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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.22)

     真実な「契約」に基づく信仰




そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決して致しません。
                                   【ダニエル書3章18節】


人は「何」によって生きるのか?
 私たちキリスト者が「今」という、大変な時代に生かされている理由は、この世が与える最終的な恐怖、即ち自分や家族の「死」を前にした時に、信仰の基礎を何処に置いているのか?これが試される為に他なりません。ご存じのように悪魔サタンは、私たちに対して様々な「罠」を仕掛けています。その最大の「罠」が、「この世」のものと調子を合せることで、自分の「命」を生き永らえさせることです。


 そうです!サタンは常に、神が天より賜る「命のパン」よりも、「この世」が提供する「パン(現実の糧)」を見せて、「この世」で生きる為の方策を求めるよう、盛んに誘惑して来ます。例えば「あなたが自分の信仰を守りたいのであれば、ある程度この世と歩調を合せることも、神は良しとされますから。」などと。


 しかし聖霊様は、「否!あなたは決して、この世に妥協してはなりませ!天上におられる真実な方(創造主)に、更に激しく飢え渇き求め、天から賜る命の水こそが、汚れが全く存在しない、聖い純粋な生ける水であるかを悟り、これのみを激しく求めることで初めて、私たちが正しく生き永らえることが出来るのです!」と、霊的に軌道修正して下さいます。


(たとえ)そうでなくとも・・・・
 私は以前、ダニエルの三人の友人の「信仰」を、彼らだけに特別与えられた、完璧かつ優れた「賜物」と認識していました。実は18節の御言葉の中には、ある重要なイメージが、神の奥義として描かれています。そのイメージとは、例えばあなたが聖く、汚れの無い乙女(処女)である時に、あなたの愛する婚約者が、「貞操を堅く守り通すべく、私は自分の生涯をかけて、共に死を乗り越えることの出来る、永遠の約束を今、共に交わし合いましょう!あなたが私の愛を守り通す限り、私も死を乗り越えることの出来る、真実の愛をあなたに捧げます!」と言って、暫くの間「旅」に出かけたとします。


 その後暫く経ってから、ある国の皇太子が、偶然にもあなたと出会い、一目惚れして「麗しい姫君の如きレディーよ、私はあなたと出会うべくして、今まで生きてきました。私と共に豊かな人生を共有し合うべく、私の花嫁になっておくれ!そうでなければ、私は生きている理由が無い。今、私のプロポーズに、Yes!と答えてくれないのであれば、あなたの今後の人生はもとより、あなたの婚約者の命も保証できないから。」と、婚約者との「約束」を破棄するよう、強引に脅してきた場合、あなたは如何なる返答をしますか?


 このイメージから示される重要ポイントは、聖なる「契り」、即ち真実の「契約」に基づく、二人(花婿及び花嫁)の愛の関係です。ダニエル及び彼の三人の友人は、創造主なる神に対して、如何なる「契約」を交わして、自分の人生を捧げていたのでしょうか?18節にある、あの有名な「たとえそうでなくても・・・・」だけが、信仰の黄金律(最高標語)として、様々にクローズアップされますが、その後に続く言葉の方が実は重要となります。


 彼らは具体的に、「たとえ三次元的な事実として、私たちの信じる真の神が、燃える炉の中から私たちを救出しなかったとしても・・・・」と返答しました。彼らが返答した神の「救い」が、言葉の意味としては、非常に矛盾する次元を説明しています。何故なら「燃える炉の中」自体が、「救い」の無い死の領域であり、そこに放り込まれた時点で、神の「救出(贖い)」の可能性が、ゼロパーセントになるからです。


 彼らの信仰表明は、三次元的事実に基づいて「~した場合には・・・・の契約を無効とさせて戴きます!」などの、一般的な商業上の取引契約ではなく、主なる神の真実に基づく、「永遠の契約」を結んでいるのです。そうです!彼らの「契約」は、喩えて言うなら真実の「婚姻」、即ち花婿と花嫁(乙女)が結ぶ、純粋かつ聖い契約と言えます。


 彼らは「たとえそうでなくても・・・・」と明言した後に、二つの重要なメッセージを、バビロン帝国の王に投げかけました。「王なる方よ、①私たちはあなた方が信じる神々とは、契約を一切致しません!②目の前にある金の像にも仕えません!」と。別の表現をするなら「①私は花嫁として、愛する花婿との婚姻契約を果たすべく、他の一切の男性たちと契りを交わすことはありません。②目の前に登場した、身分の高い皇太子が、あらゆる力をもって申し出て来ても、私は自分の命を懸けてお断りします。」という意味です。


 彼らのこの信仰は、何処から来るのでしょうか?それは聖なる乙女が、「最高(最上)の愛」をもって、「婚姻」契約を結んでいる!という、花婿に対する純粋かつ真実な関係から来ます。この聖い関係を、私たちは「純潔」と呼びます。それは一切の「汚れ」を入れない程の、強固な純粋性を現わす言葉です。この「純潔」を守ることは、肉の次元では為し得ません。聖霊様が「聖なる油」を注ぎ、悔いて砕かれた者のみが、聖霊様の取扱いを更に受けることで初めて、少しずつ聖められて行く次元にあります。


自らを聖別しなさい!
 さて私たちは、「この世」を恐れるのか?それとも神との聖なる「関係」を失うことを、正しく畏れるのか?それが問われる、「終わり」の時代に生きています。真実の「契り」は、永遠に聖なる神、創造主が持っておられる、純粋な不変の「愛」の中に、真摯に生きることから始まります。


 「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなた達の中に驚くべきことを行われる。」(ヨシュア記3章5節)聖霊様は、イスラエル部族の新しい指導者、ヨシュアに対して先ず命じました。「自分自身を聖別しなさい!」と。敵との戦いを前にして、自分自身を聖別することは、別に難しい次元にありません。目の前に広がるのはヨルダン川の激流、即ち前進したら「死」の危険性がある領域です。


 それ故に私たちが、主なる神との麗しい関係を思い起こし、神が偽らざる真実な方であり、決して変わること無く、私たちの為に働き続けていることを、純粋に信じるのであれば、私たちの中にある三次元的な汚れの、一切を神の祭壇に捧げて、神ご自身が聖なる方である以上、私たちも聖なる状態へと造り変えられること、これが自分自身を聖別することです。


 続いてヨシュアが宣言した「主は明日・・・・」という表明は、文字通り「今日も明日も(私たちは)死ぬことは無い!」という、永遠の「約束(契約)」を保証する言葉です。そうです!私たちと主なる神との、間にある(成り立たせている)「契約」は、聖なる「純潔」関係にあります。私たちの花婿なる、主イエス・キリストは、何の為に帰って来られるのでしょうか?それは「しみも傷も汚れも一切無い、麗しい花嫁を迎える」ためです。


 ですから真の花婿は、「愛するあなた(私)が、ずっと純潔でいてほしい。麗しい純粋なあなた(私)を、栄光ある御国の婚礼の場において、共に祝宴の時を持ちたい。それだけではなく、永遠の愛を保証すべく、御国に住まいを用意しよう!」と、「その時」を今か今かと、激しく恋焦がれているのです。


 彼ら三人の「霊」を捉えて離さないもの、それが神に対する「純潔」の信仰です。「たとえそうでなくても、私たちは愛する主に対して、私たち自身の純潔を、自分の命を懸けて捧げ尽くします!」と。これが私たちの「純潔」を守る、信仰の礎(基礎)となります。今の「終わりの時」、この世と妥協したら、二度と純潔の信仰を得られません。


 あなたが聖霊様の「聖別」と「憐み」を、「今の時」に敏感に受け留めるのであれば、主なる神の聖い「取扱い」の中に膝を屈め、身を委ねて参りましょう!「聖霊様!どうぞこの私を、神の麗しい聖い器へと造り変えて下さい。この汚れた私は、霊的に弱い器です。どうぞ弱い私を金のように、しかも純金の如くに造り変えて下さい!」と祈りながら。


 主イエス・キリストの豊かな、麗しい聖い「契り」と「働き」の中に、あなたが更に「純潔」な花嫁として組み込まれ、聖霊様に対して信仰を働かせながら、花婿なる方との聖なる「一体化」を、激しく求めることが出来ますよう、主イエス・キリストの勝利の聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年7月16日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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