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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.8)

           命の水は何処から流れて来るか?



「・・・・あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。・・・・主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。私はそれをあなたに与えるから。」
                                                                                                        【創世記13章9〜17節】


アブラムの霊的特質
 「アブラム」は、父なる神のご計画によって、「アブラハム」へと変革されていく訳ですが、如何なるステップを通して、彼は変革されていったのでしょうか?そこで、この章では先ず第一のステップとして、「命の水」は何処から流れて来るのか?この点について私たちは、聖霊様を通して「知る(教えられる)」必要があります。この「知る」という概念は、決して情報や知識を得ることを意味するのではなく、父なる神がアブラハムと同様に、私たちにも与えようとしておられる、「上」からの変革の御業を通して、私たちがより「本来の人」、つまり父なる神のみを求める霊的機能、即ち「霊の眼」や「霊の耳」、そして「霊の唇」などの霊的五感をもって、神を捜し求め続けるようになることです。それは、アブラハムが「この世」という三次元の故郷において、世的な繁栄を求めることから完全に離脱し、父なる神が導き示しておられる、見えざる「天」という霊的故郷を求めて、見えざる神の「御心」に従いつつ、信仰のステップを歩んで行ったことを、私たちが聖霊様を通して「知る」時に、隠された真理(奥義)を発見することにもつながります。


 「アブラム」の第一の霊的特質は、三次元的故郷「ウル」の地に在りし時から、見えざる神を慕い求め、未だ見えざる「約束の地」を捜し求めて、日々飢え渇き求めていたことです。それ故、彼が父なる神を通して召し出された(calling)、その大いなる「変革」の始まり(スタート)は、見えざる神のみを追い求めた、当然の結果(神からの応答)でした。彼は、偶像文化がはびこるウルの地にあっても、見えざる名も無き、唯一真の全能の神を呼び求め(call)ました。真の神を捜し求める、彼の激しい霊的飢え渇きに対して、父なる神はある時「アブラムよ、私は確かにあなたの叫び求める声を聞きました。これから私は、あなたをある所に導き出します。私こそが、あなたを母の胎内に形造り、この世に産み出した真の神である。さー、私が導き出すその地を目指して出発しなさい!」と命じられました。そして、彼は神のこの「命令」に従い、「この世」の故郷を離れ、見えざる「天」の故郷を求めて出発したのです。この時アブラムは、神の「命令」を霊的五感をもって、どのように掴んだのかは分かりませんが、彼は「約束の地」を神が命じられる以上、今まで見てきた地上にある土地よりも、遥かに優った素晴らしいものであることを、「霊の眼」で認識し掴んだのではないでしょうか!


 この「アブラム」に付き従って、共に出発したのが、あの「ロト」です。ロトは、叔父(アブラム)が指導力ある族長で、しかも経営手腕が並外れて優れていることを、「肉の眼」で知っていましたから、アブラムに付いて行けば、自分も彼の祝福(富)のおこぼれに、何らかの形であやかることができると、三次元的に判断したからです。しかし、ロトの信仰は決して、アブラムが父なる神を通して掴み取ったような信仰ではなく、世的な繁栄を何よりも求めるという、御利益的な信念でした。ロトは確かに、アブラムと共に信仰の行動に踏み入りましたが、決して全面的に神の「ご計画」に従ったのではなく、ロト自身の「計画」も携えて出発したのです。彼の「計画」とは、「いずれ私のグループは、アブラム・グループから独立する!今は叔父と共同経営にある為、できるだけ自分の主張は差し控えよう!力を貯える時だ。」その一点でした。


 「アブラム」の第二の霊的特質は、父なる神が導かれる土地において必ず、何よりも先んじて確立した行動にみられます。それは、父なる神への感謝の生贄を屠る場、つまり「祭壇」を築いたことです。忘れてならないことは、彼は父なる神が定めた「約束の地」に、未だ到着していないにも関わらず、導かれる各ポイント(地点)ごとに祭壇を築いたことです。何故なら、彼は導かれる各ポイントが、いずれ神が定めておられる最終地点、つまり「安息の地」に至るステップ・ポイント(神との親しい交わりの場)であることを、霊的に「知る」恵みを得たからです。


 このように彼は、父なる神との「親しい交わり」を、何よりも優先することを欲していました。父なる神に①これからの歩み、又②この地点において先ず何を為すべきか?を問うために、「祭壇」を築き子羊を捧げました。そうです!彼は常に父なる神を求めて、霊と真による礼拝を最優先に為しました。しかし、ロトの場合は違っていました。彼は訪れる各地において、先ず何を為したかと言えば、「よし!ここは商いに適しているか、少し調べてみようではないか!ここの住民はどう見ても、余り繁盛しているようには見えないんだが・・・・」などと、「肉の眼」でしか判断しませんでした。それに対してアブラムは、「ロトよ、地元の住民の外見ばかりに目を留めてはならない!私は、父なる神がこの地に休め!と言われた以上、しばらくこの地で休息を得ようではないか!」などと、たしなめたこともあったでしょう。このようにアブラムの場合、導かれる土地全てにおいて、必ず聖霊様に促されました。「父なる神との交わりを、全てに先んじて確立しなさい!」と。この命令を通して彼は、神の喜ばれる「純粋な器」へと、次第に変革されて行ったのです。


 祭壇を築いた後に初めて、聖霊様はアブラムに対して、彼の第三の霊的特質となる命令を下されました。それは「井戸を掘りなさい!」という、単純な命令でした。普通、常識的に判断すれば「新しい地」に居留する時には、先ず「飲み水」を確保するために、オアシス地点を計画的に移動したり、時には荒涼とした地にあっても、「井戸」を掘ることが優先事項でした。しかしアブラムの場合、「井戸」を掘る前に「祭壇」を築いています。つまり彼は、「祭壇」を築き上げた後に、自分の為すべき務めである、「井戸」を掘り始めたのです。何故ならば、「飲み水」が地下にしか存在しないことを、「知って」いたからです。


 中東地方を移動する行商人や各部族は、通常オアシス・ルート通りに、計画的にそのルートを進み行くのに対し、父なる神がアブラムを召し出した、カナンに至る道(ルート)は、「この世」のルートとは異なっていました。「この世」のオアシス、つまり地上に「水」が存在する所を目指すようには、父なる神は彼を召し出しませんでした。ですから不思議なことに、その後父なる神が示すカナン・ルートは、いつも「砂漠(荒れ地)」でした。しかしアブラムは、如何なる地においても「井戸」を掘り進めた結果、必ず「地下水」が湧き出るという、神の奇跡を体験して行きます。このようにアブラムは、父なる神に命じられるまま各地点に辿り着く際に、いつも聖霊を通して受け取った神の「御心」は、先ず何よりも「祭壇」を築き、父なる神との「親しい交わり」を優先する時に初めて、肉眼では何も良きものが存在しない、荒涼としたフィールドの奥深い地下から、必ず「命の水」が湧き出ることでした。そして彼は、この何にも代え難い神の「命の水」を、全身全霊をもって「知る」ことができました。


 ですから私たちも、聖霊を通してアブラムに示された、神の様々な霊的取扱いを期待しようではありませんか!それは、父なる神の「御心(契約)」に従った時に、必ず「命の水」が不毛の地(環境)から流れ出ることです。父なる神を、霊と真をもって最優先に礼拝することが、全てのミニストリーに優るものであることを、私たちは再認識しようではありませんか!私たちが自らの手で、「命の水」の井戸を掘り進めて、そして流すのではありません。父なる神を優先して初めて、聖霊は天上の窓を開いて下さり、私たちの「霊」に働きかけて、何も為し得ないような、砕かれた霊的フィールドの中から、「命の水」を湧き上がらせることで、「神の御業」が推し進められて行くのです。私たちが「自分の業」を完成しようとすること、これは私たちの霊的フィールドに、世的なオアシスを確立していくことです。「この世」のもたらす、繁栄や充足などを私たちが求めるのであれば、それは全て神の「御心」から、既に外れて(離れて)いると言わざるを得ません。


アブラムの霊的失敗に学ぶ
 ところで私たちは、「アブラム」の良き行いだけを、霊的に「知る(学ぶ)」べきではありません。実は聖霊様は、アブラムの霊的失敗からも、更に学ぶように促されています。彼は、非常に優れた「信仰の人」ではありましたが、私たちと何ら変わらぬ人間臭さに富んだ人でした。つまり彼は、決して完璧な信仰者ではなく、良きにも悪しきにも模範的な人間でした。覚えて戴きたいことは、彼は父なる神の導きの中で、自分自身ばかりでなく、自分の率いるグループ全てが、神のもたらす祝福にあずかり、行き着く先々で不毛の地を潤いのある地へと回復させる、霊的リバイバルを体験しているにも関わらず、「約束の地」に辿り着いた時に、父なる神は彼の信仰を試され、「飢饉」を起こしたことです。


 私たちの人生にも同様のことが言えますが、イエス・キリストを救い主として告白し、神に従う人生を歩み始めたからと言って、その後の人生が祝福に富んだ、平坦な道を歩く訳ではありません。私たちが、父なる神の祝福を受け取る時には、必ずサタンを通して「この世」からの誘惑が始まります。それは一体、どのような誘惑でしょうか?先ず、「もう大丈夫だ!あなたは、聖霊の御声に聞き従った結果、もう十分に神の御心を知ることができた。そしてあなたは、神の御心を知る力を得たのだから、あなたは自分の為すこと全てが、神と一致できるものである!」などの、霊的思い上がり(高ぶり)が生じます。ですから、私たちは自分の「霊」を、常に見張り続けなければなりません。つまり自分という存在は、父なる神の恵みが無ければ常に弱い者であり、聖霊様の助け無くして、どんなことも知り得ないという、イエス・キリストが持っておられる、その「御心」に導かれることが必要です。


 イエス・キリストは、常に聖霊様を通して例えば、「いくら親しい弟子だからと言って、彼らの言葉を優先してはなりません!父なる神の御心のみを知ることが、あなたの為すべき最優先事項です!」などの、霊的勧告を受け取っていました。私たちの心には、「あー、もう大丈夫だ!」などの、サタンから来る誘惑の言葉が、盛んに流れ込んでいることをご存知でしょうか?しかし聖霊様は、その時父なる神に対して、次のように緊急要請をすることでしょう!「天のお父様、この者は少し自分の肉の力で、走り始めている傾向にあります。それ故、この者に霊的嵐(飢饉)を送って下さい!」と。


 アブラムは、このような霊的飢饉に遭遇した時、途端に信仰が萎えました。神の御心に従っている限り、如何なる飢饉に遭遇しても、私たちは先ず祭壇を築き、そして井戸を掘り進めることで、霊的に枯れ果てることはありません。そうです!永遠の命に至る「命の水」は、絶対枯れ果てることなく、飢え渇き求める者の「霊」に流れ続けるのです。アブラムは、このことを知って(経験して)いたにも関わらず、霊的に気力を失いました。ここに、彼の「人間的弱さ」が見受けられます。その結果、彼は神の与えて下さった伴侶(サライ)を、「他者」のように扱うという、非常に愚かな行為を犯しました。つまり、夫婦という「一体関係」から、他人という「分離した関係」を偽って造り上げました。彼は、愛する妻を「妹」と扱うことで、「約束の地」を離れエジプトに頼って行きました。


 聖書は明確に記述しています。彼は「その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(創世記13章10節)。「至聖所」は、私たちが霊的に常に上がって行く、「聖なる場」であるのに対し、この時のアブラムが為した行為は、汚れた「この世」に下って行ったことです。つまりこの時の彼は、神の「御心」を優先する最良の目的から逸脱し、愚かにも自分の「意志」を優先することで、エジプトという「世的繁栄」を頼みとして、霊的に悪しき方向を選択したのです。後に「信仰の父」と呼ばれるようになったアブラムにも、このような愚かな行動が伴っていたのです。


「何」を願い求めたか?
 アブラムは「飢饉」に遭遇した時、どのようなアクション(反応)を示したのでしょうか?先ず彼は、「霊の眼」ではなく「肉の眼」を選択したことです。つまり彼は、「約束の地」に到達しているにも関わらず、祝福の産物が休息に途絶えるや否や、「現実」の問題(飢饉)にのみ焦点を当て、自分の「意志」から「約束の地(将来のフィールド)」よりも、「エジプト(現実のフィールド)」を選択しました。彼は「この世」の情報(噂)を信じて、「ここよりも、あちら(エジプト)の方が祝福されているそうだ!あちらにも、きっと神の御心があるかも知れない。」という思いに傾いて行き、遂には「一時的に、エジプトに頼ったからと言って、神は決してお怒りにならないだろう。むしろ赦してくれるに違いない!」という勝手な判断(思い込み)から、エジプトに下って行ったのです。その結果、彼は霊的に失敗しました。しかし、アブラムは自らの失敗から、聖霊を通して素晴らしい「霊的教訓」を学んだのです。「肉の眼」を選択したという、自らの失敗から学んだ「霊的教訓」を得たことで、彼がその後どのように変革されたのか?このことについて、失敗だらけの私たちも学ぶ必要があります。


 先ず第一の重要ポイントは、エジプトにおける数々の失敗から学んだ結果、アブラムは再び聖霊を通して、「約束の地」に連れ戻された過程に見られます。しかし覚えて戴きたいことは、カナンの地は依然として、「飢饉」の最中にあったことです。つまり、聖霊様は決してアブラム集団を、「約束の地」が「飢饉」の時を終え、回復し始めた時に連れ戻した訳ではないことです。エジプトにおける失敗が、如何に父なる神の御心を悲しませたかを、聖霊を通して「知らされた」結果、彼は「約束の地」が今どのような状況にあっても、再び「帰る」ことを決断しました。


 この時に、アブラムは「何」を願い求めて、帰る決断をしたのか?これが第一の重要ポイントです。ロトは何の決断も無く、只々アブラムに付いて行くだけでした。「叔父貴は、いったい何を考えているんだろう?カナンは、未だ飢饉の最中にあるではないか!このエジプトで、たっぷり稼いでから帰還しても良さそうなのに・・・・。」などと、不満気に思ったことでしょう。しかし、アブラムは霊的に意気消沈しながらも、今度は聖霊様を通して、ある一つの「思い(願い)」を与えられました。それは、「神が、わざわざ約束の地として、与えて下さった故郷カナンに帰り、私は再び祭壇を築き直そう!」という、霊的ふり出し(原点)に戻るという聖なる思いでした。


 父なる神が、私たちにも聖霊を通して命じられることは、「あなたの霊の只中に、再び神の住まいである神殿(神の宮)を建て直しなさい!」ということです。私たちの「霊」の有様が、例えば荒れ廃れた状態にある時、私たちが霊的に何もしないまま傍観していることを、聖霊様は「良し!」とは言われません。聖霊様は、私たちがネヘミヤの如くに、瓦礫からでもいいから、少しずつ「神の宮」を築き直すことを、一番強く望まれているのです!ですから聖霊様は、私たちが霊的に様々な失敗を犯した時にも、「あなたは一つ一つの失敗を、アブラムのように霊的に学び、神の御心のみを豊かに現すべく、元あったポジションに立ち帰りなさい!そして、敵に荒らされた神の宮を、再びあなたの霊の只中に確立しなさい!」と励まして下さいます。


 聖霊様が示される「霊的ふり出し(原点)」とは、イエス・キリストとの「親しい交わり」に他なりません!このようにして、アブラムはカナンに戻って行きました。その時の、彼のたった一つの願いとは、「もう一度、父なる神との麗しい交わりの場である、至聖所(祭壇)を完成しなければならない!」ことでした。つまりヘブロンの地にて、再び自分の全てをもって、父なる神に礼拝する(捧げ尽くす)ことを最優先しなければ、本当の意味での「悔い改め」ではないことを、彼は悟っていたのです。このアブラムの決断は、非常に霊的に見て厳しい、聖霊様の促しから来たものです。彼は決して、センチメンタルな思い(慕情)から、「私は、もう一度やり直そう!私が悪かったんだから・・・・。」などという、消極的な行動に至ったのではなく、心の奥底から悔いた砕かれた姿勢で、父なる神の御元に一目散に駆け寄り、「私の罪を赦して下さい!私の全てをもって、あなたの祭壇に捧げます!」と告白したのです。


 ではロトの求めた「願い」とは、何だったのでしょうか?それはズバリ、「この世」がもたらす「私の繁栄」でした。アブラムの如くに、積極的に神ご自身を求めたのではなく、アブラムという「人」に付いて行けば、それなりの祝福にあやかるだろうという、ご利益主義から生じる「願い」でした。確かに父なる神は、エジプトからカナンに戻った彼らを、再び祝福し始めました。それは、「飢饉」の起こる以前の祝福以上のものでした。又ありとあらゆる祝福が、アブラム一族から流れ出るものですから、アブラムの飼っている「羊」なのか、ロトの飼っている「羊」なのか、全く区別がつかない程の祝福が、「羊」の数だけでも飛躍的に増加しました。


 その結果「争いが起きた」(7節)のです。互いに分離(独立)しなければならない程の、「争い」が生じたことにより、アブラムはロトに対して、好きな土地を選択して独立するように命じました。親族のロトと分離しなれけばならないことは、アブラムにとって非常に辛い経験でした。このことは、ある面でパウロが述べているように、私たちが「世」にある限り、「肉」と「霊」が対立し合うことに似通っています。「世的なこと」を求める者と、「霊的なこと」を求める者は、共存し合うことができません。聖霊様は、私たちが「世」と「霊」の二つを、同時に渡り歩くことを許されません!それ故、ロトは「何」を願い求めて、独立して行ったのでしょうか?彼は見た目に繁栄し、潤った「低地」に向かいました。つまり、彼は「世の水」を求めたのです。それに対して、アブラムは見た目には荒れ廃れた、「高地」にある神の「命の水」を求めました。これが第一の重要ポイントです。


「何」を土台とするのか?
 次に第二の重要ポイントは、二人はそれぞれその後、「何」を土台として生きたのか?ということです。ロトの場合、「世の水」を求めた彼の「肉の眼」は、低地一体をくまなく見渡した時に、「何と、ここは素晴らしい、潤った肥沃な土地が広がっていることか!」と驚嘆し、自分の選択が間違っていないことを喜びました。アブラムはロトの選択の結果、自分が向かうべき土地が、ロトとは逆の「高地」であることを再確認しました。つまり、彼はロトが選択する土地を、前もって知っていましたから、神が示される祝福の土地は、ロトとは逆の土地に導かれると確信していたのです。確かにロトは、世的に見て麗しい力あるフィールド、即ち現実に繁栄した町に住むことを選択しました。しかしその結果、今までの「争い(対立)」が無くなり、アブラムは逆に神の「安息」を得ました。


 実はこのことが、聖霊がアブラムに示された、「この世」からの分離だったのです。ですから、この時のアブラムには、「この世」を求めることが全く無くなり、何の執着も残っていませんでした。アブラムの中には、神の御心を求める「真の安息」が満ちていました。そしてロトに対しては、「ロトは、何と愚かな選択をしたのだろう!いつか彼は、この過ちに気付くことだろう。その時に、ここに戻って来てくれることを願うだけだ!」などと、とりなしの祈りを捧げました。このように、アブラムはロトと違って、神の「御心」を優先した結果、「肉の眼」で見えざる「命の水」が、何処から流れて来るのかを、明確に「霊の眼」で掴み取りました。それ故、彼は荒涼とした「高地」に辿り着いた時に、再び自分の「祭壇」を築き直し、父なる神の「約束の言葉」を待ったのです。父なる神はアブラムのこの行動を、こよなく喜びました。


 ロトの求めた土台は、「世の友になりたいと願う人は誰でも、神の敵になるのです。」(ヤコブ書4章4節)の御言葉の如くに、「世の友」となる土地(土台)を選択したことです。その証拠にロトは、確かにソドムとゴモラでも繁栄し成功しましたが、それと引き換えに「世の友」にならざるを得ない、苦境にその後陥って行きます。「世の友」となることは「神の敵」になること、これをあなた方は「知る」べきである!と、聖霊様は常に警告しています。それに対して、アブラムが霊的土台としたものは、「神の友」となることでした。サタンは、この土台を忌み嫌います。しかし、「神の友」となる道を選択した者に、サタンは決して手立てできないことを知って下さい!何故なら、神が「永遠の友」となって、その者を守り導いて下さるからです。


「その結果」どうなったか?
 その後二人がどうなったか、これが第三の重要ポイントです。ロトが「世の水」を求めて、「世の友」を土台として、「低地」を選択した結果どうなったか?それに対して、アブラムが見えざる神に従い、見えざる霊的な「命の水」を求め、見えるところは荒れ果てたような土地を選び、「神の友」となる人生を選択した結果どうなったか?これを私たちは、明確に「知る」必要があります。この記事については、13章8節以降に具体的に記されています。


 先ず私たちが「知る」べきことは、「世の水」と「命の水」の行き着く、最終地点(ゴール)は何処であるか?ということです。「世の友」となったロトは、「罪」に染まったソドムとゴモラの最前線で、次第に自分の霊的フィールドが侵されました。そして、最終的にこの二つの汚れた町は、「神の怒り」により焼き尽くされる運命を辿りましたが、アブラムのとりなしにより、奇跡的にロトと二人の娘だけは救出されました。しかし、彼はソドムとゴモラの罪から、完全に贖い出されていませんでしたので、何と愚かにも自分の本意ではなかったのですが、自分の実の娘と近親相姦の罪の罪を犯すという、最悪の道に陥って行きました。これがロトの選択した、「世の水」を求めた人生のゴールでした。


 しかしアブラムの場合、荒れ果てた砂漠地帯から「命の水」を掘り出すことによって、自分の生まれ故郷(ウル)の時以上に、遥かに優った「天の故郷(シオン)」を相続することができました。「彼らは更にまさった故郷、即ち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル書11章16節)


 私はこの章を書き進めるに当たり、聖霊様を通してある「啓示」を見せられました(それは、アブラムが見せられたものと、同じビジョンですが・・・・)。父なる神は、ある時アブラムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(14〜15節)と命じられました。このように言われた彼は思わず天を見上げ、くまなく東西南北を見渡し終えた時に、広大な砂漠地帯が果てしなく続く、シーンだけしか見えませんでした。


 父なる神は、実に不思議なことを言われます。彼にとって「肉の眼」で見る限り、彼の立っている所から全方向を見ても、砂漠しか存在しないのです。大きな岩肌と荒れた砂(硬質土)しか見えなく、それ以外のものは何も見えません!それでも父なる神は、「あなたが見ている土地の全てを、永久にあなたとあなたの子孫に与える!」と約束して下さる時に、彼は次のように自問自答したかも知れません。「これだけ広大な土地を、私たちに与えて下さるとは、何と素晴らしいことか!しかし永久に、このような砂漠を与えて下さったとしても、果して私の子孫は喜んでくれるだろうか?・・・・」と。


 しかし聖霊様は彼に対して、「否!否!否!父の真意は、あなたが考えるレベルにはありません。あなたが見る、土地の全てを永久に与えること、この中で一番重要な御言葉は、永久に与えることです。つまり、あなたが今見渡している土地ばかりか、これから将来に渡って見るであろう土地、それが肉の眼であろうが、霊の眼であろうが、あなた自身が見る土地の全てが、あなたのものになるのです!ですから、今見ているだけのレベルに留まるのではなく、これから与えようとして下さる、約束の土地(相続地)も、霊の眼で見るようになりなさい!」と諭しました。その瞬間に、彼は「ははー分かりました。仰せの通りです!」と思いを改めました。


 続いて父なる神は、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。」(16節)と、彼に言われました。ところで私たちは、仮に神からアブラムと同様に、このような約束の言葉を戴いた場合、果して私たちの「肉の眼」は、何処に焦点が向けられるでしょうか?恐らく砂粒が存在する大地、つまり「下」に焦点が向けられます。アブラムも思わず身を屈め、大地の砂粒を手にすくいながら、「うーん!今まで気付かなかった。確かに大地の砂粒は、とてもじゃないが数え切れない!」と自覚したことでしょう。そうです!実はこの御言葉に、重要な奥義が語られています。私たちの「肉の眼」及び「霊の眼」が、どのような方向で変革されていったらよいのか、このことが語られているのです。


 あなたは、例えば「見えるところは全てが砂漠、東西南北行けども行けども砂漠だらけ、他は何も存在しない。果して父なる神は、ここから奇跡を起こされるだろうか?」などと、三次元的な否定観念の方向に傾いて行くのか、それとも聖霊様を通して「否!あなたが見ている、広大で無限のフィールドから、砂粒の一つ一つを数えることができますか?数えられないでしょう。そう!父なる神は、数えられない程の祝福を、永久にあなたに与えると約束して下さっています。」などと、霊的に軌道修正されながら、たとえ「肉の眼」では何も産み出すことが期待できない、「見えざる(invisible)」土地であっても、父なる神はあえてその中に予定している、霊的次元で「見える(visible)」約束の保証を、確実に与えて下さることを欲しますか?


 私たちの信仰生活の中には、時折アブラム同様の試練に遭遇した時、「もう駄目です!主よ。私の霊的フィールドの中から、あなたが言われる素晴らしい約束の祝福が、果して本当に産み出されるのでしょうか?」などと、不信仰に陥ることがあります。又「現実(不毛の土地)」を見たり、過去の流れを見てしまい、「私の歩みの中には、今まで様々な苦しみがあった。その中であなたは、いつ如何なる時に成功という祝福を、私に与えて下さいましたか?アブラムは、確かに失敗も多かったのですが、それでもあなたは時々、祝福を与えているではありませんか!しかし私の人生には、成功と言えるものが一つもありません。」などと呟くこともあります。しかし聖霊様は、「否!あなた自身が先ず覚える(見る)べきことは、あなた自身の肉の力で、今の救いの恵みにあずかったのですか?」と、優しく語りかけて下さいます。


「霊の眼」をもって見なさい!
 バプテスマのヨハネが、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」(ヨハネ福音書3章27節)と証言しているように、神の全ての「良きもの」は、「天(上)」からのみ与えられる(産み出される)のです!仮に、私たちの側から産み出すものがあるとすれば、それは殆どが「悪しきもの」、つまり「罪」だけです。そしてその「罪」の一つ一つを、数え切ることのできる者は一人もいません。例えば私たちの、「肉の眼」から判断する「肉の思い」は全て、私たちの「現実のフィールド」に散在した「罪の塊」であり、それらを全て数え切ることができない程、私たちには三次元的束縛があります。


 私たちが、このような自分の「罪」の全てを、数え切ることができないのと同様に、父なる神の永遠に続く祝福は、私たちの「肉の眼」では、とても数えることができないものであり、私たちの「霊」のフィールドに、聖霊様を通して用意されるのです!又、父なる神は既に用意して下さっています。では私たちは、これから「何」を為すべきでしょうか?それは「霊の眼」をもって、「不毛の大地」の地下奥深くにある、「命の水」が豊かに流れ続けているシーンを、信仰をもって見ることです。そしてアブラムの如くに、実際に井戸を奥深く掘り進めて、聖霊様を通して汲み上げて戴くことを、へり下って求める(飢え渇く)だけでよいのです。しかし、私たちは自分の「肉の力」で、「霊」の中にある井戸から、「命の水」を汲み上げることはできません。私たち自身が為すべきことは、主なる神の前にへり下って、「命の源」イエス・キリストを、激しい飢え渇きをもって求めることです。


 変革された、アブラムが見た「霊的次元」は、私たちの信仰の歩みにおいても、「主よ、あなたが流して下さる命の水は、何処から流れて来るのでしょうか?」と、へり下って「命の水」を捜し求める時に、どんなに「不毛」に見える状況の中にあっても、聖霊様は必ず「命の水」を汲み上げて下さるもの、つまり永遠に続く「約束のフィールド」が相続されることです。アブラムは、二度と失敗することが無きよう、聖霊様を通して霊的に学び続けました。「命の水」は、自分の「肉のフィールド」から流れて来るのではなく、聖霊様が流して下さる「命の源」、イエス・キリストからのみ流れて来ることを。


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