること、それが生かされている理由です。

  主イエス・キリストの「恵み」と、父なる神の豊かな「平安」が、あなたの信仰生活と、「唇」の告白を通して常に現され、この世の人々に「救いの希望」をもたらす、神の「恵み(祝福)の雨」となることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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