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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.34)

                 私もあなたを罪に定めない
 
 
イエスは・・・・神殿の境内に入られると、・・・・座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」・・・・彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」・・・・これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは・・・・言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
                                                                      【ヨハネ福音書8章1~11節】
 
 仕掛けられた「罠」
 今回のストーリーに登場する主役の女性は、世間から後ろ指を指され、何事においても蔑視扱いを受ける、そんな職業に就く人物です。普段からイエス・キリストを付け狙う集団が、この女性の不品行を現行犯的に捕らえ、イエス・キリストの前に故意に突き出すという策略を立てました。彼らはイエス・キリストが、この状況に直面した時、如何なる行動を取るのか?またイエス・キリストの語る、その言葉の内容如何によっては、イエス・キリストをも逮捕する、そんな罠を仕組んだ訳です。当時の律法によれば、姦淫の罪を現行犯で逮捕された場合、直ちに「石内の刑」で処罰することが認められていました。
 
 そして遂に、イエス・キリストの前に、この女性が突き出されました。現行犯で捕らえられた彼女は、肌を露出する程の身も顕な状態です。ですから男性たちの厭らしい視線が、彼女にいっぺんに集中しました。すると陰謀をめぐらす彼らの一人が、イエス・キリストに問い質しました。「先生、あなたは常々、素晴らしい教えを説いておられますね。モーセの律法によれば、この女性の扱いは、どうしたらよいのですか?確か、石で打ち殺しても構わないと記されていますが・・・・」と。
 
 それに対して、イエス・キリストは何も返答しません。ただ黙って座り込み、地面に何かを書き始めました。そんなイエス・キリストの態度に、激怒し始めた彼らは、遂には「石」を手に持ち、腕を高く振り上げて、今にも投げかけんばかりに、イエス・キリストに問い詰めます。するとイエス・キリストは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と、彼らに不意打ちを食らわすかの如き、新しい「律法」の言葉を提示したのです。すると全ての男性陣が、一人一人とその場から退散し始め、遂には陰謀集団も逃げ去ったのです。


裁きあう私たちの「現実(罪)」
 私たちの普段の生活の中において、上記のような状況(場面)は、殆どと言って皆無ですが、例えば「あの人は最近・・・・らしい。」、「え!そうなの?嫌だわねー」などの噂話は絶えません。つまり根も葉もない「偽りの情報」が流布し、影で他者を平気で裁く(批評する、偏見視する)言葉になっていないでしょうか!それは家族の中でも起こり得ます。本来ならば、家族の関係は麗しいものです。しかし例えば、反抗期の息子が父親に生活態度を叱られた場合、息子は激怒しながら「親父!偉そうなこと言うな。親父だって隠れたところで、パチンコ行ってるだろう!」などと、互いに「理屈(私の律法)」の罵り合いが始まります。
 
 これが私たち「人」の現実の姿です。ですから私たちも、彼ら(陰謀集団)と変わり無き者です。自分の「理屈」を言い出したら、いつも他者を批判するなど、「裁き」が得意になる訳ですが、言っている本人(私たち)は、自分が「どれ程の者であるのか?」を全く知りません。そのような「理屈」は、殆どの場合「自分だけは正しい!」という詭弁です。しかし今回の場面に照らし合わせますと、私たちは彼ら同様に、自分の「理屈(石)」を投げるこが出来ず、結局は逃げ去るだけです。
 
「罪」に定めないイエス・キリスト
 さて、イエス・キリストが今回述べられた、「私もあなたを罪に定めない」とは、如何なる奥義を示しているのでしょうか?この御言葉には、非常に重要な「真理」が隠されています。原語的に「定める」とは、裁判の中で用いられる「咎める」、「有罪とみなす」という意味です。と言うことは、イエス・キリストが彼女に対して、直接「罪に定めない!」と語られている訳ですから、それは文字通り「あなたは無罪放免です!」という判決になります。
 
 ところで「罪」に関して、私たちはどう捉えているでしょうか?子供の場合それは「悪いこと!」になります。しかし、父なる神が私たちに示す「罪」は、「あなたは私と離れています(私の中に留まっていない)!」というイメージです。本来在るべきところに、いない(留まっていない)!こと、これが神にとっての「罪」です。もともと罪を犯す以前の「最初の人(アダム)」には、「罪」がありませんでした。つまりアダムと神との関係(距離)は、常に親密(一体)でした。サタンは、この「神」と「人」との親密な距離を割くべく、エバに対して罠を仕掛け、彼らはものの見事に神から離れてしまったのです。
 
 第一に、「罪」の種が蒔かれた結果、「人」はこの時から、自分の恥となる部分(肌の露出や裸など)を、他者の視線から隠すようになりました。本来ならば(罪を犯していなければ)、裸イコール「ありのままの美しい姿」なのです。例えば世の中で、様々な「不正」が蔓延ること、これも「見つからなければ(隠していれば)大丈夫!」という、「罪」から生じた心理が働いているからです。
 
 第二に「罪」の因子は、「人」の五感などの身体機能を、細部にまでアンバランス化した結果、様々な「病い」と「痛み」を生み出し、「人」を心身共に苦しめることになりました。特に人間関係における、コミュニケーション(言葉)上の「痛み」は、終結するどころか、かえって悪化しています。その根本原因は、「霊」の中に蒔かれた罪の種であり、そして肉体的に見るならば、全ての生体組織を司る「脳」に、ある種の「欠陥(不完全さ)」が、この時から生じたものと思われます。ですから「言葉」や「行動」の面において、誰一人として「完全(完璧)!」と言える者はいません。
 
 私は最近、次のように常々自問しています。「私たちは何故、イエス様を信じても、様々な苦しみに遭うのだろう?」などと。聖霊に満たされて祈り、信仰の油注ぎを豊かに受けたにも関わらず、すぐに何らかの「情報(人の言葉)」を聞いて、霊的に落ち込むことがある、その原因が分かりませんでした。ご存知のように、「人」は他者と言葉をもって会話するのと同時に、相手の「顔付き」を見ようとします。自分の語る「言葉」によって、相手の顔の表情、特に「目元」や「口元」の動きを気にするからです。それ故に「人」は、人の語る言葉等によって、様々に悩み苦しむのです。
 
 聖書は明確に、その答えを示します。「御霊(聖霊)も同じように言われます。御霊は弱い私たちを助けて下さる!」と。つまり私たち「人」は、罪故に「弱い!」ということを知るべきです。そして全ての「人」が完全ではなく、不完全な者であることを謙虚に認めるべきです。では、この「人」の持つ不完全性は、果たして癒される(回復する)のでしょうか?答えは「神の創造の御業によって、然り(必ず全人格的に回復する)!」です。しかし神の「癒し」は、インスタント的(3分たったら出来上がり)ではありません。その為には、聖霊によって磨かれ続ける!というプロセスが伴います。聖霊様は人格者なる方ですから、幼児を抱く母親の如くに、私たちをねんごろに愛し、その都度丁寧に取扱って下さいます。
 
「罪」の障害からの回復(癒し)
 私の証言になりますが、実のところ私も言葉の面で、他者に対して「支配的」な言動を語る、そんな悪しき言葉の悩みを抱える者です。「何故自分が、無意識の内に支配的な言葉を語るのか?」などと、様々に原因を探るのですが、全く分かりませんでした。私の妻は時折、次のように私に指摘します。「あなたは常に、人の語る言葉を聞いて、すぐに結果ばかりを気にして反応してしまう。その中間の過程が全く無いのよ。要するに頭の半分が無くなっているわね!」と。
 
 妻の語るこれこそ、まさに言葉の不完全性を、明確に言い当てています。病名こそ明かせませんが、「言葉上の意志疎通・認知・判断等における不完全さ(障害)」が、この病いの特徴です。これこそ「人」が、その犯した罪故に、言葉の面において「弱い」ということを、神が教え示しているのです!この病気に、先ず「自分もそうである!」と気付き、神の「癒し」の恵みを受けて、日々癒されていくのであれぱ、偉大なる神の道を歩んで行くことが可能です。何故なら聖書には、次のような「救い」の真理があるからです。「多く癒された(赦された)者は、必ず神を多く(益々)求め、神の為に偉大なる働きを為す!」と。
 
 他人の語る「言葉」に対して、それを客観的思考(緩やかに考える)で、深く吟味しながら意思疎通できる人は、殆どと言って問題は無いのですが、私を含めて上記のような「病い」を持つ者は、例えば他者が語る「ある言い回し」に対して、すぐに思考回路が途中で「短絡(ショート)」してしまい、その瞬間に意思疎通が出来なくなります。その結果ある者は「キレル」、「フサギコム」、「妄想意識」や「被害意識」が増長するなど、人によって言語(思考)回路の現れ方が様々です。私は以前、このような思いの全ては「悪霊が惑わすから」などと思っていましたが、今ではこの「病い」の症状と考えるようになりました。
 
 聖書は明確に、この「病い」に対する霊的処方箋を提示しています。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル書11章1節)と。私たちは「確認する」という言葉を聞いた時、それは実際に目に見えるもの(こと)、つまり存在するもの(こと)として捉える(認識する)こと!と考えています。しかし「目に見えない事柄(未来的時間も含む)」に関しては、直ちに「確信」したり、ましてや「確認」することは不可能ではないでしょうか!しかし聖書は、「今!確信し、それを確認し(受け取り)なさい。」と命じているのです。
 
 私たちは自分の人生において、人間関係上の言葉の「病い」を被る、又は逆に傷付ける(病いを撒き散らす)ことによって、様々な「痛み」と「苦しみ」を抱えながら生きています。「いつになったら回復するのだろうか?」、「目に見える現実に、もう耐えられません!」、「私の人生は、こうではなかった!」などと。これが「目に見える事実」に対する、私たちの「弱さ」です。私たちの祈りの言葉の中にも、例えば「私は(神に対して)これ程の・・・・を捧げている(為している)のに~(神は未だ答えて、或いは叶えて下さらない)!」などと、すぐに「結果」を求めてしまう、これが私たちの語る言葉(祈り)の、「短絡思考」という霊的弱さです。
 
 聖霊様は、そのような弱い私たちに対して、優しく「強がるな!裸(ありのままの自分)を隠してはならない。自分の全てをさらけ出して、主なる神の御前に出なさい!」と語りかけて下さいます。主なる神の「救い」と「贖い」は、日々「上(天)」よりの恵みをもって、等しく十分に注がれています。ですから私たちは、日々求めるのです。「目に見える事実」に打ち勝つには、ただ私たちが「肉の眼」を閉じさえすればよいのです。そうすれば聖霊様が、次に「私は、あなたの霊の眼を開き、主なる神の素晴らしいイメージ、即ち目に見えざる神の事実を示そう。そのために更に、霊の言葉をもって祈り続けなさい!」と指示して下さいます。
 
 私たちの「霊の眼」が開かれますと、次第に私たちの唇から、素晴らしい神の「命の言葉」が流れ始めます。すると、神の「言葉」が私たちの「脳」を刺激し、まるで「命の薬」の如くに神の癒しが始まり、遂には「神の事実」が見えてくる(霊的に確認する)のです。ですから私たちは、神の「命の言葉」が必ず「アーメン(その通りになる)!」と受け取るまで、聖霊様と共に霊的に祈り(うめき)続けましょう。これが「信仰」です!たとえ「今」は目に見えなくとも、目に見えざる「神の事実」は、必ず神の「御心の時」に受け取ることが出来る、即ち確認することが出来ました!と告白すること、これがアブラハムの信仰です。
 
 私たちは決して、「目に見える事実」に囚われてはなりません。「霊の眼」をもって見れば、主なる神の偉大なる「御業」が、まさに「今!」確認できる時代に、私たちは生かされているのです。「脳」の中身(構造)は、確かに「目に見えない領域」にあります。しかし主なる神は聖霊様を通して、あなたの全人格を支配している以上、あなたを主イエス・キリストの「麗しい花嫁」として仕立てて下さることを、是非信じ続けて下さい!どうか聖霊様が、「上(天)」よりの力をもって、日々弱いあなたを強め、あなたが神の「命の言葉」を語ることで、必ず「神の事実」を確認できる次元へと導いて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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