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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.4)

                         シオンの祭服




祭司らには、救いを衣としてまとわせる。
                                                                                                                 【詩篇132篇16節】




「死」をまとう場


ルツはしゅうとめと一緒に暮らしていたが、しゅうとめのナオミが言った。「私の娘よ、私はあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。・・・・体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気付かれないようにしなさい。あの人が休む時、その場所を見届けておいて、後で側へ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」ルツは、「言われる通りに致します。」と言い、麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられた通りにした。・・・・夜半になってボアズは寒気がして、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足元に寝ていた。
                              【ルツ記3章1〜18節】


 ルツ記3章1〜4節を見ますと、ルツの「信仰の行動」の結果、明らかにナオミの信仰も霊的に回復し、再び父なる神の祝福にあずかるべく、聖霊によって変革された「姿(フォーム)」が記述されています。つまり、ルツに働きかけた聖霊の「促し(導きと助け)」が、明らかにナオミの信仰に対して現れるなど、溢れるほどの「シオンの糧(イエス・キリスト)」を得たことによって、彼女の奥深い「霊」の内側にまで、イエス・キリストの「祝福の泉」が流れ始めました。そして回復したナオミは、ルツに対して更に「祝福の源」なる方、つまりボアズ本人を慕い求めて行くよう、積極的に勧めました。自分のことを、「マラ」と呼ぶよう近隣の婦人に要請していたナオミが、「預言的洞察」をもってルツに対して、更に「落穂拾いだけに満足するのではなく、その落穂を与えて下さる本人の所へ行きなさい!」と促しているのです。


 ここには私たちが「知る」べき、重要な「信仰の法則」が描かれています。私たちは、聖霊様に導かれて自由に「至聖所」に入り、礼拝することが可能になりましたが、旧約時代の「モーセの幕屋」においては、イスラエルの民にとってそれは年に一度の、しかも大祭司だけが「民の代表」として入ることが許されるなど、極めて厳しい条件の中での間接的な「礼拝の時」でした。しかし、「ダビデの幕屋」においては、全ての民が神との「親しい交わり」を求めて、「至聖所」に入り「贖いの子羊」の生贄を捧げるよう、「幕屋」は常に開かれていました。


 実は「モーセの幕屋」の礼拝の中には、非常に重要な霊的奥義が示されています。確かに一人の「大祭司」という、特別に選ばれた聖職者だけが「至聖所」に入れる訳ですが、本人は威張って「私だけが入れるのだ!」などの心境にはなれない、ある重大な問題が「至聖所」の中で待ち受けています。それは一言で、「死」という問題です。つまり、本人の中に少しでも「罪」が存在している限り、「至聖所」に入った瞬間、神の裁きにより「死刑」に処せられます。それ故、常に「死の恐怖」が付きまとっている訳です。


 では「ダビデの幕屋」には、そのような「死の恐怖」は付きまとうのでしょうか?答えは、実際としては「否!」ですが、霊的には「死」を含んでいることを覚えて下さい。私たちが「至聖所」において、本当に麗しいイエス・キリストとの「親密な関係」、つまり花婿と花嫁が一体化する時には、「モーセの幕屋」に入った大祭司と、霊的には同様の「死」を経験させられます。


 ナオミは、ルツに「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。」(3節)と指示した時、果して二人とも「ハッピー・エンド」を期待して、つまり命令する側(ナオミ)も指示を受ける側(ルツ)も、喜び勇んでボアズの元に駆け込んで行くイメージ、これは私たちが自由に「ダビデの幕屋」の中に、入ることのできる喜びと同様のものですが、果してそのようなイメージをもって、ナオミは指示したのでしょうか?いいえ!ナオミがルツに対して、このような指示を与えたこと自体が、実は「死」を前提にした、非常に勇気の要る決断でした。当時のユダヤ教の「律法」において、一人の未婚女性(若きやもめも同様)が、独身男性の元をこっそり訪れ、しかも「寝所」に入ることは絶対認められず、これが明るみに知れた場合、即「石打の刑(死刑)」に処せられました。ナオミは、そのことを知っていたにも関わらず、聖霊様の促しによりルツに命じたのです。「あなたの落ち着くところは、只一つボアズの元です。死を恐れないで行きなさい!」と。


 当然命じられた側のルツは、思わず戸惑い恐れました。「お義母さん!そんなことをしたら・・・・、途中で人に見つかったら・・・・。たとえ見つからなくても、ボアズ様が私の行為を拒否し、そして告発したらどうなるでしょう・・・・。」などと思ったことでしょう。しかしルツは、ナオミを支配する全能者の「御心」、そして彼女の人生の中に回復し始めた、聖霊様の「取扱い」と「導き」に従う彼女の、確信に満ちた「顔付き」を見つめながら、又今命じられた「言葉の重要さ」を噛み締めながら、「言われる通りに致します。」(5節)と、信仰の告白をしました。これは、ルツの「信仰姿勢」を表す言葉です。「私は死をもって、あなたの言葉に従います!」と。


 「至聖所」に私たちが入る時、通過しなければならない「恐れ」がここに示されています。私たちの霊的フィールドに存在する、「自己中心(自我)」の全てが、イエス・キリストの「十字架」と共に「死す」ことが、「至聖所」に入って行く上での最も重要な「条件」です。しかし、ヘブル書に記されているように、神の子羊イエス・キリストが、私たちの「罪」全ての身代わりの「生贄」として、十字架上に「死」をもって捧げられたことにより、私たちは大胆に(恐れることなく)「至聖所」に近づいて、その破られた「垂れ幕」の内側に入って行くよう、聖霊様は促しておられます。


 とは言っても、私たちは「至聖所」に入ろうとする際に、必ず「恐れ」が伴います。それは、大抵「私が入ってしまうことで、もしかしたら私は、私自身でなくなるかも知れない!」、「もし入ったとしても、変わらなかったらどうしよう?」などと、様々に葛藤したり躊躇する「思い」のことです。しかし聖霊様は、更に続けてプッシュされます。「イエス・キリストを更に求めるのであれば、あなたはもっと自我に死になさい!十字架上で、更に死になさい!」と。この聖霊の促しは、非常に矛盾めいた言葉ですが、私たちが「自我」に死すことは、ローマ書12章1節の言葉通りに、私たちが主の御前に捧げられる、「生きた聖なる生贄」になることです。


聖霊の具体的「促し」の奥義
 ルツは、ナオミを通して語られた聖霊の「促し」に、素直にへり下って聞き従いました。この時ナオミは、ルツに具体的に指示を与えました。「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気付かれないようにしなさい。あの人が休む時、その場所を見届けておいて、後で側へ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。」(3〜4節)と。この御言葉には、霊的な「奥義」が全てに渡って散りばめられています。


 先ず第一に、「体を洗って香油を塗る」こと、これはパウロが述べる「あなた方の霊は、神が住まわれる聖なる宮」である故に、私たちが賢い五人の乙女の如く、常に「体(霊的フイールド)」を聖めることを教えています。エステルは王に謁見する前に、「香油の入った風呂」に入り、「身(体)」を聖めるため「香油」に浸り続けました。つまり、自分自身の全てを「香油」の中に横たえたのです。その結果、彼女の全身に「香油」の持つ「良き香り」が、四六時中染み込んで離れなくなりました。聖なる「香油」の「良き香り」が、私たちの「霊」の只中、つまり「神の宮」から放たれる時、花婿イエス・キリストは、花嫁の「香り」を敏感にキャッチして下さいます。私たちが、どのように祈るべきか分からない時にも、聖霊様が私たちの「言い難きうめき」に対して、自らも「聖なるうめき」をもって執り成して下さる時、この香油の聖なる「香り(祈り)」は、更に天的レベルにまで引き上げられるのです。


 第二に、「肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行く」こと、これは「いと高き神の元に身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ」(詩篇91篇1節)の御言葉に通じる、「信仰の行動」を表明するもので、ある面で「肩掛けを羽織る」ことは、常に「全能者の御翼の陰に宿る」という、「霊的へり下り」が無ければなりません。か弱い一人のやもめルツが、肩掛けを羽織って静かに「麦打ち場」に下っていくこと、これは「高ぶった(思い上がった)」状態では、決して為し得ない行動です。


 ところでナオミは、何故ボアズが「麦打ち場」に居ることを、知っていたのでしょうか?それは、ボアズが他の農場主と違って、全てに渡って「謙遜な主人」であることを、彼女は聖霊様からの「啓示」を通して、前もって知らされたものと思われます。大抵の農場主(オーナー)は、「しもべ」が働く汚れた作業場(末端の職場)を、たまに巡視することはあっても、共に労働に従事することは決してありません。しかしボアズは、常に一番過酷な「労働環境」である、「麦打ち場」に居たのです!これは、「脱穀」作業を経験した者にしか分からないことですが、夏の一番暑い最中にあって、汗まみれになって脱穀していますと、脱穀する際に出てくる籾の「粉塵」が、汗だくの「体」全体にべたつき、体中が物凄く「かゆく」なります。とても「その場」に長くは居られないほどの、「かゆみ」に耐えながら作業を続けざるを得ない労働環境、それが「麦打ち場」です。そしてボアズは、何と一日中「麦打ち場」にて、「しもべ」と共に労働に携わっていたのです。


 ルツは、この一番過酷な汚い「麦打ち場」に、下って行くことになります。「落穂拾い」も、泥まみれになる「汚い作業」ですが、身を聖めた「若いやもめ」にとって、「麦打ち場」は、更に汚くなる場所です。ですから「へり下り」が無ければ、決して行くことができない「場」です。私たちは、ある面で霊的に身を低くし、へり下って「至聖所」に赴かなければ、御座から流れ出る生ける「命の水」を飲むことはできません!ですから私たちは、イエス・キリストから更に「命の水」を戴くべく、ルツのように「肩掛けを羽織って」全能者の御翼の陰に宿り、麦打ち場(イエス・キリストが臨在される場)に、身を低くしてこっそり赴こうではありませんか!この「こっそり」とは、例えば他人から認められないような「奉仕」、人々から称賛されないような小さな「務め」など、「日陰」のような「信仰の行動」です。しかしその人の中には、「御翼の陰」に宿る「恵み」を戴いている故、人々から「称賛される立派な衣」を着ることに関心が無く、大抵は「日」の目を見ることの無い、「泥まみれの衣」を羽織ることを喜びとします。その中に、父なる神の「全き平安」という、「豊かな祝福」があることを知っているからです。


 第三にナオミは、ルツに対して更に「あの人が休む時、その場所を見届けておいて、後で側へ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。」と、最終的な行動の指示を与えました。これは、イエス・キリストの後ろにそっと近寄り、その御衣に触れた「長血を患った婦人」の、「信仰の行動」と同じものです。つまり、当時の「律法」から判断して彼女の行為は、「汚れた女」として絶対禁じられている「大罪」であり、「裁判」を経ずして即その場にて、厳罰な刑に処せられる行為でした。しかし彼女にとって、自分が被る「死」の刑罰よりも、現実問題として「長血(不治の病)」から完全に癒されるには、「真のメシヤ」イエス・キリストの、御元におすがりして触れて戴くべく、ひたすら「その時」を待っていたのです。


 すると、たまたまイエス・キリストと群集の中に知らず知らず導かれ、聖霊が案内する「時」と「方法」をもって、イエス・キリストの「御衣」に触れることになりました。この時の彼女の信仰の中には、「必ず、この方は私に振り向いて下さり、御顔を私に向けて下さる!」という、全き確信がありました。この「長血を患った婦人」と、「ルツ」に共通することは、イエス・キリスト(花婿)の行かれる(臨在される)所は何処にでも、「死」を恐れず追い求めて付き従っていく、つまり「絶対離れません!」という、「信仰の行動」が伴っていたことです。


 ナオミから指示された第三の言葉は、聖霊様の最後通告(テスト)に当たります。「あなたは、自分の死と引き換えにしてでも、あなたの祝福の源ボアズの御側に、赴くことを選択(決断)しますか?」そうです!ルツにとって、ボアズの「寝所」に赴くことも恐れ多いことですが、実際に赴き仮にそれが「他者」に見つかった瞬間に、「死刑」の宣告が下されることになるのです。しかしルツは、ナオミが与えた最後の指示に従って、ボアズの居る「麦打ち場」に下って行きました。聖霊様は私たちにも、ルツのような「信仰の行動」を要求されます。「あなたは、更にイエス・キリストと一体化しなければ、霊的に干からびてしまいます!」と。それ故に、私たちの「霊」は「そうです!私は、イエス・キリストから離れては生きて行けません。もはや死ぬだけです!ですから、私は死をいとわずにイエス・キリストの行かれる所は、何処にでも付き従って行きます!」などと告白しつつ、「至聖所」に至る具体的な「信仰の行動」を、聖霊の導きによって始めさせて戴こうではありませんか!


 このように「死」をいとわず、激しくイエス・キリストを慕い求めること、又イエス・キリストを捕らえて離さないなど、「霊」の奥底から突き動かすほどの「飢え渇き」は、ある面で「大祭司」が「死」と隣り合わせで、「至聖所」の内側に入って行く時の「信仰」と共通する部分があります。そのような人は、決して「死」を恐れずに神の臨在の中に入り、イエス・キリストの栄光の「御衣」に触れることを慕い求める、キリストの「真の花嫁」です。イエス・キリストの栄光の「御衣」に、触れることのできる「親しい交わり」とは、「顔」と「顔」を相まみえる「至近距離の関係」です。互いの「衣」と「衣」が触れ合う、それほどに互いを求め合う愛(礼拝)の「一体化」が、彼女たちには共通として見られるのです。


シオンの衣を着せて下さい!
 「麦打ち場」に着いたルツは、ナオミの与えた具体的な指示通りに、ボアズの「寝所」にこっそり入り、本人に気付かれること無く横たわることができました。ボアズは、寝ている間全く気付かなかったのですが、夜半になって自分の足元が少し肌寒さを覚え、ふっと目覚めました。すると一人の女性が、自分の足元で眠っていることに気付き、最初物凄く驚きはしましたが、紳士的に適切な言葉をもって、彼女に尋ねました。「お前は誰だ?」(9節)と。


 この時のボアズの言葉は、どのような語調でルツに語ったのでしょうか?演出家はこの台詞に、頭を悩ますのではないかと推測します。怒った「鬼」のような顔付きで、怒り心頭に叱るように言い放ったのか?それとも、暗闇の中に突然「幽霊」でも見たかのように、びっくり仰天の語調で震えながら語ったのか?或いは、一人の誇り高き名門の貴族が、卑しい下品な農民の娘を見下しながら、まるで取り調べをするかのように、第一番目の質問として尋問したのでしょうか?答えは、この麗しいラブ・ストーリーの「後編」を、読み進めて戴くとお分かりになるように、それは眠っていた少年サムエルを呼び続けた、父なる神の「呼びかけ(calling)」と同じ語調でした。つまり、物静かな語りかけであっても、本当に真の「愛」に満ち溢れた、優しい威厳のある「問いかけ」でした。


 するとルツは、すかさず「私は、あなたのはしためルツです。」(9節)と、落ち着いて丁寧に即答しました。これは非常に、麗しく「知恵」に富んだ返答の言葉です。普通の女性でしたら、「あー、ご主人様!申し訳ありませんでした。私は、とんでもない事を仕出かしました。どうぞ私を、お許し下さい!・・・・どうぞお許し下さい!」などと、泣きすがりながら謝るばかりです。ルツは恐らく、ボアズの足元に身を横たえた時から、興奮の余り目が冴えて眠ることができなかったことでしょう。


 「見つかったら、どうしよう?」などの思いから興奮している部分もありますが、ルツの霊的興奮の原因は神の導きの中で、遂に「フィナーレ(最終章)」が、自分(ルツ)の人生に迫りつつあり、「今、こうして敬愛する方の足元に、一つとなって身を横たえることができたわ!もう、心臓が破れるくらいにドキドキしている・・・・。私の魂よ!落ち着くのよ、慌てちゃ駄目・・・・。きっと、ボアズ様が起きられる時が来るから。その時に、はっきり申し上げましょう!私は、あなたのはしためルツです!と。」などと、実は心待ちにするほど気が高ぶって、ボアズが起きるのを待機していたのではないでしょうか!ですから、彼女は何の動揺も無く落ち着いて返答ができたのです。「あなたのはしため」とは、言い換えればボアズが所有する、「下女」の一人を意味する言葉です。つまり、彼女のこの表明は「あなたが、私のオーナーですから、私のことを自由に取り扱っても構いません!そのような身分ですから・・・・。」という、主人に対する「忠誠(誠実)」を誓う言葉です。


 続いてルツは、何と大胆不敵にも「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆って下さい。」(9節)という要求を、「主人」に対して願い出ています。これはルツが既にボアズと、間接的とは言え「寝所を共にした」、つまり「一体化」するなど「真の安息」を得たことで、主人の「御心」を読み取っている、その確信から生れた「信仰の言葉」です。私たちが、このようなルツの「信仰の行動」に関して忘れてならないことは、彼女が「事の計画」を自分で考え企て、ナオミの許可を取り付けた上で、綿密にボアズの行動パターンを分析し、「その時」を計算して実行に移したから、数々の「名セリフ」を巧みに語り、遂に「幸せを自分の手に掴む」など、最終段階に至った訳ではないことです。彼女はあくまで、ナオミに働かれる聖霊の導きに従った結果、ここベツレヘムに辿り着くことができ、自分にとって全くの他人「ボアズ」の厚意によって、「生活の祝福」を保障されたことを、へり下って神に感謝している「一人の女性」でした。


 しかし、聖霊を通して更にナオミの指示通り、「死」を覚悟して「ボアズ」の元に赴こうとする時、ルツは既に確信していました。「私の、これからの人生は全て、ボアズの中に落ち着くことだ!」と。つまり、ボアズから「祝福」を求めて生きることよりも、「祝福の源」ボアズ本人と「一体化」することを、彼女は聖霊の導きの中で選択したのです!この時点で、ボアズとルツが結婚する運命にあるなどと、誰が知り得たでしょうか?ルツが、ボアズの「寝所」にて身を横たえた時点で、二人は未だ「婚約」も交わしていません。ましてや、結婚を前提にした交際もしていないのです!それにも関わらず、ルツはボアズと「契り」を結ぶために、「死」を覚悟してボアズと一体化する、「信仰の行動」を大胆に実行したのです。


 ボアズの「裾」に覆われること自体は、直接的な「性的交わり」に至る行為ではありませんが、互いに肌と肌を触れ合って抱擁し合う形ですから、愛し合う夫婦の「一体化」の現れと同じ有様です。ですから、ルツがこの要求をしたこと自体が、「あなたと、今一つになりたいのです!」などと、まるで結婚式を終えたばかりの花嫁が、「初夜」の時に語る言葉と同じ表明です。ボアズは、彼女の「愛の表明」を全面的に受け入れ、共に抱擁する形をくずすこと無く、朝起きる時まで「一体」になって安眠しました。つまり、ボアズは間接ながらもルツの求めに同意し、彼女の「求婚」に対する約束の保証として、ルツの全てを自分の人生の「パートナー(花嫁)」として受け入れるべく、「一つ」になったのです。


すぐ決着を付けられる花婿
 ルツは事の次第を、全てナオミに報告しました。するとナオミは、「やったわ!もうこれで父なる神に促された信仰の結果を、私ははっきり見ることが出来たわ。」などと確信しながら、ルツに「私の娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着が付かなければ、落ち着かないでしょう。」(18節)と指示しました。この御言葉には、ナオミが既にボアズ(花婿)の「御心」を、完全に読み取っていることが分かります。「今日中に決着が付かなければ、落ち着かない」この御言葉の奥義は、私たちの「花婿」イエス・キリストは、ご自分を慕い求める「真の花嫁」には、喜んでご自身を現して下さり、決して「親しい交わり」の時を、躊躇したり延期する方ではない!ということです。


 しかし、「イエス様、私はあなたの手の業を、今(私が決める時に)見たいのです!」、或いは「お言葉を戴きたいのです!私の将来がどうなるのか!その預言が知りたいのです!」などの祈り(要求)に見られるように、イエス・キリスト「ご自身」及び「御心」よりも、イエス・キリストの行われる「しるし」と「わざ」、そして「賜物」などを優先して求めるのであれば、「今日中」にではなく、それこそ「明日(将来)」に延期されるかも知れません。ルツがボアズに告白したように、「イエス様、あなたの御心の中に、私の全てが一つにされなけれは、居ても立ってもいられません!この身が落ち着かないんです!どうぞ、あなたご自身の中に身を落ち着かせて下さい。あなたの御衣で、私の全てを覆って下さい!」と祈り求める者には、「今!私はあなたと一つになり、あなたの全てを私の愛で覆いましょう!」と返答され、「霊」の只中に住んで下さいます。


 又、ある面でこの御言葉は、素直にへり下ってイエス・キリストを追い求める者にとって、ある面で「開かれた至聖所(ダビデの幕屋)」への、通行許可証(ビザ)に当たります!イエス・キリストとの「親密な交わり(至聖所)」は、「もっと聖められなければ・・・・」、「もっと信仰上の、厳しい修行に耐えた者でないと・・・・」などの宗教行為レベルに生きる者に、与えられる「許可証」ではありません。私たちの「花婿」イエス・キリストは、ルツのように「死」をいとわずに、大胆に恐れることなく「至聖所」へと奥深く入り、ご自身と「親しい交わり」を求める者に対して、たちどころに「愛の抱擁(一体化)」をもって応えなければ、満足される方ではありません。ですから、仮にそれを望んで得られないとしたら、私たち(花嫁)の側にイエス・キリストとの、「聖なる一体化」を延期させる「霊的隔たり」が残っているのです。


シオンの祭服
 シオンの「祭服(救いの衣)」は、いったい如何なる人が着るものでしょうか?又この「救いの衣」とは、如何なる着物でしょうか?旧約に生きていた当時の人々にとって、「祭服」はレビ族から選ばれた祭司職にあずかる、少数の人々しか着ることのできないものでした。「大祭司」に至っては、たった一人であり、身に付ける「祭服」は一般の祭司以上に、見るからに目立つ「特別な衣」でした。つまり、「祭服」イコール「油注がれた人々のシンボル」でした。


 では新約時代に入って、このユダヤ伝統の「祭服」は、キリスト教の中にも存在するのでしょうか?いわるカトリックに見られる、仰々しい立派な「祭服」は、プロテスタントには余り見られませんが、霊的には「五役者としてのシンボル」という、目に見えない「祭服(制度)」を装い、この五役者の「召し」にあずかった者が、特別に油注がれた指導する側などの、人間的「区分け」がなされています!つまり、指導する側の「祭服」基準が「五役者」であり、指導される側は何の「祭服」も着ていない、一般の「平信徒」であるなどの教え(これはカトリックの支配論理と、何ら変わりないものです)が、全てのプロテスタント各教派において、未だもって為されています。


 ところで「ダビデの幕屋」において、「祭服」は存在していたのでしょうか?伝統的な「祭服」は残っており、「祭司」が様々な礼拝奉仕を捧げる時に、使用していたことでしょうが、いわゆる「祭服」を着た者だけが、「聖所」に入ることのできる、「モーセの幕屋」の時代と違って、全ての人々が神を求める礼拝者として、いつでも自由に「聖所」に入り、礼拝を捧げることのできる開かれた幕屋でした。詩篇の中に記されている「シオン」とは、自由に「聖所」奥深くに踏み入り、神の臨在される「至聖所」にて、イエス・キリストとの「親しい交わり」を追い求める、人々の「総称」を指します。そして、彼ら(シオン)に着せられる「救いの衣」とは、如何なるものでしょうか?それは、「救い」という言葉に奥義が見出されるもの、つまりルツがボアズを通して覆われた「花婿の衣」です。イエス・キリスト(花婿)を、追い求めて止まない者(花嫁)に与えられる「祭服」とは、イエス・キリストご自身が用意して下さる、「ある衣」のことです。


 賢い五人の乙女は、主人(花婿)が帰ってこられる「その時」を、ひたすら待ち続けました。この時、彼女たちの「霊」を支配する「思い」は、「愛する方と相まみえ、親しく交わり一つになることを、喜びをもって待つ!」、その一点でした。それと同時に彼女たちは、主人が帰ってこられる「その時」が、婚礼の「祝宴の時」の始まりであることを明確に悟り、その最大の「フイナーレ」に向けて、全ての身だしなみを整えるなど、「油」を絶やすことなく待っていたことでしょう。「花婿」は、婚礼の「祝宴の時」が始まる当たり、彼女たちに「ある衣」を手渡します。そうです!「花嫁衣裳(ウェディングドレス)」を、「花嫁」に着せて下さる方は「花婿」本人です。これが、「シオンの祭服」です!


 はっきり申し上げて今日の教会指導者が、「牧会理念」から紐解いて教える「五役者のみの祭服」は、全てのキリスト者が着せられる「救いの衣」ではありません!聖霊様は、全てのキリスト者が賢い五人の乙女の如くに、花婿イエス・キリストを慕い求めて、自分の「霊」の只中から「イエス・キリストの命」が、豊かに溢れ流れ出ることを望む者、即ちキリストの「真の花嫁」に「救いの衣」を着せ、天上から「油」を注いで下さいます。ですから私たちは、「特別な祭服」は必要ありません!聖霊様は、全てのキリスト者が「救いの衣」にあずかるよう、今も招待しておられます。仮に「私は特別に選ばれ、油注がれている者だ!」などの意識に立つのであれば、そのような人々には「救いの衣」は用意されず、「この世」が与える「滅びの衣(イチジク桑の葉)」を、身にまとって生きるだけです。


 これからの「日本」において、「暗闇」と「混沌」が、いや増しに覆ってくる世相にあって、「暗闇」を照らす「真の光」イエス・キリストを、慕い求めて群がって来る人々が、必ず起こされることでしょう。「その時」に、過去と同様に伝統的な「古い教え」や「権威主義」、又五役者だけが祭司職であるなどの「特別意識」、そして「ピラミッド型組織主義」などの教えを土台とする、「世的な教会」に人々は群がって来ません!彼らが群がって来る所は、イエス・キリストの「愛」に根ざし、聖霊の「力」に満たされ、何よりも子羊イエス・キリストを慕って、激しく飢え渇き求める「賢いキリストの花嫁」グループの、「真の礼拝」の場(至聖所)です。


 私たちは聖霊様によって、明確に「信仰」の告白をさせて戴きましょう!「イエス・キリストこそ我が命、我が人生の全ての支えである!」と。つまり、この「信仰」の告白をする時に私たちは、「イエス・キリスト」の命の中に、私の命と人生、そして願いの全てが、完全に覆われて(包み込まれて)いる故に、「イエス・キリスト」の御名を呼ぶだけで、「私の〜」「私は〜」「私に〜」などの思考概念(古い衣)から、完全に解放されるのです!「私の人生」「私の歩み」「私の願い」、それらが全て「イエス・キリスト」のためにあり、これからは「イエス・キリストの命」に、「私」の全てを捧げます!又イエス・キリストの望まれる「家庭」になります!イエス・キリストが支配される「夫(妻)」、「子供(親)」になります!などと「信仰」の告白を表明できる、イエス・キリストの「救いの衣」を、あなたも今着せて戴きましょう!そして花婿イエス・キリストを、更に激しく追い求めて下さい!花婿なる方は、もう目の前に帰って来られていますから。


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