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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.5)

                             喜びの叫び



わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高くあげるであろう。
                                                                                                                 【詩篇132篇16節】




アズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主を称えよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を、今日お与え下さいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にも優るあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」ナオミはその乳飲み子を懐に抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生れたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
                                                                                                          【ルツ記4章13〜17節】


 ルツは遂に「婚礼の儀式」を終え、愛する念願のボアズと「永遠の契り」にあずかる、つまり「夫婦」としての歩みがスタートしました。彼ら二人は「その日」から、正式に直接的な愛の「一体関係」に入ります。「ボアズは彼女のところに入った。」(13節)「その日」まで彼らは、間接的な「一体関係」にしかありませんでした。つまり前回で学びましたように、ルツとボアズは互いに「抱擁」こそしましたが、完全ではありませんでした。しかし「愛の契約」以後、ボアズは「その日」から、完全にルツ(永遠の花嫁)と結ばれ、「愛の一体化」が完成したのです。


「シオンの交わり」の奥義
 「シオン」は父なる神、御子イエス・キリスト、そして助け主聖霊様との、より高い霊的次元(聖なる高台)における、「親しい交わり」のフィールド(至聖所)であり、又それを求める人々の「総称」を指します。この「シオンの交わり」は、私たちの「三次元思考」では、「思い(考え)」も及ばないほどの緊密な関係(交わり)、つまり花婿と花嫁が「婚礼」を終え、夜半になって「寝所」にて為される、「初夜」という新婚夫婦の「性的交わり」に非常に似通っています。


 私たちが主イエス・キリストの、貴い十字架の「血潮の注ぎ」を受ける時、新婚夫婦が「初夜」の時に交し合うように、「完全な一体化」という霊的結合が、信じる「キリストの花嫁」全てに用意されます。先ず第一に、私たちは①開かれた神の「聖所」の中に、大胆かつ自由に進み行くことが可能になります。更に私たちは、②もっと先にある「至聖所」に入るために、もはや閉じられることの無い「垂れ幕」の内側を通過し、遂に私たちは③イエス・キリストの愛の臨在、父なる神の栄光の顕現、そして何よりも「至聖所」全体を、聖なる「ヴェール(覆い)」で包んでいて下さる、聖霊様の親しい「仲立ちの働き」に触れることができるのです。


 以上のように、「シオンの交わり」への三つのプロセスは、実は新婚夫婦の「初夜」の時に為される、聖なる「性的交わり」の流れに似通っています。これは既婚者の方々、しかも「その時」の体験を、「この上なき聖なる交わりとして受けとめ、共に一体化される恵み(喜び)を分かち合った、生々しい良き記憶」として大切にしながら、今も互いに愛し合っている夫婦にしかイメージできないものです。「初夜」を迎えた乙女(花嫁)は、愛する花婿に抱擁されながら、「その時」を待ちます。そして花婿は、いよいよ「一体化」するために、花嫁(聖所)の中に突入(進入)しようとする時、「一つの幕(処女膜)」を破らなければ、中に入ることが出来ません。


 花婿は痛がる花嫁を気遣いながらも、互いに「一体化」されるべく「一つの愛」を確認しながら、突き破ることをためらわずに、遂に花嫁の聖なる「垂れ幕」を破ることに成功します。しかしこの時、花嫁の聖所はこの「垂れ幕」が破れたことで、出血という犠牲が伴いました。しかし同時に花婿自身も、共に花嫁の「犠牲の血潮」を注がれることになります。これによって花婿が、花嫁の中に更に奥深く入ることが可能になり、「完全な一体化」がより前進します。


 ところで、「垂れ幕」が既に破られたからといって、「痛み」が既に収まっている訳ではありません。「痛み」自身は、花婿の愛の求めを更に受け入れ、「交わり」が深められるほど増加してくるのですが、彼らは「痛み」の後に来るものを求めている故、かえって「真の喜び」も増して来ます。それは、二人の愛の「一体化」の現れである、「愛の結晶(実)」が産まれて来るからです。そして何よりも、彼らは「完全な一体化」を欲しています。身も心も「一つになりたい!」という契りを、「性的交わり」という身体的結合だけでなく、精神的にも霊的にも完成されるよう、「完全な一体化」を求めているのです。


 このように、私たちが至聖所の「垂れ幕」を通過する時に、この「垂れ幕」を破られた方はイエス・キリストだけであり、贖いの子羊イエス・キリストの、十字架から流れ出る聖なる「血潮の注ぎ」によって、私たちも大胆かつ自由に奥深く進入できる、霊的特権が与えられていることを覚えようではありませんか!ですから、私たちが「垂れ幕」の内側に侵入する時、「何」を求め信じるかが重要です。この「垂れ幕」を前にして、私たちは次のような「悔い改め」の時が備えられます。子羊イエス・キリストの、貴い十字架の「贖いの御業」により、何よりも滅ぼされるべき私の「霊」が、イエス・キリストの十字架を見上げた時に、私の「霊」に代わってキリストご自身が、私の全ての「痛み」を担って下さったことを覚え、感涙にむせびます。そして、今もイエス・キリストの十字架から、聖なる「血潮」が私の「霊」に注ぎ込まれるのを受け取った時、「あーイェス様、感謝します!私はもっとあなたを愛し、そして一つになりたいのです!」と告白しながら、「至聖所」に入って行くことになります。


 それ故私たちは、イエス・キリストの十字架から流れ出る、この貴い「血潮の注ぎ」を受ける時、私たちの「霊」だけでなく、イエス・キリストご自身も、共に「痛み」を担っていることを覚えようではありませんか!私たちは、イエス・キリストの「痛み」を感じ取った時に、それが「自分の罪」故であったこと、そして滅ぼされるべきこの身に、「御子」を与えて下さった「父の愛」に対して、私たちは「愛するイェス様、有難うございます!あなたの十字架の血潮を、私にもう一度降り注いで下さい!どうぞあなた様の、奥深い愛の領域に入らせて下さい!」などと、霊的にへり下らされます。そして遂に私たちは、霊的な最終ゴール「至聖所」にて、父なる神の「愛」、御子イエス・キリストの「恵み」、聖霊の「親しき交わり」にあずかるのです。そうです!父・御子・聖霊との「完全な一体化」の生活が始まります!今まで考えられないほどの、より深められた「親密な交わり」が、この三位格の神との間に完成されていくのです。


 「至聖所」の交わりにあずかった者は、必ずあることに気付かされます。それまでは、「自我」という最大の罪との闘いに、肉的に悪戦苦闘していたものが、「シオンの交わり」に導かれて行く中で、自分(己)の手(肉の力)に依らず、いつしか自然と聖められつつあることです。私たちの「霊」は「肉の次元」に支配され、自己中心的な生き方をせざるを得ない、肉的「弱さ」の中にありましたが、「シオンの交わり」を求めて、「贖いの子羊」イエス・キリストの、貴い十字架の「血潮の注ぎ」を受ける時に自然と造り変えられ、自分の「霊」が「聖さ」を欲し始めます。そして、イエス・キリストの「聖さ」に覆われる時、自分の「霊」が「張り裂けるばかりの喜び」に、満ち溢れていることに気付きます。そして更に私たちは、霊と真による「喜びの叫び」を、神に向かって叫ぶようになります。何故私たちは、「喜びの叫び」をあげるのでしょうか?それは、「シオン」にのみ完全な愛の「一体化」があり、私たちの「霊」が神の「命」の中に完全に覆われる(包まれる)時、私たちは「最高の喜び(至福)」に満ち溢れるからです。


 「夫婦の交わり(契り)」が、誰も立ち入ることの出来ない、絶対不可侵の「神聖な儀式」であるように、私たち「キリストの花嫁」と、花婿イエス・キリストとの聖なる「シオンの交わり」は、サタンも侵入することができない「神聖な領域」です!それ故、サタンは「聖所」の門前にて、アダムとエバに為したように、様々な「偽りの言葉」をもって、霊的に誘惑してくることを覚えておいて下さい!


主の慈しみに生きる
わたしの慈しみに生きる人は・・・・
 先ず、「主(わたし)の慈しみ」とは何でしょうか?主なる神が、私たちに与えて下さった最高の「慈しみ」は、イエス・キリストの「愛」そのものを表します。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます」(第一ヨハネの手紙4章16節)


 父なる神の属性(ご性質)の中で、一番際立った最大の特徴あるもの、それが「愛」です。ですから、「主の慈しみ」はイメージ的に、「花婿の愛に抱かれる花嫁の姿」に見られます。あなたは、花婿イエス・キリストの「愛」に抱かれているイメージを、常に「霊」の中に思い浮かべていらっしゃいますか?又、あなたは花婿イエス・キリストに、完全に抱かれる「花嫁のフォーム(自分のこと)」を、求めて生きていらっしゃいますか?


 第二に、父なる神が与えて下さっている、最高の花婿イエス・キリストの、完全な「愛」に抱かれながら「生きる」とは、具体的にどのようなことでしょうか?「〜に生きる」とは、英語で「live in〜」と表現しますが、この「live」という言葉の意味する奥義は、単なる「家」の中に「住む」という、適当な意味の表現ではありません。ルツがボアズの中に「live」する時、それは決して「住居を共にする」ことだけを意味するのではなく、ルツの「人生」そのものが、「愛するボアズの命の中にあってのみ存在し得る」という、「全き信頼関係」の中で生きることです。


 つまり、夫婦が共に「live」する時、それは互いの「人生」全てを共有し、妻(夫)の「人生(命)」の中に、夫(妻)の「人生(命)」を託すことを意味します。「あなたがいなければ、今の私は在り得ないし、これからの私の人生(命)は、あなたの命の中に在ります!」これが「live in」の中心概念、即ち「相互内在」という、全き信頼関係(交わり)の中で生きることです。ですから、「夫婦関係」が破綻して行く最大の要因は、その殆どが「存在否定(無視)」という、「相互内在」に相反する概念(考え方)に、夫婦共々陥ることから始まります。このように「主の慈しみ」に生きるとは、愛する花婿イエス・キリストの、完全な「愛」の中に私たちが生きる時に初めて、私たちの「霊」が完全に「生きる」ことができるという、霊的へり下りの表明です。


 「〜に生きる人は・・・・」の表現は、文法的には「条件節」です。つまりこの表現を換言しますと、「主の慈しみに生きるならば、その人は・・・・」という内容になります。又逆説的には、「主の慈しみ以外のものに生きるならば、その人は・・・・」という、別の選択肢も含んだ内容になります。つまり、「〜に生きるならば」という「条件」は、「それ以外のものに生きる」ことを、自由に選択して生きても構わないことも述べているのです。そこで私たちは、「主の慈しみ」以外のものを選択して、自由に受け取った時にどうなっていくのか?この点についても学んでおくべきです。


 先ず、「主の慈しみ」だけを求めて生きる人は、人生の「最終ゴール」として、「喜びの叫び」に行き着きます。如何なる「喜び」でしょうか?それは花婿イエス・キリストとの、永遠に続く「聖なる交わり」からもたらされる「喜び」です。父なる神が、私たちに与えようとしているものは、常に「永遠」のものであり、必ず「聖さ」に至るものです。又、途中で破綻したり一方的にリストラされたり、又時には不幸に遭遇したり、突然悲しみが襲うなどの有限的なものではなく、永遠に続く完全な「愛の支配」が、その人の「人生(命)」を支え続ける「約束の保障」です。ですから、私たちは「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続ける」(ヘブル書3章6節)時に、「喜びの叫び」を「シオン」から発することができるのです!


 では、「主の慈しみ」以外のものに生きる人々は、最終的にどうなるのでしょうか?彼らは決して、主イエス・キリストの「慈しみ」、即ち「愛」を求めることはなく、「あの時はあなたを求め、あなたに従いましたが、今の時は私自身で決めますから・・・・」などと、限定的(条件付)信仰生活を選択する人々です。彼らはイエス・キリストとの、「親しい交わり」においてだけではなく、普段の信仰生活や人間関係においても、条件付生き方を選択します。例えば夫婦関係においては、「完全に相手の中に、自分の人生(命)を捧げ尽くす」生き方ではなく、相手(パートナー)が自分の人生に役に立たなくなけば、即必要としなくなるなど、一時的かつ自己中心的生き方を選択する傾向にあります。


 「主の慈しみ」は、永遠に続く「完全な一体化」を生み出しますが、それ以外のものは決して永遠に続くことの無い、有限の(一時的な)「喜び(自己満足)」しか生み出しません。「この世」のものを選択しますと、三次元的に見て「善きこと」が起こると狂喜しますが、それは決して長続きはしません。そして今度は、逆境に陥って「苦しみ」が起きると、「悲鳴」「文句(呟き)」「不平」などの、悪しき叫びしか出て来ないことを、私たちは十分知っています。私たちキリスト者も、実は様々な試練に遭遇する時、「感謝」と「喜び」の叫びではなく、「肉の唇」から「不信仰の言葉(叫び)」を、つい吐くことがあります。これはある面で、「主の慈しみ」を否定することにつながります!


 「主の歩み」は、確実に私たちの元に訪れ、「主の導き」は確かに正しい方向へと、私たちを伴って下さるものです。それを受け取ることが出来ない時に、私たちは「怒り」と「悲しみ」、そして「苦しみ」「不平」「不信仰」などの叫びを発するのです。しかし覚えて下さい!「主の慈しみだけが、私を支える全てである!」ことを。それ故「私は、主の慈しみだけを受け取りたいのです!あなたをもっと、求めて止みません!」などと欲する、「霊的飢え渇き」が起きることを、祈り求める必要があるのです。


喜びの実
 ルツは、自分が選択した訳でもないのに、ボアズと「夫婦の契り」を結び終えた後で、自分の人生を振り返りながら、ボアズの愛に抱かれる生活を描き続けたことでしょう。特に「初夜」の出来事が、彼女の人生にとって最高の、「喜びの時」であることを覚えながら、「神の時」を過ごしました。すると、次第に自分の腹が膨らみ始めたことに気付き、ルツは自分の膨らんだ腹を見る度に、ボアズとの「一体化」によって始まった、「愛の結晶」が産まれ出る「その時」を、心待ちしながら次のように告白しました。「主の憐れみは、何と美しい(麗しい)ことでしょう!又、主の慈しみに生きることを、選択するよう導いて下さった聖霊様、心から感謝します!」と。そしてルツは、自分のお腹の中に存在する、未だ見ぬ「赤子」に対して語りかけます。「あなたは、愛する方と私の愛の交わりによって、主が賜って下さった喜びの実(叫び)ですよ。そう!私の中に、主の救いの喜びが生きているのね!主の慈しみは、計り知れない恵みを私の人生に、そしてナオミお義母さんに与えて下さったのよ!あなたも喜んでくれるかしら?・・・・」


 「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(第一テモテの手紙2章15節)何と、この異邦人ルツから産まれ出たオベドが、イエス・キリストの血筋の源ダビデの祖父になるのです。それ故、私たちは「ルツ記」を読み終えた時に、聖霊を通して「新しい導き」を教えられるでしょう。それは、父なる神の「愛」のご計画が、私たちの「思い(計画)」を遥かに超えた、神の麗しい次元で進められている!ことを。父なる神の「愛」のご計画は、永遠に続く聖なる「慈しみ」であり、私たちが生まれる前から、つまり母の胎に命を宿した時から、「御心」通りに進められています。


 私たちは、一時的に「苦しみ」を通過させられたり、又どうしようもない所(状況)にまで、追いやられることもあるでしょう。しかし、ルツとナオミが共に励ましあって、父なる神の「慈しみ」にのみ生きることを選択した結果、彼女たちはその後の人生において、父なる神の「愛の実」を刈り取ることができたのです!この彼女たちの「霊的へり下り」に、私たちも真剣に学び直す必要があります。そして私たちは、「霊的飢え渇き」から「信仰生活」全般に渡って、次のような「信仰の基礎」を、私たちの「霊」の只中に堅く据えるべきです。「シオンこそ、私の求めて止まない霊的フィールド、そこには父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊様との完全に結合した交わりが用意され、私は霊と霊の交わりの場、つまり至聖所において、私の命を完全に捧げ尽くします。何故なら、シオンこそ永遠に続く完全な愛の支配があり、シオンから内なる霊において新しい創造が始まり、又既に形作られています!」。


 「主を賛美するために民は創造された。」(詩篇103篇19節)の御言葉通りに、私たちは必ず「新しく」創造されていくことでしょう。その理由は、父なる神との「親しい交わり」を更に求めて、私たちが「主の慈しみ」の中にのみ、常に生きるようになるためです。そうする時に、ルツとナオミにもたらされた「神の祝福」が、私たちの「人生」にも必ず用意されます。


 またスカルの女性が、ひたすら求めて止まなかった「霊と真による礼拝」を、私たちも同様に求め始める時、如何なる「慈しみ」が追って来るのでしょうか?それは、まさしく花婿イエス・キリストの「愛」であり、これを選択し受け取った彼女は、この方から「永遠の命」に至る生ける「命の水」を、常に飲み続ける「神の祝福」にあずかったばかりでなく、更にサマリヤの住民にこの「命の水」を、豊かに流す「祝福の源」となって、サマリヤの「霊的収穫」に携わって行くことになりました。同様に私たちの「霊」の只中にも、豊かな「シオンの回復」が始まり、遂には神の「ご計画」通りに、聖霊の「霊的大収穫」に馳せ参じる、へり下った「キリストの花嫁」へと変革されることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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