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Terminal Faith(No.26)

       「放浪」を経た末に




・・・・ステパノは言った。「・・・・私たちの父アブラハムがメソポタミアに居て、まだハランに住んでなかった時、栄光の神が現れ、『あなたの土地を離れ、私が示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムは・・・・ハランに住みました。神はアブラハムを・・・・ハランから今あなた方の住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした。しかし、その時・・・・神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間・・・・虐げられる。』更に、神は言われました。『・・・・その後、彼らはその国から脱出し、この場所で私を礼拝する。』
                                        【使徒行伝7章1~7節】


「放浪の人」アブラハム
 「放浪」とは、様々な地を求めてさすらう(旅する、移動する)ことです。使徒行伝の記述者ルカは、敵を前にしても、決して怯むこと無く、神のメッセージを大胆に伝えた、ステパノの信仰の土台(原点)を、具体的な記述が全く無い訳ですが、読み手である私たちに、聖霊様を通して霊的に描いています。


 ステパノが最後に語ったメッセージのベース(土台)は、多分に「詩篇104~106篇」の中に見出されます。彼は幼少の頃よりイスラエルの歴史、特に①主なる神が何故、アブラハムという名も無き、一人の人物を選び召して、②イスラエルの地に導いたのか?また③その後のイスラエル民族は、如何なる変遷を辿ったのか?その事に関心を持ちながら、詩篇を口ずさんだのではないでしょうか。


 今回のステパノのメッセージのキーワードは、①country(国土)、②land(地域、地方)、③place(特定の地)という、「土地」を表す言葉です。アブラハムが最終的に導かれた地は、実は③placeになります。彼はイスラエル民族にとって、「建国の父」ではなく、あくまで「信仰の父」と呼ばれています。彼には子孫に残す(相続する)べき、広大な土地はありませんでした。


 ご存じのように、イスラエル民族は歴史的に見て、長きに渡って民族移動を強いられる、「放浪(流浪)の民」でした。しかし彼らの信仰の土台にあるものは、主なる神が必ず「故郷の地に連れ上って下さる」という、確固たる確信(祈り)でした。その故郷とは、カナン地方やシオンの地という、特定の名称を指すのではなく、「神が特別に選んだ場所(place)」を意味します。


アブラハムの信仰の旅程
 このように「信仰の父」アブラハムの旅程は、今に生きる私たちキリスト者の、信仰の歩みの「雛型」であること、これが今回の記事から示される、第一の重要ポイントです。私たちは自分の力によって、また自分が望んだ(欲した)から、日本民族として生まれた訳ではありません。全てが主なる神の「選び」と、神が永遠に意図する「ご計画」の中で、あなた(私)は「日本国」に、日本人として「生(命)」を授かったのです。その事を信仰によって意識する時、自分の「歩み」が、アブラハムの「歩み」と同じように、神の偉大なる「選び」にあることが分かります。


 アブラハムに対して命じた、主なる神の最初の「召し(Calling)」は、①メソポタミア(country)のウルを離れて、②ハランの地(land)に移住することでした。ここで覚えて戴きたい点は、アブラハムが神から命じられたから、仕方なく移住したのではなく、主なる神が「主役(主君)」として命じ、その「ご命令」に対して、アブラハムが素直に信じて行動したことです。


 最終的にアブラハムが辿り着いた地(land)は、ベエル・シェバでした。その間彼は、シケム→ネゲブ→エジプト→マムレ→ゲラルと、各地を転々とする移動(放浪)の連続でした。最後の地であるベエル・シェバは、語源としては「井戸」を指す言葉です。その地において彼は、ようやく「安住の地」を見出し、真実の神に礼拝を捧げることが出来ました。そうです!生ける「命の水」が尽きること無く、豊かに流れ出る「場(this place)」、それがベエル・シェバです。


 主なる神は、ご自分を慕い求めて飢え渇く者に対して、神が備えて下さる特別な「場(this place)」を、必ず用意して下さいます。それが霊的なベエル・シェバです。ですから私たちの信仰の旅路にも、神が導かれる旅程(霊的ツアー)が転々とあり、私たちが霊と真をもって、真実の礼拝を捧げるべく、最終ゴールとしてベエル・シェバ(this place)が用意されるのです!イスラエル民族の歴史は、神ご自身が一方的にアブラハムを召し出し、彼を大いなる国民の祖(始まり)とすべく、最終場所は定まっていなかったにも関わらず、様々な地(land)を放浪することで、神が臨在する場所をベエル・シェバと定め、そこに祭壇を築いて礼拝を捧げたこと、この神との「契約」から始まっているのです。


「放浪」を経て学んだこと
 アブラハムが「放浪」の旅を経て学んだこと、これが今回の記事から示される、第二の重要ポイントとなります。彼が学んだこと、それは第一に①主なる神の一方的な「選び」と、神の偉大なる「召命」は、決して変わることが無いこと。第二に②次の地へと移動(放浪)する度に、様々な地を転々とした中において、神の「ご計画」が、全てを「益」とする為の、神の偉大なる配慮(取扱い)であること。第三に③彼(私たち)に用意される、最終的な「場(this place)」が、まさしく約束の地であることです。


私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海も無くなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁のように用意を整えて、神の元を離れ、天から下って来るのを見た。その時、私の玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共に居て、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死は無く、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする。」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」と言われた。また、私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価無しに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり、その者は私の子となる。」
                            【ヨハネ黙示録21章1~7節】


 この預言の御言葉が、私たち「キリストの花嫁」に与えられる、最終的な「場(this place)」を教え示しています。永遠に私たちが創造主を崇める場、それが「新しい天」、そして「新しい地」です。そこは、決して滅びることの無い、主なる神の麗しい霊的次元、即ち真実の神の「聖さ」に満ち溢れ、「命の水」が豊かに流れる場です。そうです!これが、私たちが遂に掘り当てる、最後の「ベエル・シェバ」となります。


 アブラハムはベエル・シェバに辿り着いた時、如何に素晴らしい、創造主の「安息」を得たことでしょう。真の花婿なるイエス・キリストは、私たちにも命じられます。「渇く者よ、私の元に来なさい。私が無代価で、惜しみ無く命の水を飲ませよう。」聖霊様も、あなた(あなた)に命じます。「見よ、私は新しいことをする。今にも事が起こり、それが次々と成就するであろう。だから準備をしなさい!大収穫に備えて。


 私たちは何となく、この世を「放浪する(さすらう)」如き者です。しかしその信仰の「旅路」の結末(終点)は、聖霊様が結実して下さる、素晴らしい「ベエル・シェバ」です。ですから、先ずはあなたが、神の御言葉を純粋に慕い求めて、聖霊様が用意して下さる、一つ一つの「場(this place)」において、霊と真による「真実の礼拝」を捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの勝利の聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年9月10日のメッセ-ジ)


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